それはゆるやかに訪れた。

最初に起き上がることができなくなった。
次に、腕が動かなくなった。
固形物が喉を通らなくなったときには、果実をすりおろして与えた。

ジタンは、クジャの隣で眠るようになっていた。
寄り添って寝るときもあれば、クジャの顔を見守るように膝を立てたまま休むときもある。

食料を探しに行くときはなるべく一時に多く集め、それ以外の時間はクジャの傍にいた。
クジャの起きている時間より眠っている時間の方が多くなっても変わらなかった。




「ジタン」


名を呼ばれ、ジタンは目を覚ます。
夜の静寂を破るような声ではなかったが、ジタンのところに真っ直ぐ届いた。
クジャがジタンの方に僅かに首を傾ける。
きょろきょろと、瞳が泳いだ。


「そこにいるのかい?」


月灯りに照らされたクジャの瞳は焦点が合っていなかった。


「ああ、いる。ここに」


クジャの手を、両の手で握り込む。氷のように冷たい。
良かった、とクジャは少し微笑んだ。

苦しそうにはしていなかった。
ただ、浅くまばらな呼吸だ。
ジタンは喉の奥がきゅうっと締まる気がした。


「…ジタン?」

「……」

「泣いているのかい」

「…何でそんなこと、お前にわかるっていうんだ」


クジャはふふ、と笑った。


「わかるよ。僕は君のお兄さんだからね」


ジタンはクジャの手をずっと握っていた。
少しでも熱が移るようにと包み込んでも、手は凍ったままだった。
やわく握り締めながら、感覚はあるのか、と訊く。
わからない、とクジャは答えた。
肘の辺りに触れてみてもやっぱり冷たくて、クジャも何も反応しなかった。
頬に触れると、クジャが笑う。


「流石にわかるよ、それは」


ジタンはそのまま、クジャの頬を包んでいた。
クジャが安らぐように息を吐き出す。


「いつかの夜、話しただろう。あの歌のこと」

「…いつか帰るところ?」

「そう。何となく思ったんだ。僕の帰るところは…」


唐突にクジャが咳き込む。
ジタンは苦しそうな咳が止まってくれるように、クジャの胸に額を押し付けて願った。


「もういい、いいから、喋るな」

「……言わせておくれよ」


やっとのことで押し出した声は掠れている。


「…僕のいつか帰るところは、ここだったんじゃないかって。ジタンが、君がいて、くれたから。帰ることができた」


ジタンは両の手でクジャの頬を包み込み、クジャの額に自分の額を押し付けて目を瞑る。
口付けをするような心持ちだった。
事実、しても構わなかった。
でもこうした方が、クジャの温度を感じ取れる気がした。
クジャに自分の温度を伝えられる気がした。

頬を温かいものが伝って、クジャの顔にぽたぽたと落ちる。
クジャは少しだけ笑った。
顔に吐息がかかる。冷たかった。


「…ジタン、歌って、くれないか」


口を開くと嗚咽が漏れそうになる。
ジタンは額を合わせたまま、頷いた。

喉をこじ開けて、自分を救った旋律を口ずさむ。
ジタンが思っていたよりずっと嗄れた声が出て、音程をうまく取れずに揺れる。
囁くほどに小さな歌声だった。
それで良かった。
二人の間にしか届かない歌が、今あるべきものだと思った。

クジャがゆっくりと目を瞑る。


「ねえ、ジタン。僕は帰ってこれた。わかるかい、帰ってこれたんだ。だから」


すう、と息を吸う。


「…もう、何も怖くない」


ジタンは目を瞑ったまま、額を合わせ、歌い続けた。
クジャが何も言わなくなっても、ただ歌い続けた。


どれだけの間そうしていただろう。
喉が枯れて、声はもう出なかった。
合わせた額の温度が下がっていく間も、空気の温度が下がっていく間も、ジタンはクジャの頬を包んでいた。

ジタンは深く息を吸った。
そうして、おやすみ、と囁く。

額を接がすと、目を開けてクジャの顔を見る。
ジタンの涙でびしょびしょに濡れて、額には押し付けていた痕がくっきりついていた。

酷い有り様だ。
ジタンはクジャの頬を拭いながら、少しだけ笑った。
喉がはりついて痛かったが、堪えきれずに体を震わせて笑う。
たまらず、ジタンはクジャの肩に手を付く。


「…クジャ」


もう一度、クジャ、と呼ぶ。
それから、ジタンはやっと、声をあげて泣いた。








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