フィリエド
(※暗い話です)

「貴方が好きなの、貴方が好きなの。私の事を覚えていて?ミットランドの森にある薔薇が綺麗なお屋敷で、貴方は毎年夏になると家族で休暇を過ごしにきたわ。沢山いた使用人の中に私がいたのを覚えていて?貴方が好きだったブルーベリーのパイを焼いたのは私だったのよ?目立つ筈だったわ、いつも貴方に気付いて欲しくて髪を青いリボンで結っていたんだもの。家が貧しいから、まだ十歳で給仕の奉公に出された私は、歳の近い人がいなくて寂しくて、ヘマをすれば怒られて、いつも調理場の勝手口の陰で泣いていたわ。でも貴方の事を考えると、胸がとても暖かくなって頑張ろうって気になったの。ずっと好きだったのに、でも貴方はどんどん遠くに行ってしまうの…私は貴方がいる小さな世界で生きていければよかったのに。だから、だからっ…ごめんなさい」

 その華奢な手には似合わぬ、柄の短い鉛色の重たげな斧。公園の街灯を鈍く弾いている硬質なそれを、女は凄まじい形相で振り上げた。顔面に危害が加えられようとするなら、人は反射的に頭を庇おうとする。彼女はそれすらも計算に入れていたらしい。振り上げられた鉛色がエドガーの青い瞳に筋を作った刹那、その兇刃は彼の脚に向かって振り下ろされたのだ。

 アーサー王の剣が折られた。
 深夜の練習場から駐車場までの僅かな時間での犯行、内通者の可能性。目撃者から犯人の女は元恋人との噂有り。捨てられた怨恨故の凶行か。
 ロンドンの地下鉄のホームでばらまくように配られていた号外には、そんなゴシップ臭い文字が踊っていた。
 プロリーグに入団を果してから数年。チーム最年少ながら得点王に何度も輝いた将来有望な選手、エドガー・バルチナスは、練習後の夜道で熱狂的なファンに襲われ、命と言っても過言ではない脚を駄目にしてしまった。神経を切断、腱の損傷、回復の見込みは絶望的。
 ショッキングなこの報道は、世界中に向け発信されたのだった。



 極度の発狂の中で興奮状態だった犯人は、ぱっくりと裂けた被害者の脚から溢れ出した血を目にした瞬間に、奇声を発しながら気絶。失血のショックで朦朧とする意識の中、エドガーが最後に目にしたのは駆け付けた救急車の青いランプだった。
 そして目覚めた時に見たのは、眩しい天井。薬品臭い空調の風、白衣の背中。
 悲鳴を聞き付けた通行人に早期に発見され医療機関に搬送された為に、不幸中の幸いで命に別状はなかったが、骨を砕く迄に食い込んだ刄はエドガーから脚を奪った。切断はしていないものの、膝から下の神経は死んでしまったらしく、感覚という物が全く無い。
 点滴の繋がれた腕を伸ばし、青白い包帯との境目が合間な膝に恐る恐る爪を立ててみたが、痛みのない出血は看護師の手を煩わせるだけの結果になった。




『アルバムの発売おめでとうございます。今回の曲もどれも素晴らしかったです。特にバラードなんて、あのバイオリンは貴方のものでしょう?ファの音に少しだけ癖がありました。今日のライブ、成功する事を祈ってます。 F.O』

 深紅の薔薇だけを繕った大きな花束に添えられていた手紙には、相変わらず律儀な印象を受ける文字でそう綴られている。乙女のようにそれを胸に抱き留めたエドガーは、瑞瑞しい花びらにそっと鼻先を埋めてみた。馥郁たる華やかな香りが、どうしても切なく感じてしまう。懐かしい彼の残り香を探るような己の女々しさに、眦がじんわりと熱くなる。

 脚の怪我でサッカーから離れざるおえなかったエドガーが次に才能を開花させたのは、音楽の世界だった。脚を失ってから精神的に荒れていたエドガーは、最初の頃は人前に出るのを渋っていたが、サッカーを失った今でも支えてくれるファンの声援に答えたいとアーティストとしての活動を始めたのだ。
 幼い頃から教養として嗜んでいたバイオリンで鍛えられた音感と、迫力のある声量に艶やかな掠れ声。自身で作詞しているという歌詞にも知性と高貴な印象を受け、切なさを掻き立てられると高い評価を受けている。
 スポーツからミュージシャンへの華麗な転身、更には容姿端麗な事から多彩な才能に嫉妬するような暴言も当初はあったが、彼の歌声を一度でも聴けば、そんな嫉みいかに卑小なものかを思い知らされるのだった。


