「聞いておくれ日吉少年。嫌がらせが止んだんだ」

「は?」

一拍置いて「…ああ、良かったですね」と返してくれた日吉少年だったが、君絶対忘れていただろう、…とは言えなかった。そんな日吉少年は置いておいて。さて、嫌がらせが止んだのである。まあ確かに私は最近首を抑えはするものの、全く痛いと思わないので不気味にも見えるのだろう。昨日に至っては指に刺さった画鋲をまじまじと見詰めてしまった。…痛くないと、私は抜くのも面倒になるらしい。

「例の…社長令嬢はどうしたんですか」

「んー?ああ、何か信じられないものを見るような表情で顔面蒼白になってた」

「………そう、ですか」

腑に落ちないといったふうに返事をする日吉少年は、「良かったじゃないですか」と再度口にすると鞄を持ち直した。「今日は、」少し迷うように口を開く。

「…今日は、レギュラーと準レギュラーで試合形式なんだそうです」

「部活?おお、頑張れ。応援してるよ」

「……下剋上、してきます」

「ん?あ、対俺様跡部サマ?それは頑張れ是非倒してこい」

「…無理だって、言わないんですか」

「え?何でそんなこと言うの、アレも人間だよ?一応」

私の返答を聞くなり驚いたように目を丸くして、日吉少年はふにゃりと笑った。普段の彼からは想像もつかないような笑い方である。他の表現を探すなら、気が抜けたような。緊張の糸が緩んだような。年相応の笑い方であった。

「こっそり見てるから、頑張れ」

気合を入れなおしたらしい日吉少年に、ひらひらと手を振った。



***



「お疲れ、日吉少年」

日が沈むまで自主練を続けていた日吉少年に、その辺にあったタオルをパサリと投げた。彼は私を一瞥すると、そのタオルで汗を拭う。「首、」小さく呟いた声が聞こえて私は慌ててそれを抑えた。

彼は負けた。そりゃあ相手はあの俺様跡部サマである。ギャラリーも、他のテニス部員も、自信家の跡部景吾も、もしかしたら日吉少年も、何となく分かり切った結果であった、そんな顔をしていた。準レギュラーは誰一人として、レギュラーには勝てなかった。私のような素人から見ても実力差は明らかで、けれども日吉少年は、少なくとも日吉少年は最後まで全力で試合に臨んでいた。それだけで彼は凄い人だと思えるのだけれど、今の日吉少年に伝えるにはあまりに陳腐な言葉に思えた。私は今の彼に掛けるべき言葉を、何一つとして持ってはいないのだ。

「…負け、ました」

「…、うん」

「でも、…次は、勝ちます」

そう言った彼の顔はどこかすっきりして見えた。「送っていきます、少し待っていて下さい」その言葉はいつも通りの声で、少し安心する。戻って来たとき笑われないよう、首の位置も確認して準備万端である。

「なまえ?」

後ろから、聞き覚えのある声が私の名前を呼んだ。それは今、私が、最も聞きたくないと思われる声であった。


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