その先
母さんが倒れたのは、初めてのことじゃない。
俺が知る限りでは過去に1度だけ。父さんと離婚してすぐの頃。俺がまだ6歳で瑞貴と希一はまだ2歳だった。
きっと過労が原因だったんじゃないかと思う。入院したのは数日で、帰ってきた母さんはすごく元気だったけれど、いつかまた倒れてしまうんじゃないかっていう不安はずっと消えずに残っていた。
「もしもし?メール見たんだけど、母さん倒れたって本当?」
『メールって…ああ、希一が送ったのかな…。』
電話に出たのは瑞貴だった。思いのほか落ち着いた声。想像していたより深刻な状況ではないみたいだ。
『大丈夫、母さんはたいしたことないよ。』
「でも倒れたって書いてあったけど…。」
『そうなんだけど、ただの風邪だったから。倒れたのもただの立ちくらみ。希一は目の前で倒れるのを見てたから動揺しちゃったんだと思う。兄ちゃんが旅行に行くっていうのは聞いてたから連絡しないでおこうと思ってたのに。』
「なんだ…、今はもう大丈夫なの?」
『うん。熱も下がってきたし心配しないで。旅行楽しんできてよ。母さんお土産楽しみにしてたよ。』
「わかった。年末に帰るからそのときに渡すよ。」
電話を切って勝威さんに「風邪だった」って伝えると「なんとなく聞こえてた」って答えた。
……なんだか短時間ですっごく疲れた。なんともないみたいで安心したけど。
母さんは頑張りすぎるところがあるから、風邪をひいたときぐらいはゆっくり休んでほしいと思う。
「勝威さん心配かけてごめんね。もう寝る?」
「そうだな。明日も早いし。」
枕元の間接照明だけ残して部屋の灯りを消した。せっかく2組用意してもらった布団だけど片方は使わないかな。いつもそうしてるようにひとつの布団に2人で入った。部屋の中は真っ暗でも淡い橙色の灯りのおかげで、向かい合う勝威さんの姿はよく見える。
これは温泉に入る前から考えていたことで、あんまり意識しないように気をつけていたんだけど。今のような状況になるともうどうしようも無いっていうか。
「…あのさ、俺ね、さっきから浴衣の勝威さんを直視できないんだよね…。」
「……今更?」
いつもと違う場所。いつもと違う格好。非日常な空間がそうさせてるのかな。少しの変化でもこんなにドキドキする。
「勝威さん、眠い…?」
「いや…。まだ大丈夫。」
ごめんね。ほんとは眠たいよね。でも最近ちょっと、眠るのが怖いんだ。1日1日が終わるのが嫌なんだと思う。
あと何回こうやって過ごせるのかなって。そんなことばかり考えているせいだ。
「そういえば、今日龍安寺で縁と2人になったときに、縁は卒業したら高遠さんと住むって言ってたよ。」
「そうだろうな。高遠は大分前からそれ言ってたし。」
「勝威さんも、大学が東京だったら就職もそっちだよね。」
「…そうだろうな。多分。」
縁と高遠さんが一緒に住む"って。それが正直とても羨ましかった。
住むところが離れてしまっても、電車で片道数時間、長い休みがあれば会いにいける。毎日一緒にいられなくても勝威さんへの気持ちは変わらない。
何度も自分に言い聞かせた。だけどやっぱり、それは今の俺にとってはとてつもない恐怖だったから。
「……俺、さっき母さんが倒れたって聞いて。結果的に今回はなんともなかったけど、でもそのときにずっと迷ってたことが自分の中で決まった気がして。」
どうすればいいんだろう。
どうするのが一番良い方法なんだろう。
何が正解なんだろう。
勝威さんが東京に行くって聞いてからずっと考えていたこと。
「俺さ。高校卒業したら地元に戻ろうと思う。」
一緒にいられない。
その事実が、この先どんな結果をもたらすんだろうって。
ただひたすら、怖くて怖くて仕方なかったんだ。
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