黄瀬くんの調子が良かった。今日は久しぶりに青峰くんと1on1をする、と僕に携帯を見せて黄瀬くんは申し訳無さそうに笑ったので、先に帰ることにした。

着替えるために部室に入ると既に殆どの部員は退出していて、ただ一人、緑間くんが今まさに帰ろうとしているところだった。

「お疲れ様です」

「ああ」

挨拶を交わし、着替えに取り掛かる。


「黒子」


ドアノブに手をかけたまま、顔だけをこちらに向けて緑間くんが呼んだ。あまりに真っ直ぐ僕を見てくるので、普段無表情と言われる顔が緊張する。それは決して恋だとかそういう類のものではなく、心理を読まれるような、探られるような視線が不快だったからだ。緑間くんは協調性に欠けるが基本的に良い人だ。なんだかんだ言いながらも、チームメイトを思う気持ちは人一倍だと思う。でもだからこそ嫌なのだ。彼は鋭いから、いつもピンポイントで核心を突いてくる。

「何ですか」

本当は聞きたくない。何となく予想はついている。彼が言わんとしているのは僕がここ最近ずっと気付かないふりをしてきたことに関してだろう。


「…黄瀬は、風邪ではないだろう」


黄瀬くんの声が出なくなってもうすぐ一週間といったところだろうか。普通ただの風邪で喉を痛めた程度ではここまで長引いたりしない。それは誰も口にはしないが、気付いていることだ。何より本人が一番思っていることだろう。僕だって同じだ。黄瀬くんは風邪を引くと必ず熱を出していたのに、今回はそれがないどころか咳すら出ていない。時々声を出そうとして咳払いはするが、他に風邪と思しき症状が全くと言っていいほどないのだ。

黙ったままの僕に緑間くんはひとつ息を吐き、続けた。

「俺は医学の知識など無いから詳しくはわからないが…恐らく、黄瀬の声が出ない原因は、」

やめてくれ。それは僕がずっと避けてきた、僕が一番認めたくないことだ。胸の内に押し込めて蓋をしたことだ。それを言葉にしたら、本当にそうなってしまいそうで。恐ろしくて、そう思ったことさえ無かったことにしてきたのだ。だから。


「精神的なものではないのか?」


頭を思い切り殴られたような、もしくは腹に鈍器がめり込んだような。とにかく物凄い衝撃が僕の中に走った。
本当はわかっている。黄瀬くんが風邪ではないこと。黄瀬くんの症状は精神的負担からきていること。僕が必死に目を瞑って見ないようにしてきたのは、黄瀬くんがそこまで追い込まれていたことに全く気付きもしなかった自分と、黄瀬くんが僕に何も話してくれなかったという事実を認めたくないからだ。黄瀬くんは僕に凄く懐いてくれて、好きだと伝えてくれたし、嬉しいことや楽しいことを共有しようとしてくれた。黄瀬くんは僕を見つけると、他の人には向けない特別な笑顔を向けてくれて、それが僕の楽しみであり、幸せだった。
でも彼は決して自分の弱っているところを僕に見せてはくれなかった。赤司くんに怒られても、青峰くんに辛い言葉を掛けられても、僕の知らない女の子に理不尽なことを言われても、彼は僕には絶対に傷付いた表情を見せない。でもそういうとき、決まって彼の笑顔は雑誌の中のそれと酷似する。貼り付けて、隠すための笑顔に。事実を隠されたということよりも、万人に向ける笑顔を僕にも向けられたことが、僕には酷く悲しかった。

「黄瀬と何かあったのか?」

「…いえ、特には」

少なくとも僕は何もなかったと思っている。黄瀬くんが話せなくなっても、僕は態度を変えたりしていない。ただ、彼の気持ちを汲み取って言葉にしてあげるようにはしているけれど。僕から見る限り、黄瀬くんの態度もあまり変わっていないように思う。強いて言うなら、スキンシップが少なくなったくらいだろうか。黄瀬くんの声が出なくなった日の朝、突然後ろから抱きつかれて僕が驚いたので控えるようにしているらしい。正直、少し寂しい。黄瀬くんのスキンシップは偶に暑苦しく思うけれど、嫌なわけではない。抱きつくのも僕にだけだし。黄瀬くんは人懐こいけれど、それでも僕だけの特別な動作がある。だから僕はその動作によって黄瀬くんの愛を感じ、安心することが出来るのだ。でも僕はそれだけで満足出来なくなってしまった。黄瀬くんと一緒にいるうちに、僕は随分と欲深くなった。黄瀬くんの思うこと、感じること、もっと沢山教えて欲しい。傷付いたことも悔しかったことも。黄瀬くんは何があってもいつも気丈に振る舞って、周りを明るくしようとする。自分のことなど二の次にしてしまう節があるのだ。さらに黄瀬くんはああ見えて完璧主義者だ。自分の弱い面を他人に見せることを良しとしない。全部自分の中に押し込めて、ひとりで解決しようとする。それを黄瀬くん自身がわかっているのか、それとも無自覚かはわからないが、僕が思うに恐らく後者だ。だから黄瀬くんが自らそういう面を見せてくれるようになるまで僕はただ黄瀬くんの側にいようと決めた。黄瀬くんが本当に心を開けるように、僕は黄瀬くんにとってのそういう存在になろうと思った。
でもそれでは間に合わなかった。自分ひとりでは到底持ちきれない程の荷物を黄瀬くんは無理矢理背負い込んだ。そして案の定黄瀬くんはその重さに耐えられなかったのだ。
黄瀬くんが自ら僕に弱い部分を見せてくれるなんてことがそう簡単にあるわけがない。だって彼がひとりで考え込んでしまうのは無意識なのだから。自分でもわかっていないのに、自発的にそれを止めるなんて出来るわけがない。当然だ。僕は黄瀬くんからの歩み寄りを待つというのを建て前にして、自ら黄瀬くんに近付くことから逃げた。ずっと、何もかも黄瀬くんから与えられるばかりで、それに甘えて。


