パンデモニウムは地獄の城である。
生身の体では、長く居ればその空気が害を成す。
これまでにも気分が悪くなったことが幾度かあったが、その都度エスナで回復してきた。
だが、今回は今までとは様子が違う。
皇帝は小刻みに震える体を己の腕で押さえ込む。
体が火照って仕方がないのだ。
インキュバスに魅入られたかのように熱を欲する体を、持て余す他なかった。
この地に於いては、女を都合することも適わない。
カオスの面々の中に女性が居ないわけではなかったが、弱みを見せるようなことだけはしたくなかった。
ともすれば荒くなりがちな呼吸を抑えながら、脳裏をちらつく影を追う。
高位の白魔導師のみが纏うことを許されたローブ。自分とは対照的な褐色の肌。
回復を司る、温かくて繊細なあの指。
一つ大きな溜め息を吐いて、皇帝は秘紋の地へと向かった。
彼を呼び寄せる秘紋と、召喚場所をパンデモニウムに設定する。
これで、あの青年は城へ来ているはずだ。
王座の間へ帰ると、果たして彼はそこに居た。
「珍しいね。あなたの方から私を呼ぶなんて」
熱を吸い取るような、更に与えてくるような。どちらともつかぬ視線に見入られ、思わず歩みを止める。
いや、体の中の熱が動き出して、足が止まってしまったのだ。
その様子を見て、青年が訝しげにこちらを窺う。
「顔が赤い。熱でもあるのか?」
不意に額に手をやられ、びくりと一瞬強張る。
だがすぐに、待ち望んでいた手のひらの感覚を目を瞑って享受する。
手は額から頬に移り、やわと包み込む。
顎の下をついと撫でられると、はぁ、と熱い息が漏れた。
「…驚いたね。一体何が?」
「…パンデモニウムの毒気に当てられたのだ」
薄く目を開いて、もっと触れて欲しいと訴える。
「もしかして、私を呼んだのもそのためか?」
「…」
皇帝は答えずに、頬を包む手のひらにすり寄る。
「…参ったな。幾ら私でも彼にはそんなこと頼めないよ」
「彼?」
「フリオニールは純粋な子だからね。余りからかうのはやめてあげて欲しいんだ」
皇帝は青年を睨み付ける。
まさか、この聡い青年がそんな勘違いをしているとは思わなかった。
真意を窺うような視線が返ってきた。こちらは目を逸らして、莫迦者が、と呟く。
この男になら、これで通じる筈だ。
案の定、青年は目を丸くした。
「…私は、思い違いをしていたようだね?」
「何故彼奴だと思うのだ」
「何故って…あなたはフリオニールにとても執着しているからね」
髪を梳いて耳元を弄られ、小さく呻きが漏れる。
「因縁の…相手だからな。それとこれとは…別だ」
いま求めているのは、と言外に含むと、初めて青年の瞳が揺れた。
「…求めるのなら与えたい、そう思う。けれど」
両の肩に諭すように手を置かれる。
皆まで言われる前に、胸を押して距離を取った。
「皇帝」
「黙れ。もう貴様と話すことはない」
踵を返すと、腕を強く引かれる。
「皇帝、」
「離せ!私とて、同情で抱かれるなど真っ平御免だ!」
途端に、腕が抜けるほどの勢いで引き寄せられ、青年の腕の中に抱き込まれる。
「また、そんな顔をして…」
「はな、せ」
「わかっているのか。私はあなたを憎んでいるんだ」
強く抱き締められる。痛いほどだった。
「私は、あなたが憎い」
初めて背中に回された手は、やはり温かい。
口元を覆う布越しにそっと口付けると、どちらのものともわからない嗚咽が漏れた。
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