「今回もありがとうございました」

 拘置所内から送られるものは、民間の宅配業者に依託する事が出来ない。彼はライブの度に花束を贈ってくるので、それを毎回届けてくれる業務の拘置所職員ともすっかり顔馴染みとなってしまった。名家の出身の元プロサッカー選手で、今は世界的なアーティストであるエドガーが、服役中である人物と親しい仲である等と世に知れたら、マスコミが真実に蝶を付け角を付けあらぬ報道を奉るであろう。情報の提供者も多額の金を貰える。
 しかしこの初老の男性は、口数こそ少ないものの二人の関係を穏やかに見守ってくれている様子だった。言葉を交わした事は少ないが、彼は第二次世界大戦下にて降伏し捕虜になった際に、故郷で待つ恋人が国裏切りの身内だと村中から酷い差別を受けたらしい。遠い日の面影を自分たちに重ねてくれているのかもしれない、とエドガーは言葉に仕切れない感謝を抱いていた。

「彼は元気にやっていますか?」
「所内で一番真面目じゃよ。他の受刑者とトラブルを起こす事もない……ただ静かに目を閉じて、刑に服しておる」
「そう、ですか……」

 フィリップ・オーウェン。少年サッカーチーム解体後の彼は、夢である料理人としての道を選択しそれを成功させていた。業界最小年で一流ホテルのシェフとなりロンドンに自分の店を構えていた。
 そんな彼の姿は、今はエディンバラの拘置所の塀の向こうにある。
 一方的な歪んだ恋心を向けエドガーから脚を奪った女は、もうこの世にはいない。逮捕されてから一晩明け、仮の拘置所に移送される途中に、信号を無視し十字路を猛スピードで走ってきたワゴン車に追突されたのだ。輸送車の後方部は原形が留まらない程に破壊され、ぐちゃぐちゃになった金属片からは、潰れた腕や三人分の血液や脂肪が滴り落ちていたらしい。
 暴走していたワゴンを運転していたのは、ロンドン市内に住むフィリップ・オーウェンという男だった。かなり損傷の激しい運転席で、硝子の刺さった額や鼻から夥しい血を流しながら、駆け付けた警察官に抵抗する事もなく、項垂れていた彼は手錠を掛けられた。
 後の捜査で明らかになった事だったが、輸送車に突っ込んだ時のワゴンのスピードは180キロを超えていたようだった。盗難車だという車内からは、大量のガソリンが入った鉄製のポリタンクと、エドガー・バルチナス殺傷未遂事件の号外が見付かった。強く握り締められた跡のある紙面は、涙らしいもので紺色のインクが滲んでいたという。


「エドガー、リハーサル始まるよ」
「ああ、すまないポール。今いくよ」

 エドガーがアーティストとしての道を歩み始めようとした時に、以前チームメイドだったポール・アップルトンがバンドを組まないかと持ち掛けていた。彼はイギリスでも名の知れたギタリストに成長しており、作曲の才能にも秀でている。秀才な二人が組んだバンドは、あっという間に人気スターへの階段を駆け上がっていった。
 薔薇の花束を抱えていたエドガーを見たポールは、それをファンからの贈り物だと思ったのだろう。肩を竦めながら「モテるねぇ」と冷やかすように呟く。早くステージに来る事を告げると、新曲の歌詞を口遊みながら楽屋を出て行った。

「すみません、以前にも言いましたが、もう彼には花束を贈らないでと言って貰えませんか。手紙だけで十分だと」
「承知しました。しかし……」
「ええ、多分無理でしょうね…」

 くすり、と忍び笑いを漏らしたエドガーは、花が散ってしまうのも厭わずに、胸に抱き留めていた薔薇に思い切り顔を埋めた。葉に隠れている茎には、棘を一本一本丁寧に折った痕がある。彼が独房の中で、律儀に処理をしてくれたのだろう。きっと指先には掻き傷が沢山ある。

「こんな事をしてくれるというのに、なぜ私の傍にいてくれないのだ…」

 私は唄うよ、お前に届くように。




 無機質な蛍光灯の下、紙の縁を愛おしげに撫でながら、フィリップはエドガーからの手紙を読んでいた。毎晩晩、手元に届いた全て読んでから床に着くのだ。

『聡明な君が、こんな過ちを犯してしまうとは思わなかった。確かに彼女は私の脚を奪ったが、だからこそ、だからこそ彼女は法に裁かれ然るべき刑に服すべきだったのだ。それが、君が、君が刑に服するような立場になってしまうなんて。それに君のエゴイズムは、何の落ち度もない二人の巡査を巻き添えにしてしまったではないか。何故、彼らにも大切な家族がいるのだという事を忘れてしまったんだ。御遺族は君を決して許されないだろう、そして私も君を許さない。どうして君は自分より私の事を優先させるのだ。君には、君の、君らしい人生を歩んで欲しかったのに。私は後悔する事でしか君との思い出に浸れない。フィリップ、私はお前に一番傍にいて欲しいのに。君は、凄く遠い場所に行ってしまったよ。もう会えないなんて、こんな寂しい事はない。私を悲しませるな馬鹿者』

「すみません、エドガー」

 それでも、貴方の唄はちゃんと俺の元に届いてますよ。





最愛を込めて銀の弾丸を




110914

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