審査官やら来賓やらのコンテストの遠征先からアダンが半月ぶりに島へ戻ると、ルネはすっかり夏の気候に突入していた。海は太陽に青く煌めき、港には遊覧船、市場には観光客が溢れている。岬のチャペルから潮風に乗り、花嫁を祝う鐘の音が引っ切り無しに鼓膜に流れ込んでくる。ルネの真髄は夏にありけり。
 これからのシーズンは地元での仕事が忙しくなるだろう。
 クルーザーから桟橋へと降り立ったアダンは、そんな事を考えながら急ぎ足で観光客でごった返す、茹だる暑さの港市場の中を逆行しながら歩みを進めた。カラフルなパラソルの下で、瑞瑞しく光を弾くトマトやロロロッサを見ていると、どうしても愛弟子を思い出してしまう自分はかなりの重症なのだろう。

 仕事の為に寂しい思いをさせてしまったであろうまだ幼い弟子の為に、まず自宅に帰り荷物を置くなどという選択肢は毛頭なく、市場で売られる物には目もくれず真っ先に島の端にある彼の屋敷へと向かう。

 海を臨む丘の上にある古い館に、少年のミクリは両親もなく一人で暮らしている。朝と晩に近所の世話焼の老婆が身の回りの世話をしてくれているだけで、外界との関わりが一切禁じられている身だ。知識人として育てる為に彼の一族がアダンを家庭教師として雇うまで、他人と話した事が殆ど無かった。
 祠の守護者の末裔とはいえ、幼い少年にこんなえげつない教育を強いる事は島の古参老人たちの感性を疑ってしまう。
 産まれた時から外海へ憧れを抱かぬように隔離され、いにしえからの因習を半ば洗脳させながら教えとして説き、小さな身体に理不尽な不幸を背負わされているミクリが、もし運命の悪戯で自分と会わなかったら…完全に彼の人格は破壊されてしまったのではないかと、アダンは考えるだけで背筋が凍る。
 自分に彼を攫う勇気があればと何度も考えたが、連れ出した所で少年を幸福にしてやれる保証はなかった。


 ルネの突き抜ける青空を背景に、灼熱の太陽に焼かれゆらゆらと陽炎のように佇む屋敷は、遠目に見ても相変わらず人気がない。館の主は、こんな天気の良い日には決まって温室のテラスにいる。
 こじんまりとした庭の一角にある温室は、数年掛かりで二人で作り上げた夢の城、ミクリのお気に入りの場所だ。
 野薔薇とシロツメクサの咲き乱れた庭先の玄関へと続く敷石を外れ、アダンは迷う事なくそこへと向かう。案の定、ツタの絡んだ温室の扉を開くと、まだ一歩も室内に踏み込んでいないのにボーイソプラノが飛んできた。

「師匠様っ!」

 温室の硝子天井から燦々と降り注ぐ夏の陽射しに、透ける色素の薄い髪を揺らしながら、半袖のセーラー服を着たミクリが嬉しそうに駆け寄ってくる。若い枝のように細い首筋や腕は全く日に焼けておらず、ドールの肌のように滑らかで白い。この様子だと言い付けを守って、無駄な外出はしていないのだろう。

「お帰りなさい!潮風に乗ってキャモメたちが話しているのを聞いたんです、師匠様が帰ってきたって!」

 真夏の温室であるにも関わらず、彼の水ポケモンたちは睡蓮の花が浮かんだプールの中を優雅に泳いでいる。室内は外の茹だる暑さが嘘のようだ。まるで春先のように心地の良い温度の空気が、汗ばんだアダンの額に触れてくる。
 駆け寄って来た小さな身体が腰の辺りに抱き着いてきた瞬間、爽やかな潮風が熱っぽく絡んでいた湿度を吹き飛ばしたような気がした。

(祠の守護者…海に愛された少年、か)

 人間離れした中性的な美貌の持ち主のミクリは、海に愛された運命の持ち主でもある。彼の周りはいつも涼やかな潮風が吹き、嵐で荒ぶる波も海に身を触れさせれば呆気なく納まってしまう。日照りを遠退け、大雨も治水する。
 彼は末裔とはいえ、記述で残っている数百年の守護者の中でも飛び抜けた才能を持っている神童なのだ。目覚めの祠の中に眠る“アレ”を災いとして過度に畏れている島の民衆にとっては、四肢を切り落としてでもルネに置いておきたい存在だ。こんな幼い少年を、だ。

「師匠様?」

 下を見ると、不安げに見上げてくる大きな丸い瞳と目が合った。守護者も何も関係ない、ただの無垢な子供の瞳だ。

「お疲れなら…」
「いや、何でもない。少し外が暑くてな…逆上せてしまったようだ」
「なら何か冷たいものを持って来ます。婆やがシーヤの実のジュースを沢山作ってくれたんです!美味しいですよ」
「ああ、じゃあ頂こうかな」

 本当ならミクリの涼やかな雰囲気のお陰で渇いていた喉も潤っていたが、子供は大人の役に立つ事を喜びと感じる。現にアダンが飲み物を頼むと、彼は満面の笑顔を咲かせて駆け出して行った。

「ん?」

 テラスにある猫脚のテーブルの上に見慣れない物を見付けた。
 一匹の熱帯魚が入った瓶。
 深海のような青い青い熱帯魚だ。

「それは一昨日に、海で拾ったんです。波打際の岩場に引っ掛かっていて…でも歪んでしまっているのかどうにも蓋が開かなくて」

 抱えていた緑色のボトルとグラスをテーブルの上に置いたミクリは、恨めしそうに熱帯魚が入った瓶を指先で撫でた。

「きっと誰かが飼えなくなって捨てたんです。だからたった一匹をこんな瓶の中に詰めて…」

 苺ジャムの瓶ほどの小さな世界を苦にする様子も無く、せっかく美しく咲いている青いヒレを優雅に踊らせる事も無く、何をする訳でも無く、鎖された狭い水中をただ浮いている。
 魚に言うのも何だが、その小さな目には何も映っていないように見えた。小さな瓶の外に広がる満々ちた世界も、堅い硝子に映る己の姿さえも何もかも。

