ドアをノックしても、当然のように返事がない。
慣れてはいるものの、ジタンは気が進まなかった。


「クジャ、入るぞ」


一応断ってからドアノブに手をかける。
そう広くもない寝室に入ると、部屋の主はベッドの中で丸くなっていた。
目覚まし専用にこの部屋に置いてあるコンポが作動してないのかと疑いたくもなるが、枕の上にはリモコンがちょこんと鎮座していた。
本来そこにあるべき頭は、布団の中にすっぽりと収まっている。


「クージャー。朝だって」


ベッドの脇に立って大きめの声を出すと、蓑虫がもぞもぞと動いた。
体を揺するなり布団を剥ぐなどして無理矢理起こしてしまいたいが、そうするとクジャはよく手入れされた爪でカウンター紛いの攻撃を仕掛けてくるのだ。
避け損ねて見事に顔に食らったときは、学友たちに散々笑われた上、仔猫と戯れるのもいいけど躾はしっかりしろよなどと揶揄かう者もいた。

こんな図体のでかい猫がいてたまるか。
第一、ジタンの仔猫ちゃんはもっとおしとやかで、ずっと可愛らしい。
そして、よそ見の絶えないジタンに向けて、躾が必要なのはジタンの方じゃない、なんてさらっと辛辣な言葉を吐いたりもするのだ。

回想に浸りそうになって慌てて気を引き戻す。
こんなことをしている間にクジャが強制スリープモードに入り兼ねない。
ジタンはとうとう怒鳴った。


「クジャ!いい加減にしろ!」

「…う…今日、なんようび…」

「火曜」


その意味を反芻しているのか、少しの間沈黙が訪れる。
そして、ガバッと体を起こした。


「一時間目じゃないか!」


着替えをひっつかんでバスルームに駆け込むクジャに、ジタンはやれやれと溜め息を吐いた。




ジタンが朝食をダイニングに運んだ頃、クジャもメイクを終えて食卓についた。
ちらりと見た時計の針は、充分間に合う時間を差している。


「何だい、Dali'sベイクのパンじゃあないじゃないか」

「昨日リンドの安売りやってたんだよ」

「わかってないな。あの厚切りふわふわの食感はスーパーの安売りのパンなんかじゃ味わえないっていうのに」

「クジャ、新食感宣言も結構好きって言ってただろ」


…そうだけどさ、と言いながらもクジャはマーガリンを塗ったパンを口に運ぶ。
無駄に広いダイニングには二人分の朝食しかない。
ここにジタンが居候することになったときは、家の大きさに驚いたものだ。
中学校の先生ってそんなに給料いいの、と尋くと、別に普通、と返された。
クジャは株やなんかで副収入があり、月額の明細を合わせると相当なものではあったが、この家は縁ある人から格安で間借りしているらしい。
いい人だなーと呑気に言うと、ただの頑固ジジイだよ、と憎々しげに顔をしかめていた。


「ってかさ、何で音楽が一時間目だとそんな気合い入れんの?どうせ家出る時間は同じなのに」

「わかってないね。教壇という舞台に立つには、僕自身が完璧な美しさでなければならないのさ」

「ああ、クジャすっぴん薄いもんな」

「薄くない」

「その分メイクが濃いけど」

「濃くない」


あからさまに声を低くしたクジャは暫し皿の上に視線を落としていたが、ふと顔を上げて、ねえ、と右手に持つフォークをジタンに向けた。
朝食に出すのはハムエッグとウインナーくらいなのだから箸を使えと再三言っているのだが、クジャはこっちの方が優雅だろうとか訳のわからないことを言ってナイフとフォークを手離さない。
確かにそれらを操る指先はなめらかだったが、一方で箸の使い方が巧くないのをジタンは知っている。


「人にフォーク向けんな。マナーはちゃんとしろ」

「朝からうるさいね。それより、まだ着替えなくて大丈夫なのかい?」

「へ?」

「遅刻しそうになったって知らないよ。送らないからね」

「いらねえよ、あんな趣味の悪い車でなんか」

「…口の減らない」


車通勤のクジャは、当然というように自分好みに車をカスタマイズしている。
角度によって赤にも見える黒のベルベットカバーでシートを覆い、ダッシュボードの上は派手な羽根がわさわさと陣取っていて、別に悪くはないが居心地の方が悪い。
一度本当に遅刻しそうになって、校門の前まで車をつけてもらったときは、教室からそれを見ていたらしいティーダに、年上の彼女とかジタンやるな!とつつかれた。
その日は一日中ジタンの機嫌が悪かったのは言うまでもない。


「てか、言ってなかったっけ?うちの高校開校記念日」

「…ずるい」

「ずるくねえよ。そっちだって開校記念日くらいあんだろ」

「うちの学校、ゴールデンウィークと被ってるんだよ。馬鹿らしい」

「文句言うな。転勤なしの私立勤めだろ?」


クジャはむう、と口を尖らせるとフォークを置いてナプキンで口元を押さえた。
洗うの大変だから口紅塗ったまま拭くなって言ってんのに、このやろう。


「じゃあ僕はそろそろ出るよ」

「もう?まだ早いんじゃねーの?」

「実技テストをやるからね、早めに準備しなくちゃ。あぁ、評価の参考にするから、帰ってきたらちょっとリコーダー吹いてよ」

「ええ、またあ!?」


トーストの最後の一口のために大きく開けていたジタンの口から不満が漏れる。
クジャの受け持ちのクラスの中学生との演奏の差を見るためだと言って、ジタンはとっくに卒業したはずのアルトリコーダーをしばしば持ち出すことになる。
おかげで高校に行ってまで中学の音楽の教科書と睨めっこする羽目になった。
その教科書に、ジタンの高校の卒業生が作曲したものが載っているのを見たときは感動したから、そう悪いことだらけでもないのだけど。


「頼んだよ」

「へいへい」


今度こそトーストを口に放り込むと、クジャが上着を肩に引っ掛けて玄関へ向かう。
口をもごもごさせながらクジャ、と呼ぶ。
マナーはどうしたんだい、と肩越しに睨み付けられ、急いで飲み込んだ。


「今日何食べたい?」

「そうだな、イタリアン」

「言っとくけどパスタ止まりだぞ」

「期待してるよ。行ってきます」

「行ってらっしゃい。気いつけてな」


ふふ、と笑いを零しながらクジャが返事代わりに手をひらひらさせた。
ばたん、と玄関のドアが閉じる音を聞きながらジタンも息だけで少し笑った。

食器を軽く水で流してから食洗機に突っ込んで、ジタンは思う。
どうしようかな。
生クリームがあったはずだから、カルボナーラでも作ろうか。
それともクジャの嫌いな茄子を入れたボロネーゼにしてやろうか。
食卓に上がった皿を見たときのクジャの苦い顔を思い浮かべて、ジタンは笑った。

それよりもまずは、この一日を遊び尽くすために、やたら元気な方とやたら寡黙な方のどちらに先に連絡をつけようか。
そう思いながら、ジタンは携帯を手に取った。






教科書に載ってるのは勿論愛のテーマ。




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