「いつまでそこに突っ立ってるつもりだ」
叱責の色を含めて強く言うと、セシルはびくっと顔を上げた。
しかし、動くことはせずにそのまま傍らの壁にしがみつく。
「だって、本当に何も見えないんだ。怖いんだってば」
「だから目薬を貰いに行くんだろう。早くしろ」
必死なくらいに首を振るセシルに、カインは溜め息を吐いた。
セシルが暗闇状態にかかったのは、ちょっとした事故だった。
城内の廊下で角を曲がったときに黒魔道士団の隊員とぶつかって、実験用と思しき薬品を被ってしまった。
向こうはそれはそれは恐縮して、体に異常がないかと尋ねてきたが、セシルは問題ないと笑って黒魔道士を見送った。
セシルが唐突に立ち止まり、「見えない」と呟いたのはそれから数分後のことだった。
バロン周辺には暗闇の状態異常をかけてくる魔物は生息していない。
目薬はもしものときのための常備薬という程度で、使用頻度はそう高くもない。
よって、回復薬を持ち合わせてはいなかった。
検査の意味も含め、医務室へ行かねばならないと言うのに。
「段差があったら絶対落ちるし、真っ直ぐなんて歩けそうにない」
「だから俺が付き添ってやっているだろう」
「それなら、せっかくだから目薬を貰ってきてくれないか。ぼくは待ってるから」
「おまえ」
じろりと睨みをきかせると、見えていないにも関わらずセシルは身を固くする。
「相手が俺だと思って甘えていないか」
「うん、少し」
「この野郎」
妙なところで素直に答えるので、カインが思わず笑うとセシルもつられたように笑顔を見せる。
「だが、駄目だ。症状は暗闇だけのようだが、他に何も無いとは限らんからな」
「…出来れば検査は受けたくないんだ」
「あの黒魔道士隊員を気遣っているのなら、無用だぞ。処罰こそないだろうが厳重注意くらいは受けて然るべきだ」
「そんな」
セシルはぱっと顔を上げると、何か言いたそうに口を開閉させる。
こういうとき、自分から口を開くまで待つことにカインは慣れていた。
言葉を挟まずに、せめて沈黙を重苦しくしないよう互いの呼吸の音だけを追う。
何度目かの息を吐いてから、セシルは漸く心情を言葉へと移す。
「…薬品の取扱いに問題がある、とはぼくも思った。あんなに簡単に零してしまうようでは保管状態も怪しい」
「ああ。黒魔道士団はまだ実戦向きには程遠い。殺傷力を持つ手だてがない故に、危機管理の意識が低いのかも知れん」
問題だな、と結ぶ。
セシルは合わない焦点を床に向けて頷いた。
「でも彼らはよく頑張っているし、魔道士団の新設は陛下の案だ。余計な問題は起こしたくない」
「気持ちはわからんでもないが、問題の先送りに過ぎんぞ」
「…それでも、今回はぼくだったから。なかったことにしておきたい」
少し間を置いて、わかった、と返すとセシルは俯いたままの顔を上げずに頷いた。
「黒魔道士団に規制がかかれば白魔道士団に影響が出ないとも限らんしな」
「…どうして白魔道士団の話を?」
途端に強張ったセシルの表情を見て、歩み寄ろうとしたカインの足が止まる。
かつ、と踵が石畳を一度だけ叩いて静寂に消える。
「…ローザの想いはわかっているんだろう」
冷徹な声音にならぬよう、カインは細心の注意を払いながら呟いた。
セシルの目が見えていなくて助かった。
表情まで作らないで済む。
セシルは苦しそうな呼吸を一度だけ吐いて頷く。
「…でもぼくは、彼女の気持ちに応えることは出来ない。暗黒の力を持ちながら、どうやって彼女を幸せに出来るっていうんだ」
セシルに掴みかかりそうな自分を、カインは唇を噛むことで抑えた。
彼女の未来を案じて自身の心を封じることがどういう意味を持つのか。
それは、好いているということに何の変わりもないだろうに。
「どちらにせよ」
身に溜まる毒を吐き出すかの如く言葉を吐く。
「診察はきちんと受けろ。余り心配をさせるな」
「ローザにかい」
「俺にだ」
セシルは驚いたように顔を上げると、少し笑う。
「珍しいな。カインがそんなこと言うなんて」
「いつも思ってるさ。行くぞ、壁と同化するつもりか」
促して踵を返すと、なあ、とセシルの声が背中を追った。
「…見えなくて怖いのは本当なんだ」
「あのなあ…」
靴を鳴らして歩み寄ると、セシルはびくっと肩をすくめる。
「ほら」
一言だけ言って、手を差し伸べる。
セシルは見えていない目できょろきょろと探ったが、真っ直ぐにカインに手を伸ばした。
槍で擦れた固い指先を掴んで、セシルは安堵を顔一杯に広げる。
莫迦な奴だ。
暗闇が怖いと言うのに、進めないと言うのに、この手が標にでもなるというのか。
この体がどれだけの暗闇を宿しているかも知らないで。
手を引いてやると、セシルは訳もなくあっさりと壁から離れる。
「何だか変な感じだな。カインと手を繋ぐなんて」
よたよたと頼りない足取りをしながらセシルが言う。
カインは足下に障害物がないか見渡しながら進んだ。
「おまえがうだうだ煩いせいだろう。目を瞑っても真っ直ぐ歩くくらい出来るようになれ」
「竜騎士団は平衡感覚が並じゃないからそんなこと言えるんだ」
カインはいいよな、と珍しく拗ねた声を出して呟く。
「ならば、こっちの訓練に混ざってみるか?」
「脹ら脛が破裂するよ」
セシルの言い分に笑いながら、カインは心中で密かに思う。
セシルが人を羨むことは多くない。
本心はどうあれ言葉には出さない。
冗談にせよ、自身の不遇を口に出せる相手はカインぐらいのものだろう。
カインもまた、セシルを羨む素振りだけは見せるつもりがなかった。
くだらない矜持とは違う。
セシルが手放しで縋れる場所がこの手だと言うのなら、せめてこの闇はひた隠しにしておこうと。
ただそれだけだ。
セシルの足音が自分のものと大差なくなっていくのを聞きながら、カインは深く息を吸い、口を引き締めた。
身の奥深くに闇を閉じ込めるかのように。
見せてはならないものだ。
これは、知られてはならないものなのだ。
そうして、抱えた暗闇で一人で盲いていく。
そんな覚悟はとうの昔に出来ているのだ。
カインが色んなことに傷付いてるのを知ったらセシルは頼れなくなるだろうから、絶対に見せない。
プライドよりもそっちの方がでかいとうちは嬉しい。
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