paradox
自室へ着くと縁はすでに帰ってきていて、ソファで横になっていた。ドアの開く音を聞いて「おかえり」って言いながら起き上がる。包帯で固定された左足が目に留まった。
「ただいま。足、大丈夫?」
「うん。でもクラスの片付けは出来そうになくて先に帰ってきちゃった。」
「しばらく不便だね。」
「たいした捻挫じゃなさそうだからすぐ治るとは思うけど。分担してた家事とかできなくて鷹臣に迷惑かけちゃったらごめんね。」
縁は申し訳なさそうに呟く。いいのに、そんなの。気にすること無いのに。
「でもさ、危なかったよね。一歩間違ってたらもっと大事になってたかもしれないし。」
「うん、まぁね…。そうだけど、兄貴もあんな担ぎ上げて運ぶこと無いのに。ああいうのすごい嫌なんだけど。」
勝威さんを非難するような言葉に多少の苛立ちを感じてしまう。
「そういう言い方はないんじゃないの?」
つい、語気が強くなってしまった。勝威さんに対して縁が素直な態度を取らないのなんていつものことなのに。慌てて縁の方へ顔を向けると、俺の反応を見て少し驚いた表情をしていた。
「ごめん…。勝威さんも怪我してたし、そんな風に言わなくてもいいのにって思っちゃって…。」
「…うん。そうだね。」
なんとなく気まずい雰囲気にしてしまった。この空気をなんとかしたくて、次に続く言葉を急いで探す。
「そ、うやってさ。縁はいっつも勝威さんのこと悪くばっかり言うけど、ほんとは勝威さんのこと大好きなんじゃないかって、前に高遠さんも言ってたよ。」
今度は明るく言えたはずだった。ふざけた感じで、なんてことないように。そうしたらいつものように縁も「やめてよ」とか「気持ち悪い」とか言って、それで終わる話だと考えていた。
だけど縁は何も言わず黙り込んでしまった。無言のまま俺の目をただじっと見つめている。その表情からはどんな感情も読み取れなかった。
「高遠がそう言ったの。」
抑揚の無いその声に、今度は俺が言い淀む。伝えてはいけないことだったんだろうか。だけど高遠さんだって冗談交じりで言っていただけでそんなに深い意味があるようには感じなかった。
「鷹臣、僕は兄貴のこと、好きでも嫌いでもないよ。」
「……うん。」
まるで小さな子供に言い聞かせるかのように、縁はそう言った。
好きでも嫌いでもないって、そんな言い方あるだろうか。そりゃ家族である前に人間同士であるわけだから、血の繋がりなんて関係なく好きや嫌いの感情は当然存在するものではあると思うけれど。
知り合ってからの2人の間に、"好きではない"なんて言ってしまえるほどの険悪な雰囲気は感じ取れなかった。
少なくとも、勝威さんは縁のことをちゃんと気にかけているのに。
「……喉渇いたから飲み物買ってくる。縁も、なにがいい?」
「ありがとう、でも僕は大丈夫。」
妙な空気に居心地が悪く、結局俺はこの空間から逃げてしまった。
部屋を出て玄関ホールに設置されている自動販売機へ向かう。買ってすぐに戻るべきか、それとも少し時間を置いたほうがいいだろうか判断に迷う。
一緒に学園祭をまわっているときはあんなに楽しかったのに。どうして急にこんなことになっているんだろう。俺のせいかな。俺の余計な嫉妬心が縁に伝わってしまったせいだったらどうしよう。
コーラのペットボトルを1本だけ買って部屋へ戻ろうとしたとき、廊下の向こうから足音が響いた。
「…鷹臣くん?」
現れたのは、既に私服に着替えている高遠さんだった。
「もう入り口は施錠されてるのに、なんで下級生寮にいるんですか?」
「うん、清風たちの部屋に遊びに来てたんだよね。俺も飲み物買いに来たとこ。」
「きよかぜ?」
「小林って言ったらわかるかな。」
小林って、前に縁が高遠さんの中学のときからの後輩だって言ってたっけ。
「2年生の人ですよね?」
「あーそうそう。」
ふと、先ほどの自分の発言を思い出す。脈絡も無く高遠さんの名前なんか出さなければよかった。縁へ「余計なことを言ってしまったかもしれない」と、伝えておいた方がいいだろうか。
「鷹臣くん、そういえば勝威から聞いた?名前のこと。」
「あ、はい。2人になったときに…。」
「ちょっとびっくりだよね。"みどりちゃんが"、ならわかるけど。あんまり深いところまでは俺も詮索してないけどさ。」
「え…そんなに、驚くようなことですかね?」
