生んだばかりの子どもを奪った白い手が、同じ人間だとは思えなかった。
伸ばした手は払いのけられ、動かない体を押して起き上がると即座に鎮静剤を打たれた。

歪む視界の中泣き声だけが残り、それが最後だった。






「あなた、セフィロスはどう?」

「血圧が低いのが気になるが、概ね正常値だ。経過は順調だよ」

「そう。良かった…」


落とした視線の先で、白いシーツの上を指が迷う。
意を決して顔を上げると、眼鏡の奥と目が合って僅かに安堵する。
瞳からは労りの色がきちんと読み取れた。


「セフィロスは泣いたりしていない?」

「乳児だからね。泣くときは泣く」

「そうじゃなくて…」


拳をぐっと握ると、シーツに皺が出来る。


「セフィロスに会わせて」


眉がぴくりと上がる。
それも一瞬のことで、やれやれと溜め息が続いた。


「無茶を言うんじゃない。今は産後で、君は体を休めなければならないときだ」

「でも、あれから何日も経っているのよ。おかしいでしょう?ずっと病室に閉じ込められているなんて」


そう訴えるも、節の目立つ指でカルテを捲ると緩く首を振る。


「いいや。経過が良くない。それに、最近眠れていないようだが」

「だって…だって、こんなのってないわ。あの子が泣いていても、私は抱き上げることすら出来ないだなんて。私は母親なのよ」


一般利用されているものとは違い、広さも快適さも申し分ない病室ではある。
食事はベッドまで運んで貰えて、バスルームも室内に備えられていて外に出る必要はない。
外に出ることを許されない。

またも首を振ることで否定される。


「駄目なものは駄目だ。弁えたまえ、君も科学者だろうに」

「科学者である前に私は母親よ。あなたも、あの子の父親でしょう?あなたから何とか言ってくれないかしら」

「プロジェクトの責任者はガスト博士だ。私の一存では」

「だったら博士をここに呼んでよ!」


唐突に荒げられた声に驚いたのか、目が見開かれる。
だがそれがすうっと細まると、同時に席を立つ。


「体に負担を掛けると良くない。もう失礼するよ」

「待って!まだ話は…」

「プロジェクトのことを最優先に考えることが出来ないのなら、君は科学者失格だ。だが私はプロジェクトの成功を願っているのでね」


伸ばした手は、視線によって払いのけられた。
信じられないものを見るように歪められた顔を一瞥すると、すぐに部屋を出て行く。

外から施錠の音が聞こえた。
残されたのはがらんとした部屋の中の静寂だけだった。

部屋の中は何処を見ても白しかない。
白い壁、白いシーツ、白い手、白衣。
吐き気がする。


あの人は感情を表現するのがうまくない。
それでも僅かな切れ端から愛情を感じ取れていたし、その不器用さを愛してもいた。
それも、科学者としての心構えとやらの前に消え失せてしまったらしいことにただ呆然とする。

体調が快方に向かっても、今後プロジェクトに復帰出来ることはないだろう。
そしてこの部屋から解放されることもないだろう。

夫はこれからも、身を案じて様子を見に来る。
母体もサンプルのうちなのだ。




…逃げなくちゃ。









食事を運んできた助手らしき白衣の男を気絶させるのは容易いことだった。
暇潰しにという名目で入手してもらった分厚い書物の角でこめかみを殴り飛ばす。
人体のことなら知り尽くしている。
暫くは目覚めないだろう。

天井の一角を見上げて睨み付ける。
どうせ監視しているのだろう。
助手の胸元を探り、カードキーを盗んで外に飛び出した。

廊下を見渡すと現在地はすぐに把握出来た。
人が集まってくる前に走り出す。
エレベーターにも監視カメラは設置されているが、研究部署との連携は取れていない。
途中まで降りて、あとは階段で裏口から出れば。






何度も夢に見た。
あの子が生まれた日のことを。
プロジェクトが成功すれば、この子は人類の未来を開く道標となる。
神の子だ。
そう言って名付けた。セフィロス。




気が付くと、ベッドの上だった。
あの真っ白な天井ではなく、どこか暖かみのある木材の色。
どうやら近隣の町に辿り着いたところで力尽き、意識を失って助けられたようだ。

