テレ♀エド


 白いエプロンドレスの裾を指先で持ち上げ、そこに収穫したばかりの瑞瑞しい木苺を山盛りになるまで詰めたエドガーは、早朝の涼しい風を肌で楽しみながらまだ仄暗い長閑な畷を歩いていていた。
 昨晩遅くにこの辺り一体の村で小雨が降ったらしく、先ほどの果樹園にもしっとりと靄が残っていた。エドガー自身も、閨の上で気怠さと睡魔と旦那の胸に抱擁されながら、屋根をぱらぱらと叩く雨音をどこか夢心地で聞いたのを覚えている。舗装されていない畦道に水たまりが残っており、朝焼けを受けた空の鮮やかな朱が映し出されて幻想的であった。ロンドンに暮らしていた頃には絶対に味わう事が出来なかったであろう田舎での暮らしに、エドガーの足取りは踊るように軽やかになっていく。

「ただいま」

 村の外れの方にある小高い丘にある赤煉瓦造りの壁に重たそうな瓦を被っている平屋が、エドガーとテレスが晴れて夫婦になった時に建てた新居だ。
 庭に繋がる白樺の木戸を膝で押して開けると、ぎりと軋んだ音に反応したのか、庭先に這わせていたシロツメ草や萵苣の葉を食べていた子羊たちが、主の帰宅を歓迎するように擦り寄ってきた。エプロンドレスを摘み上げているしなやかな指先を、小さな舌でぺろぺろと舐めて甘えてくる。指の間をぬるりと滑る舌の感覚に、まるで金糸雀の腹を擽ったような高い笑い声を上げながらエドガーは、無花果の木の下で何やら作業をしていたテレスの元へと歩み寄った。
 まだ肌寒い朝だというのに、褐色の額にじんわりとした汗の真珠を浮かべたテレスの姿は、小さな梯が掛けられた胡桃色の巨大な樽の上にあった。大人が数人は入って行水出来てしまいそうなその樽の中には、沢山の葡萄の実が詰められており、遠くにある地平線の麦畑を弾いた金色の朝陽が、露を帯びた菫色を照らし出している。どっと溢れてくる疲労を、空腹感に嘖まれる胃袋と共に持て余していたテレスは、無邪気な少女のようにエプロンドレスに木苺を山盛りにしながら、小首を傾げ見上げてくる愛しい妻に、鳩尾の辺りがじんわりと熱くなるのを感じた。

「こんな朝早くからやるのか?」
「まあな、出来れば午前中に搾るのだけは終わらせておきたいからな」
「わかった。でもまず朝食にしよう?ふふ、テレスの好きなサンドイッチとトライフルを作ってやるぞ」

 裾をひとつに纏め、腹に抱いていた木苺を白い指先で一粒摘み上げたエドガーは、尖らせた唇でちゅっと小さな実に口付けると、わざとがましく濡れた音を立てながらそれを咀嚼する。紅い果汁の滲んだ唇が蠱惑的に光を弾いた。人妻になっても雄に無知な青い瞳にを持っておきながら、天賦の魔性の気を宿したその容貌に、テレスは己の欲情がむくりと血を通わせたのを感じ取ったが、ここで理性を失うような安価な男ではない。
 平然をさも装いながらも、彼の舌は恨めしげに乾いた唇を舐めたのだった。

「おう、仕込みが終ったらすぐ行く」
「いや、たまには外で食べよう。出来たら持っていくから作業してて」

 言うや否や踵を返し家の中に消えていってしまったエドガーの後ろ姿に、テレスはお預けを喰らった犬のような気持ちになった。小さな溜息をひとつ吐きふっと天を仰いでみれば、無花果の葉の隙間から零れる秋の天宮はどこまでも貫ける高く、朝の淡い木漏れ日が眩しかった。



 やがてエドガーが長い髪をたおやかに靡かせながら、朝食を運んできた。庭先にある樫の木のベンチに腕に掛けていた白いクロースを敷き、その横に上品な仕種で座る。銀盆に乗せられた涼しげな青いグラスに盛りつけられた柔らかな卵色のカスタードに、瑞瑞しい木苺の紅がよく生える。ラム酒と砂糖を煮詰めたシロップに浸ったカステラは琥珀色に水気を帯びていた。彩り鮮やかなトライフルの横には、深い狐色に焼き上げたライ麦パンに挟んだ萵苣と生ハムのサンドイッチ。番いのゴブレットには大きめの氷が浮いた紅茶が添えられていた。
 蔓で編まれたバスケットから食器を取り出し並べ終えると、口許に穏やかな笑みを浮かべたエドガーは、黙々と樽に葡萄を詰める作業をしていたテレスに手招きをした。香ばしい匂いに誘われたのか、彼女の肩には小鳥が止まっている。

