狭い世界だ。
皇帝は地平線の彼方までを一瞥する。
各地で小競り合いがあるわけでもなし、領地として争う相手も居ない。
それでも彼の地獄の城を出れば全ての地は自分のものには非ず、ただの一存在でしかない。
許されないことだ。
この世界に在る限りはこの地を支配し君臨する。
皇帝にとってそれは至極自然なことだった。
「またそうしているのですか」
背後に現れた気配は緩やかに皇帝に歩み寄り、隣に並ぶ。
ちらと視線をやると、妖艶な瞳が横目で笑う。
「眺めていても何一つ変わることはないのに?」
「私が変えるときのことを思案しているのだ」
そう、と肯定と否定のどちらでもない言葉を返すとアルティミシアは顔を地平線の奥へ向けた。
表情を失くした横顔は終末を見据えるようでいて、何かに焦がれているようでもあった。
長い睫毛が僅かに震える様は少女のままとも思える。
皇帝は言葉を紡ぐことなく、アルティミシアの頬に指を伸ばした。
「…何か?」
触れた指先を咎める物言いに皇帝は知らず安堵する。
踏み入ることを拒む者同士だからこそ謀略の盟友となり得るのだ。
皇帝は心中をおくびにも出さず、唇の片側を吊り上げた。
「髪がほつれている。そのままにしておくのはどうかと思えるが」
「…え」
少し目を丸くしてからやっと、アルティミシアは首元に垂れた一房に気付いたようだった。
問い掛けることもなく皇帝は毛先を掬い上げ、元の流れに加える。
指先で仕上がりを撫でつけると、アルティミシアは軽く唇を噛んだ。
「纏まりが悪いのは考えものね」
「私は嫌いではないがな」
「そう」
またも意思の汲めない返答をすると、アルティミシアは踵を返した。
「何処へ?」
「あなたには関係のないこと」
素っ気ない態度に皇帝は喉で笑う。
「計画に狂いのないようにな」
「言われなくても」
すぐに転移魔法を唱えたのか、忽然と姿を消した跡を暫し見つめる。
自分もそろそろ場を後にするべく振り返ったとき、別の気配が目の前に降り立った。
「…何用だ、クジャ」
「用って程じゃあないけれどね」
肩に掛かる髪を苛立たしげに払うと、クジャはじろりと皇帝を睨み付ける。
「上から見ていたけど…ああ、話の内容は聞いていないよ。そこまで不躾じゃあない」
「遠目から人をじろじろと見るのは不躾ではないのか?」
「揚げ足を取るんじゃないよ」
クジャは片頬を憎らしそうに引き攣らせたかと思えば、すぐに止めて代わりにぐっと眉を寄せた。
「君ね、女性の髪をいきなり触るだなんてどうかしてるんじゃないのかい?デリカシーの欠片も感じられないね。女性に接するときはね、もっと絹を扱うように丁寧に振る舞うのが常識だよ」
「何だ、嫉妬か?」
「誰が。あんなオバサン」
クジャが吐き捨てるので、皇帝は思わず口元を押さえた。
このような罵詈をアルティミシアが聞けば、あのすっと上がった眉も歪むかもしれない。
クジャは続けてまくし立てる。
「オバサンだろうと象女だろうと、遍く女性には身を引いて相手を立てるのが大切なんだよ。まぁ、あんな硬そうな髪を触っても楽しくも何ともないだろうけどね」
皇帝は込み上げる笑いを堪えて、いや、と呟く。
「あれも朝は柔らかく触り心地は悪くない。好んであのようにしているのだ、何か信条でもあるのだろう」
「あさ……朝!?」
クジャの反応は予想していたよりも耳に煩いものだった。
皇帝は軽く身を引いて考える。
今の話の流れで、何故そこに食い付いた。
クジャは首を振ると、絞り出すように溜め息を吐いた。
「…どうやら野暮だったみたいだね。忘れておくれ」
言って、そのまま飛び立とうとする背中に声を掛ける。
「何が言いたい」
「皆まで言わせるつもりかい、絶対に御免だね!」
ぷいと背けた頬は仄かに染まっていた。
空の向こうへと小さくなっていく姿を見送りながら、皇帝は首を傾げる。
朝の支度が面倒な者同士、互いに髪に手を入れ合っているだけだというのに。
一体何を勘違いしているのだろうか。
推測に意味はない。
皇帝は考えるのを止め、心新たに今一度振り返り地平線に手を差し出した。
手の平を上に向けると、手の中にこの狭い世界が広がる。
唇で弧を描くと同時に、手中の世界を握り潰した。
二人とも毎朝髪のセット大変そう。
でもFFは髪型について言及するのが一番野暮だ。
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