あそこに戻ることは出来ない。
例え地下に逃げ込んでもすぐに見付かって連れ戻されるだろう。
混乱に乗じて忍び込むくらいしか方法が考えつかなかった。

あの会社への反感を募らせる反組織が芽生えているということを小耳に挟んだことがある。
それが充分な兵力になるまで待つ。
そして、それを雇えるだけの額を貯めるとなればとても数年やそこらでは成し得られそうにない。
穏やかな空気の漂うこの町は身を隠すのには打ってつけだった。






年月が過ぎるのは思っていたよりもずっと速い。
仕事はすぐに見付かったが、賃金は低かった。
生活費を切り詰めても貯まる額は僅かなもので、気ばかりが急く間に何度も年が明けていく。

情報を得るために取っていた新聞に我が子の名を見付けたのはそんなときだった。


「…ウータイ戦争の英雄セフィロス。…セフィロス…?」


目を引き付けた字列を何度も諳んじる。
驚く程に成長した我が子の姿がそこにあった。
ここ何年か小競り合いを続けていた戦争で、目を見張るくらいの戦果を挙げたということが書かれている。

闘いに身を投じているのは不安で仕方がないが、これだけ高く評価されている。
まるで自分のことのように嬉しかった。


それから、新聞の一面を連日飾ることになった。
帰還、凱旋パレード、特別賞与の授与…

全て切り抜いて大切に保存してある。
写真の中の輪郭を愛おしげに撫でると同時に、胸が裂かれそうな程に痛む。
会いたい。


発作的に机の上のものを全て払い落として、まっさらな机に突っ伏して泣いた。
どうして傍にいるのが自分ではないのだろうか。
帰ってきた姿を一番に出迎え、一番賞賛してやりたいのに。


自身でも呆れる程に泣き尽くして、もう一度新聞を見下ろす。
泣くのは終わりにしなくてはならない。


「母さん、頑張るからね。セフィロス」


待っていて、と優しく写真の頬をなぞる。

泣き腫らした顔では明日の仕事に出られない。
何より、母が泣いて暮らしたと知ればあの子がどう思うだろう。


洗面台に向かうと冷水を両手に受け、顔を濡らす。
冷たさに身が強張るも少し息が落ち着いて鏡を覗く。
胸がざわついた。
何かとんでもないものを見逃しているような違和感。

鏡に映った目鼻立ちはびしょ濡れてもなお整ったものだった。
すっと通った鼻筋にぴんと張った目元。
もう何年も手入れをしていないというのに張りを保っている肌。
この町に逃げ込んだときと、何一つ変わらぬままだった。
老いていない。


「ヒッ!」


喉を潰したような声が出た。
ガクガクと震える体を押さえ込んでもまだ膝が笑う。
力の抜けるまま床に座り込むと、先程落とした調度品が指先に触れる。
鏡に向かって投げつけた。


「ごめんね、ごめんなさい、セフィロス、ごめんなさい」


ばらばらと床に散らばっていく破片を見つめながら泣き崩れる。
その一つ一つに、年をとらない化け物が映っていた。

会うことなど叶わない。
この姿で母だと打ち明けて、一体誰が信じるだろう。


ふらりと立ち上がると、身一つで屋外に出た。
出奔したと噂が立つだろう。
そして、いつか皆忘れていくだろう。それでいい。


誰にも見られてはいけない。
あの子の母だと知られてはいけない。
化け物の子だと揶揄されるのを想像しては涙が零れてきた。
もうすっかり成長しているのに、想像の中ではいつまでも泣いている赤ん坊のまま。
抱き上げてやらないと。
泣いてる。泣いてる。私が恋しいの。私もよ。会ってやらなきゃ、会いたいの。会えないの、どうして。苦しい、でもあなたのためなの。そうだったかしら。どうだったかしら。愛しているわ、セフィロス。愛しているわ。愛しているわ。愛しているわ。








ルクレッツィアは母性がゆえに狂ってしまったひとという印象がある。
タイトルはマザーグースから。




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