 葡萄の果汁が滲み赤紫色に染まってしまったテレスの指先を、水で湿らせたハンカチーフで優しく拭ったエドガーは、額に浮かんでいた汗にも布地を滑らせた。ひんやりとした感覚にうっとりと目蓋を細めると、丁寧な仕種でサンドイッチが目の前に差し出し傅いてくれる。ライ麦パンから覗いている鮮やかな萵苣の緑と燻された肉の赤、飴色に炒められた玉葱の匂いに、餓えていた食欲が直に刺激された。

「ふふ、どうぞ召し上がれ」
「、ん…」
「きゃっ」

 欲に逆らわずに大口を開き、指先を咥内に含む勢いでサンドイッチに齧り付くと案の定、ドレッシングの酸味に混ざり細い指先の感覚が舌の上を撫でた。ちろり、と硬質な爪の先を舐め取り、柔らかな指の腹を前歯で甘く噛む。あっと息を飲み込み頬を真っ赤にしたエドガーが慌てて手を引くと、悪戯っ子のような笑みを浮かべたテレスが、唇の端に付いた白いドレッシングを舐め取っていた。テレスとしては先刻のお返しのつもりだったが、そんな一方的な恨みっこを知る筈もないエドガーは、濡れてしまった指先の温度を持て余すだけだ。

「狼ってのは幾ら手懐けても、直接は手の平に乗せた肉をやっちゃいけないんだとよ」

 照れ隠しにキッと睨み付けてくる青を横顔で受け流しながら、テレスは皿の上にあるサンドイッチに手を伸ばした。通常よりもかなり大きなサイズのものだが、彼は数口もあれば平らげてしまう。

「なんだそれは、狼?テレスがか?」
「それ以外なにがあるってんだ、っうわ!?」

 悠然と弁を振るっていたテレスの右手が突如何かに噛まれた。庭先で野菊やシロツメ草を食べていた子羊、育ち盛りでやんちゃ好きの耳の先が白い一匹が、いつの間にか背後に忍び寄っていたのだ。平たい臼歯に挟まれても痛みはなかったが、握られていたサンドイッチに挟まっていた萵苣だけが器用に抜き取られてしまう。『メェ』と普段なら癒しを与えてくれるような鳴き声も、今は揶揄されているように聴こえる。

「子羊に負けているようなら、狼もまだまだだな」

 長閑な田舎ならではの光景に、エドガーは眦を緩めくすくすと笑うのだった。



 毎年、来年の秋の村祭りに使われる葡萄酒を造るのはその年に結婚をした夫婦の役目だった。作り手の嫁が美人な乙女である程に、酒の神であるバッカスが喜ぶとされており、海の向こうからやってきた類い稀なる美貌を持ったエドガーを、村人たちは歓迎していた。

「いいか、体重を掛けるようにしてゆっくりと潰した方がいいんだぞ」

 朝食を終えたといえどまだ辺りは朝霧の湿り気に抱擁されている。牧羊犬が羊を追い掛け回す鳴き声を遠くから感じながら、梯から樽の中を覗き込んだテレスの言葉に、臙脂のジャンパースカートの両裾を片手で摘み上げたエドガーは小さく頷いた。もう片方の腕は上に伸ばされ、テレスにぎゅっと握られている。丸みのある可愛らしい葡萄の実を踏み付ける罪悪感に暫し思案したが、やがて白く透けるような素足が、恐る恐る葡萄の上に落ちる。初めての経験に緊張していた面持ちだったが、足の裏が柔らかな果肉を潰した感触が思いの外に気持ちが良いのか、踝が菫色の渚に浸る表情は緩んでいった。妖精のような足付きでエドガーが踊ると、搾り出された果汁が樽の側面に開けられた小さな穴から滴り、絹に濾されたそれはルビーとアメジストを溶かし込んだような色を放った。
 無邪気に葡萄を潰している愛妻の姿を、何か眩しいものをみるような眼差しで見守っていたテレスだったが、不意に顔を上げてきたエドガーと視線が合った。

