ノボリとクダリ


 地下鉄というものは心踊るものです。何故ならば我々が踏み締めている大地の下を、穏やかに暮らしている街の下を、人知れず酸素を運搬する血液のように縦横無尽に走っているのですから。医療方面には知識が乏しいのでよく分かりませんが、さながら都市の人や物の運搬を支えている私たちは、赤血球といえるのかもしれません。そう、私たち兄弟がこの大都市の影の立て役者なんでしょうきっと。昔から無類の鉄道好きであった者として、このように四六時中電車と触れ合っていられる職業に就けたのは至高の喜びなのですが、私たちとて何も1年365日8760時間525600分31536000秒地下鉄に噛り付いているような輩ではありません。確かに傍から見れば仕事馬鹿にも見えましょうが、私たち兄弟には幼い頃からの趣味があるのです。嗚呼、まるで車輪が枕木を叩くかのように、足音が唄うのが分かります。




「クダリもう出発の時刻になりますよ。昔のように蝶々なんて追い掛けて迷子にならないで下さいまし」

 有休を取った私たちは、とある地方の駅に来ていました。ホームには点字ブロックは疎か屋根もなく、割れた舗装や石段の隙間から生えた蒲公英の葉は所々が虫喰いになっています。近くの山に野兎でもいるのでしょうか。長閑な田園風景と里山に囲まれた古ぼけた駅の看板は、永い年月の間に雨風に晒されてすっかり錆びています。駅には自動改札の代わりに、都市部ではすっかり珍しくなった人の良さそうな初老の駅員がひとり。普段は私どもは車掌という立場なので、それを客観的に見る事はとても新鮮なものなのです。きっと夏休みのアルバイトでしょう。私は昔懐かしい駅弁の立ち売りをしていた純朴なお下げ髪の少女から、名物である鮎の塩焼きの弁当と柑橘のお茶を購入しました。季節は真夏を少し過ぎたとはいえ、まだまだ残暑が尾を引いておりました。芥子色の公衆電話の脇から生えている木製の電信柱に止まった筑紫恋しは、けたたましい鳴き声を上げ暑さを盛り上げているように思えます。

「ノボリ兄さんと旅行、久しぶりだなぁ」

 大きな行李鞄を片手にしたクダリは、心なしか常時より口許が笑んでいる気がしました。普段は朝日が昇る前に出勤をし、夜の帳が落ちてから帰宅する私たち兄弟は、おおよそ太陽の光というものに縁がありません。強い陽射しを受けたクダリの顔は、とても青白く汗のひとつも無いのです。私は身体の弱い双子の片割れが日射病にでもならないかと肝を冷やしていましたが、どうやらそれは杞憂なようでした。しかし油断は出来ないものです。私は山から吹き下ろしてくる爽風に目蓋を細めているクダリの横顔を、じっと見ていました。

 暫くすると足元の線路からカタン、カタン、と音が枕木が跳ねる音が聴こえ始め、その周期はどんどん短くなっていきます。畷のように果てしなく伸びた細いレールの先を見遣ると、ゆらゆらと渚のように揺れる陽炎の中を罌粟色の鮮やかな車体が現れ、やがて空気が弾けるような音を鳴らしながら、ホームに滑り込んできた列車が大きなブレーキ音と共に停車しました。一両しかない車両は引き違いの折り畳み式ドアで、開かれた入口はとても狭いものです。クダリは行李鞄の角で何度も引っ掛かりながら車内に入り、私もそれに続きます。内装は木で統一され全席がボックス仕様になっており、革張りのシートは蓬色のシックな印象でした。冷房などは勿論ないので、ローカル線特有の少し埃っぽく、むっとした暑さでありました。しかしそれが良いのでございます。

 網棚の上に荷物を仕舞った私たちは、オイルの注された手動の窓を開けホームを眺めます。発車メロディはスピーカーから流れる電子音などではなく、車掌自らが吹く警笛。小鳥の悲鳴のような高い音は私どもにとっては脳髄にまで響いてくる心地の好いものなのです。エンジンが武者震いをするような煙りを吐き出すと、ゆっくりと列車が動き出しました。先程まで事務室に居た白い口髭を生やした駅員は、たった一組の乗客である私たちの為に、改札から身を乗り出し制帽を持ち上げながら、良い旅を、と笑顔で送り出してくれました。



 私ノボリと、弟クダリは同一の卵子から産まれた同一の貌だというのに、口許のひとつでこうも印象が違うのです。昔から皮一枚だけでも笑うのが苦手な私は、周りから敬遠されるような雰囲気を払拭する為に必死に話術を勉強しました。一方のクダリは、誰にでも笑顔を見せ懐くような愛され上手な性格でしたが、些か知能に遅れがある少年だったのです。ふたりは互いの悪い所を補える存在だったので、私たち兄弟はどんな時も一緒にいました。共通の趣味はやはり鉄道、ポケモン勝負。これは私たち兄弟の絆といっても過言ではないのです。



「ノボリ兄さん、紅生姜あげる」
「これクダリ。お前はまだ好き嫌いをしているのですか」
「紅生姜嫌い、酸っぱいんだ」

 車窓を流れていく景色といえば、鮮やかな空に浮かんだ入道雲と緑が眩しい田園。向日葵の花畑、川遊びをする親子。
 昼時が近付いてきたので、私たちは昼食に買っておいた弁当を頂く事にしました。しかし困った事に、クダリは蓋を開けた瞬間に鮎の塩焼きに添えられていた紅生姜を私の元に寄越してきたのです。しかもそれだけではなく、柔らかそうな煮物の人参や椎茸も器用に割り箸で摘んで弁当の蓋に除けているのです。蕎麦などの和食が好きな私に対し、クダリは洋食、取り分け稚児が好む料理をいつも所望します。半熟卵のオムライスや香辛料の匂いが全くない甘いカレー、玉葱を微塵切りにしたハンバーグ。チキンライスにナポリタンなど上げれば切りがありませんが、特にその偏食が顕著に際立つのは、職場であるライモンシティの地下鉄駅の食堂にある名物のお子様ランチです。本来ならお子様という定義に乗っ取り、小学生までしか頼む事が出来ない品なのですが、なんと彼は自分の権限で大人も食べれるようにしているのです。

「ノボリ兄さん、食べて?」
「…、仕方がありませんね。まったく」

 小首を傾げる様はまるで化け狐のように愛らしいんですよ。嗚呼!どうしてこのような子に育ってしまったのか、兄として恥ずかしい限りですがこうやって結局は、今回の旅も私が、クダリを甘やかしてしまうだけのものになってしまうのです。




発車ベルは鳴り止まない




110911

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