「黒子」


もう一度、緑間くんが息を吐いた。こんなにも弱い僕に、彼もさぞ呆れていることだろう。
逸らしていた視線を緑間くんに戻すと、やはり彼は少々呆れ気味の表情を浮かべていたが、それは幻滅しているようなものではなく、少々困ったような顔だった。

「黄瀬と話をしたらどうだ。お前の考えていることをあいつに伝えるには言葉にするのが一番良いだろう。何せあいつは生粋の馬鹿だからな。…そもそも、何でもかんでも抱え込み過ぎなのだ。黄瀬も、お前も」

拍子抜けした。僕の思考は少しの間停止し、緑間くんの言葉を理解するのが遅れてしまった。まあ、確かに。緑間くんの言うことは実に的を射ている。

「…そうですね」

「それから、」

もう既に半身を部室の外へ出した状態で、緑間くんは立ち止まった。

「話を聞くくらいなら、俺もしてやらんこともない」


そのまますぐ部室を出て行ってしまったから、緑間くんに感謝を伝えることは出来なかった。




次の日、僕と黄瀬くんはいつものように暗くなった道を無言で帰っていた。黄瀬くんは相変わらず声が出ない。
昨日、緑間くんと話してから考えた。黄瀬くんの症状は精神的負担によるものだと思ってまず間違いないだろう。その精神的負担は積もりに積もった様々なものなんだろうけれど、その中にはもしかしたら僕との関係も含まれているかもしれない。寧ろその可能性は大いにある。同性同士、それだけで充分普通ではない。僕と黄瀬くんは同性同士で、まだ中学生で、チームメイト。誰からも好かれるような彼が僕なんかに捕らわれていて良いのか。彼は沢山の愛を僕に注ぐけれど、僕は彼に何も返せていない。何も返ってこないのに愛を注ぎ続けるのは、どんなに献身的な人でも難しいことだ。必ず限界がくる。僕は黄瀬くんを想っているけれど、それを言葉にすることは苦手だ。そんな僕を彼はどこまでも甘やかす。僕が言葉にしない分を彼は彼の愛の言葉で補って、更に僕に与えてくれる。黄瀬くんの言葉で僕は満たされて、安心しきって。黄瀬くんは僕の前で本当に幸せそうに笑うから、僕は彼の不安や苦痛に気付くことさえ出来なかったのだ。
こんなにも不甲斐ない僕を、まだ愛してくれるだろうか。
黄瀬くんの声が聞けなくなった今、僕はずっと不安定だ。黄瀬くんは言葉以外でもって尚も愛を伝えてくれる。でも僕は、


「黄瀬くん」


突然僕が口を開いたことに驚いたのか、黄瀬くんは肩を震わせて此方を見たのがわかった。僕の足は止まり、重く根を張ったように動けなくなってしまった。


「黄瀬くん」


僕はもう溢れた気持ちを抑えることが出来なくて、俯いたままもう一度彼を呼んだ。彼は僕の態度を不審に思ったのか、少し屈んで僕の顔を覗き込んできた。でも僕は彼の表情を見ることは出来なくて、ただ口から出てくる言葉を地面に落とすように話すしかなかった。


「黄瀬くんの、声が…聞きたいんです」


黄瀬くんがどんな顔をしているのかは確認出来ないけれど、その瞬間に目の前の彼の身体は強張った。僕は無意識に彼の左腕を掴んでいた。

「沢山話して」

「沢山僕を呼んで」


「好きって、言って」


自分は君に何もしてあげないくせに。黄瀬くんの言葉がないと僕は、不安で潰されてしまいそうになるんだ。黄瀬くんの方がずっと苦しいのに。黄瀬くんの方がずっと不安なのに。黄瀬くんよりずっと弱い僕。黄瀬くんは精一杯の愛をくれるのに、それでもまだ求めてしまう欲深い僕を知った君は失望するだろうか。それでも、それでも僕は


「好きです。好きなんです、黄瀬くんのことが」


もう君からの愛を手放すことは出来ない。


黄瀬くんが空いた右手で携帯電話を操作した。声の代わりに彼の気持ちを表す薄っぺらい液晶画面。君が今そこに連ねるのは、僕への拒絶か、嘲罵か。目の前に遠慮がちに出された画面。


『黒子っちが初めて"好き"って言ってくれた』


やっと見た彼の顔には今まで見たことないくらいに幸せを滲ませた笑顔が浮かんでいたから、僕は心が裂かれるような心地がして、こんなにも素直で真っ直ぐな彼を強く強く抱き締めた。




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20120704




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