「テレスはやらないのか?」

 ふたりでやった方が効率が良いだろうと花のように微笑むエドガーの貌には飛び散った果汁が数滴付着していた。これがわざとではなく無意識によるものなのだから、性が悪い。

「俺も入ったら狭いだろ」
「いいじゃないか、楽しいぞ?」
「いや、別に楽しみてぇ訳じゃっ」
「いいから早く来いっ、わっ!」

 握られていた手を無理にぐいぐいと引き込まれた為に、不安定な細い梯を足場にしていたテレスは樽の中に落ちそうになった。つんのめった上体を起こそうと反射的に身を引いてしまい、しまったと思ったがもう遅い。支えにしていた腕を引っ張られた軽い身体は、羽根を授かったようにふわりと宙に浮き、樽の中でバランスを崩したエドガーは、次の瞬間には葡萄の果汁で足を滑らせてしまった。
 小さな悲鳴の後にぐしゃりと、瑞瑞しい何かが膝で潰される音が響き、ひらりと葡萄の上に落ちた白いエプロンドレスに見る見る内に菫色が滲んでいく。慌てたテレスが直ぐさま樽の中に飛び込んだが、勢いが付きすぎた為に自身も足を滑らせてしまった。「うおあっ!」と情けない叫び声は葡萄の海に飲み込まれていく。使い込まれた胡桃色の樽の底からは、丸い青空が見えた。


「ぐしゃぐしゃ」

 葡萄の上にへたりと座り込みながら、果汁でべったりと張り付いてしまった髪を掻き上げたエドガーは、ぽつりと呟いた。その貌は心なしか笑んでいる。長閑な色を浮かべた丸い空からは、小鳥の囀りが聴こえてくる。華奢な体格をしたエドガーが一人でいた時にはあまり感じなかったが、大柄なテレスが傍に来た事により、樽の中の狭さを実感した。ある程度の広さは確保できるものの、身じろけば肘や膝が互いに辺り、葡萄の実が潰れる音が反響する。

「髪、付いてんぞ。葡萄」
「髪?、ん…」

 エドガーの肩を引き寄せたテレスが、耳に掛けられた青い髪に稔るように付いていた葡萄の実を唇でもぎ取った。もうお互いに汚れてしまっているので、今更服や髪に果汁が染み込むのも厭わない。その姿はまるで仲睦まじい鯨の夫婦がワインの海を泳ぐようだった。
 舌の上で潰れた葡萄は馥郁たる芳香をあげ、甘酸っぱいそれはどこか官能的であった。含み笑いをしたテレスが、葡萄の果肉を尖らせた唇に挟む。清んだシャンパンのような丸い形のそれを、そっとエドガーの口許に押し付けた。
 ゆるゆると輪郭を辿りながら何度も唇を愛撫すると、ふっくらとした珊瑚色のそこはうっとりと何かに期待するように小さく開く。テレスは囁きを吹き込むような仕種で、甘くなった唾液ごと濡れた咥内に葡萄を押し込んだ。

「っ、ンん」

 くちゅりと、どちらかの舌の上で果肉が弾けた音が聞こえる。唇が離れると性急な態度で湿ったブラウスの釦を幾つか乱暴に外し、鼻先を柔らかな首筋に埋めたテレスは鎖骨の窪みを舌先で撫でた。白い肌は甘い。急所の近くを舐められたエドガーは、ただでさえ真っ直ぐな背筋を威嚇した猫のようにぴんと伸ばした。
 火を付けてしまったかな、と朝靄が掛かったかのようになった思考でエドガーが考えていると、唇を割られた感覚に今度は先程よりも深く咥内を愛撫される。それが何なのか、理解するのに数秒を要したが、昨晩も閨で含まされたものだった。皮を剥いた葡萄の実を、人差し指と中指で挟んだ太く浅黒い指が、愛玩動物を愛でるような手付きでエドガーの小さな舌を弄んでいる。ちらり、と上目で己を抱き寄せているテレスを見遣れば、優しげな色をした瞳がこちらに向けられていた。

「あー、午前中に終わらせるつもりだったんだけどな」

 どこか他人事のような呟き。味蕾の上に広がる甘酸っぱい蜜と、ぐちゅりと潰れた果肉から溢れる汁を纏わせたそれを、まるで口淫するかのように前後に動かされる。舌先が震え、くぐもった声と共に果汁が混ざった唾液が唇から零れた。肺には滴り落ちる程の強い葡萄の芳香が渦巻き、指で擦られた舌はじぃんと痺れる。まだ朝だというのに、何だかんだで艶のある雰囲気に飲まれてしまったエドガーも、尖らせた唇で夢中になってテレスに吸い付いた。ちゅ、といやらしい音を響かせながら深く咥え込んだ指を柔らかな唇で扱く。

「まぁ、神様ってのは好色だから罰は当たらないだろう」

 葡萄をただ潰しただけの汁だというのに、その甘さは人々を酔わせる蠱惑さが含まれていた。



バッカスは高らかに唄う




110911

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