(企画提出 人間論さまへ)
ああ、目の前の男が何か言っている。
薄暗いカラオケボックスで、私と、男と。あと二人、少々高い声の女と、清楚な見た目とは裏腹に、キツイ香水を撒き散らす女がいる。…これは、薔薇かな。部屋に充満するそれをどうにかしたい気分に駆られたけれど、カラオケボックスに窓は無い。仕方無しに、埃っぽい換気扇のスイッチだけを押した。
男は神だのあの世だのという話を延々と二人の女に聞かせ続けている。何かの宗教でも広めているんじゃないだろうな。自らの命を絶つことで死後を救うなんていう神様はいるのだろうか。私はそういうものにあまり詳しくはないけれど、そういうのは生きている間の信仰が大事、とかいうものなんじゃないのだろうか。…ああ、もしかしてこの人、私と女と女の自殺を止めに来たのかな。うーん、別に私以外はどうなってもいいけどなあ。ゆらり、目の前のグラスの中の水面が揺れた。男に手渡されたその液体は、溶けた氷で薄い茶色になっている。グラスの表面に付いた水がつう、と伝って同じ色の机に落ちた。何だろう、これ。ウーロン茶ってところかな。飲もうかとも思ったけれど、先程やめた。折角の曲がるストローを上下逆に刺してしまって、何だかそれが滑稽に見えた。まるで私の人生みたい、なんて。
「君は?死んだ後ってどうなると思う?」
「は?」
男、――ええと、奈倉、だっただろうか。彼は胡散臭い笑みを浮かべて、私のほうを向いた。暑くないのかなあ、そのコート。思ったけれど口には出さない。
「心臓が止まるんじゃないですかね、多分」
「うん、その後だよ。心臓が止まって、君はどうなると思う?」
「はあ?脳が死んだ時点で自我なんて無くなるでしょう。どうなるも何も、そこで私は終わり。宗教勧誘なら私以外にしてもらえます?私もう飽きたんで、死にますから」
あーあ、結局一人で死ぬのかあ。あ、でも死体の始末くらいしてくれるよね。うん、それじゃあ来て正解。人ってどうしたら死ぬんだったかな。舌噛むのはショック死だっけ、あれ、でも息も出来なくなるって聞いたことあるような。ちょっとよく覚えていない。…ああ、ボールペンを喉辺りに刺すなんてどうだろう。確か鞄の中に入っていたし、良さげだなあ。念のために…何だっけ、飲んだら危険なものとかも持って来ているんだけれど。あ、でも痛いのは嫌だなあ。喉にボールペンって、痛そうだもんなあ。ふと目を移した一度も歌っていないカラオケの画面では、今話題らしいアーティストが曲の紹介をしているところだった。何でも夢や希望を題材にしている曲だとかで、聞いていると勇気が湧くらしい。…ちょっとよく分からないかな。目の前の男がひとつ、瞬きをした。
「なあに、貴方も、死ぬ?貴方は死ぬ気なんて無いかと思っていたんですけれど」
「…いや、そのボールペンと小瓶、何に使うのかなあって」
「ああ、喉に刺そうかと思ったんですけれど、痛そうだし危険らしい液体を飲むことにしたんです。欲しいならまだありますよ?」
「っははは、へえ、本当に死ぬんだ。君はどうして死ぬんだい?」
「そこ辺はそこの二人と同じかと。適当に生きてはいたんですけれど、夢とか希望とかそういうの、分からなくなっちゃって」
そうして横を見ても、女と女はいない。あれ、可笑しいな。薔薇の香りは、まだまだ衰えてなどいないのに。
「彼女たちならほら、そこに倒れているよ。薬が効いたみたいだね」
「薬?この香水…は私も吸ってるか。ああ、この飲み物?」
「よく分かったね。君はどうして飲まなかったのかな?」
「別に。ストローの向きを間違っちゃって、嫌になっただけ。…まあいいや、私の死体、適当に始末しておいて下さいね」
小気味良い音を立てて小瓶の栓が抜ける。それを一気に飲み干そうとして、――小瓶が宙を舞った。床に落ちて、欠片が散らばる。あーあ、勿体無い。小瓶を弾き飛ばした張本人の顔は、愉快そうに笑んでいた。
「死んだら夢も希望も無いよ。君もさっきそう言ってたじゃない」
「…まあ、生きてても死んでても無いなら生きていなくたっていいかなあと」
「つまり君は夢や希望を欲しているわけだ」
「ああ、そうかもしれないですね」
「それなら俺が与えてあげよう。君みたいな面白い人間、俺が死なせると思ったの?…生きてみなよ、もう少しさ」
そう言って男は、玩具を見つけた子供のように笑って見せた。じわり、視界が滲んで変な気分。ああきっと、この強い香水に酔ったんだ。埃っぽい空気を吸い込めば、うるさい気がする心臓が、ぐわんぐわんと鼓膜を揺らす。肺から空気を吐き出せば、渇いた喉がカラカラと鳴った。あ、スピーカーから流れてるこの曲、結構好きかもしれない。
………
Dum spire, spero.
死んでしまえば希望など持てない
(息をする間、私は希望を持つ)
(手を止めて深呼吸せよ。希望がわくだろう)
()内の訳は「ラテン語 格言集」様より。
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