名前の話だよな?勝威さんの名前だけ母親がつけたって。ただそれだけの話なんじゃないのかな。
「え?だって、3人兄弟の真ん中だけ母親違うんだよ。どういうことなんだろって思わなかった?」
高遠さんの言葉に心臓がどくんと波打った。
母親が違うというその事実よりもむしろ、俺には話してもらえなかったということに。
いやでも。そんなに簡単に話せることじゃないはずだ。自分自身だけじゃなく家族のことだし、出会ったばかりの俺が知っていいような話ではないと思う。
頭では理解できる。それなのに、言葉に出来ない疎外感を感じていた。
「あ、えっと。もしかして俺、なんか勘違いしてる…?ごめん、鷹臣くんにだったら絶対話してると思ってて…。」
顔色の変わった俺の様子を見て高遠さんはようやく気がついたようだった。あの高遠さんが珍しくうろたえている。
「すいません。俺はそこまで詳しくは、何も…。」
「ああ…そっか。ほんとごめん。いや、勝威ももしかしたら後から話そうと思ってるのかもしれないし!」
「高遠さんは気にしないでください。大丈夫です、俺は。」
一体何が大丈夫なんだろう。自分で発した言葉があまりに漠然としていて笑えてくる。
縁と勝威さんの顔を思い浮かべた。まだ知らないことばかりだ。当たり前だけれど。どんな事情があったってそれを全て話さなければいけない義務なんてない。俺だって全部を伝えているわけじゃない。
「それにまぁ、母親は違うかもしれないけど3人とも兄弟には変わりないし。」
俺を慰めるように高遠さんが言葉を続ける。父親は同じだってことか。それなら血は繋がってるんだ。2人は間違いなく兄弟なんだ。
「鷹臣くん、ほんとに大丈夫。」
「はい、ただちょっとびっくりしただけで…。」
「……俺が聞くのもなんだけど。ねえ。鷹臣くんは自分で気づいてる?」
「気づいてるって、なんですか。」
高遠さんの表情が強張っている。以前に勝威さんとのことで厳しく言われたときだってこんな顔は見せなかった。
次の言葉を聞くのがなぜか怖い。
「鷹臣くん、今、ほっとした顔してるよ。」
次の瞬間、目を背けていた気持ちが姿を現して襲い掛かってきた。
漠然とした不安、自覚のない安堵。
縁と勝威さんが"血が繋がっていてよかった"と、感じていること。
「ごめん、苛めるつもりはないんだ。わかるよ、気持ちは。」
わかるって。高遠さんもそんな風に思うことがあるんだろうか。俺はただ、勝威さんのことが好きで、好きだから、弟の縁に対してもこんな気持ちを抱くんだと思っていた。
「勝威とみどりちゃんは兄弟で、覆ることのない圧倒的な事実を前にしても、それでもたまに考える。『俺はあの子の一番にはなれないんじゃないかな』って。」
握ったペットボトルの水滴が右手を伝って流れていった。口の中がカラカラに乾いていたけれど蓋を開けて飲む気にはなれない。廊下の床を、ただずっと見ていた。高遠さんと目を合わせることができないまま。
「縁に直接聞かないんですか。」
だって高遠さんと縁は俺から見ても本当に信頼しあっていて。他の人が入り込む余地なんかないくらいで。不安になるなんてそんなこと有り得ないと。
俺の問いに対して高遠さんは無言のままだった。答えを考えているというよりは、発することを躊躇っていたんだと思う。顔を上げると高遠さんは先ほどよりは少し穏やかな顔で、だけど小さな声で呟いた。
「鷹臣くん、俺にだって、認めたくないことくらいあるよ。」
答えを聞いて後悔した。言いたくないことを言わせてしまったんだ。
何度も助けられているのに。高遠さんはいつも、縁や勝威さんだって気づかないようなところまで俺のことを気にかけてくれているのに。自分の鈍感さに辟易する。
「みどりちゃんの勝威に対する気持ちは屈折してるんだ。今はうまく説明できない。それに聞いたところでさ、みどりちゃん自身に自覚がないならしょうがないじゃん。」
淡々と話す高遠さんの言葉が胸を締め付ける。
意識しない感情が心の中に無数に存在していて、それも全て自分自身の一部なのだと認めなければいけないのなら。
そのたくさんの感情の、どれをもって本心と呼べばいいんだろう。
俺にはわからない。
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