 ──それは、
 いつか訪れるやもしれない──

 しん、とアダンの胸の奥で何かが静かに冷えていく。意識より先に口を突いた知識の音は、自分でも驚く程に落ち着いた低い声色だった。

「ミクリ、この魚はな狭い瓶の中でも生きていけるんだ。狭い井戸の底でも、大雨で出来た水溜まりの中でも」
「しかし…独りぼっちで寂しがっているのでは」
「いや、こやつらはな、独りぼっちにして置かなければならないんだ」
「どうして、…なんですか?」

 ミクリが怯えている。彼の気持ちを汲み取った温室内の温度が急激に冷えていく。春先の浅瀬の温もりが、真冬の凪めいた海面のように。
 しかし恐怖の裏で花咲く僅かな好奇心を指先に点し、真実を知ろうとする様は子供そのものだ。

「こやつらの名は闘魚。ひとたび仲間と出会えばこの美しいヒレは凶器の刃となり、どちらかが死ぬまで闘い続ける…人間により闘いの遺伝子を特化させられた可哀相な運命を背負っているのだよ」
「闘いの、遺伝子…」
「仲間とは連れ添わない何故なら、仲間といれば相手を殺し相手に殺されてしまう。だからこうして、狭い瓶の中にいる。ここから出して広い池を泳がせても幸せだろうが、それは一時のものだ。すぐに他の魚と闘いを始めてしまい、傷ばかりが増えて下手したら命まで落とす。可哀相だが、こうやって狭い世界に繋ぎ止めて置かねばならないのだ。それが幸福なのだよ」

 可哀相だが、こうやって狭い世界に繋ぎ止めて置かねばならないのだ。それが幸福なのだよ。


(お前のように)


 髭を揺らした空気に、アダンの意識がハッと覚醒した。まるで白昼夢でも見せられていたかのように、脳の奥が痺れている。ただの感情の無い知識とはいえ、自分は愛弟子に何と残酷な事を言ってしまったのだろう。
 これではまるで、島の因習に捕われた者達とまるで同じではないか。

 ミクリは呆然とした表情で師の顔を仰いでいた。幼いながらも賢い少年は、彼が何を暗示していたのか理解したのだろう。涙の膜に包まれた瞳が、硝子越しに注いでくる真夏の光のハイライトを宿し生々しく揺れている。

「師匠様」



「目覚めの祠を護る者に産まれた者は、島から離れられぬように呪いである人魚の口付けを貰う、と…爺様たちから聞かされました」

 ルネの古くからの言い伝えには、日照りや大雨に苦しんでいた古代の人々は陸と海の調和を司る祠を奉る事で、自然災害を鎮めようと考えた。その祠を護る者を据え置く為に、陸の生き物の人間と海の生き物である人魚の混血が必要とされた為、島の人々は若い娘の人魚を捕まえ、むりやり子供を孕ませたという。
 結果として産まれた赤ん坊は陸を支配する人間の力と、海に愛される人魚の力の双方を手に入れ、人々が望んだように陸と海の調和を量れし祠の守護者となった。
 人間はもう旱魃にも嵐にも怯えなくて済む事に歓喜したが、むりやり娘を捕まえられ人間の男共に強姦された人魚たちは人々を怨んでいた。
 しかし、産まれた子供には自分たちの同胞の血が流れている。人魚たちは悩んだ末に、海におびき寄せた守護者の足首に噛み付きある呪いを授けた。海には愛されるが、決して島からは逃げられぬ呪いだ。
 噛まれた傷口を舐められると、体内に侵入した人魚の唾液は滴る赤い血に交わり、珊瑚のように結晶化し鱗となった。

「私がまだ母のお腹の中にいる頃に、左足の踝に…」

 以来、小さな島内で婚姻を重ねていく内にその血は広がり、祠の守護者として産まれる者は、母親の胎内で羊水の海を泳いでやってきた人魚に足首を噛まれると言い伝えられている。足首に小さな鱗を持って産まれた赤ん坊は直ぐに両親から引き離され、外界と隔離され育てられるのだ。
 そんな因習が、人類が宇宙に進出するようになった今日でも、絶海の孤島であるルネでは秘やかに続けられている。

「島を出ていくと呪いにより鱗が全身を覆って化け物に成り果ててしまう私と、小瓶の中でしか生きられない魚」


 とても似ていますね。


 少年は笑った。
 涼しげに咲く睡蓮の花と水の色が何よりも似合う温室で。セーラー服から伸びる細い首筋は真珠のように白く柔らかく、紛れも無い人間のものだ。こんな少年に太古からの忌まわしい呪いの血が流れている等とは到底信じられない。
 己の腰程にしか身長のないミクリを、膝を着いたアダンは強く抱きしめた。海の女神に愛された笑顔は、触っては水面に映る月のように淡く儚いと分かっていながらも抱きしめられずにはいられなかったのだ。

「今回はどんな街を旅してきたのか土産話を聞かせて下さい、師匠様」
「ああ、そうだな。あの街は花に包まれた街だった」

 ナイルブルーの髪からは、仄かに潮風の匂いがする。何万もの生物が産まれ、死んでいった深い匂いだ。こんな幼い身体に、何万もの記憶が刻まれている。



ローレライと四畳半の花園




120414

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