跡部景吾というひとは、世間の女の子が惹かれる要素をとてもたくさん持ち合わせた、彼女たちから見ると完璧な人間であったのだと気付いたのは中学生になったばかりの頃であった。長い付き合いの人間から言わせてもらうと、彼は確かに多才であったけれど、完璧という言葉が似合うほどではなかったと思う。そもそも完璧とは何なのか。跡部景吾というひとは、確かに顔がよく、家柄がよく、金持ちで、才能に溢れ、努力を惜しまず、自信とそれを裏付ける実力のあるトンデモ人間だ。正直同じ人間とは思えない。けれども彼だって自信家すぎることを始めとして、弱さや欠点が確実に存在する。だからこそ私は彼と関わることが出来ていた。ただ、そんな人間と当たり前のように過ごしてきた私は、図らずとも、…何と言うべきなのだろうか、恋愛というものに疎くなったと思われた。どこかで私の中の基準というものが、狂ってしまったのだろうと、思った。
『…みょうじ先輩?』
電話越しに聞こえる、まだ少し幼いコエ。動いていない心臓が、どくりと鳴った気がした。ベッドの上で横になった眠れない身体を温めるように頭から布団をかぶり、携帯電話を耳に押し付けた。冷え切った私の身体が温まることはなく、けれどここ数日で聞きなれた筈の電話越しの無機質なコエは犯すように耳を這い、思考を溶かして心臓の辺りへと収まっていく。どくり。聞こえる筈のない心臓のオトがやけに響いて聞こえて、感じない筈の熱が顔を覆う。「みょうじ先輩?」返事をしない私を心配するような声にはっとして、とっさに謝罪を口にした。
『何かありましたか?』
「ううん、大丈夫。ちょっと考え事しちゃった、ごめんね?」
『…本当に、大丈夫ですか』
「え?」
迷うような少しの間を空けて、「泣いて、ませんか」と彼は小さく尋ねてくる。「やだなあ、私、涙なんて出ないよ」誰も見てなんかいないのに、布団の中で無理矢理口角を吊りあげた。鏡があったなら、さぞかし痛々しい笑みとやらを浮かべた私がいることだろう。出てしまえば楽になる筈のナニカが出てこない。「あ、もう日付変わっちゃったね、ごめん。もう切るよ、おやすみ」少しして聞こえたまた明日、という言葉を合図に、携帯電話のボタンを押した。
「…ほんとに、」
何で私、死んだんだろ。そういえばこんなこと、初対面の日吉少年にも言われたなあとぼんやり思った。今思えば、随分馬鹿なことをしたものだ。あの時の私は、少なからず追い詰められていた。限界というやつだった。誰にも言えなかった。どうすることも出来なかった。痛い、苦しい、…助けて。負の感情に押し潰されて、息をするのが苦しかった。そして最期のテンションへと繋がる。…。…そういえばあの遺書は一体何処へ行ったのか。あんなものを残して死にたくない。明日、日吉少年に聞いてみよう。…そうだ、日吉少年。出来ることなら、彼とは死ぬ前に逢いたかった、なんて。まず私は本当に死んだのか。生きているなら、二度と自殺なんてしないのに。
――泣いて、ませんか。
耳の中で声が響く。泣いては、いなかった。きっと、ただ、…少しだけ、安心して、嬉しくなって、それから、寂しくなった。日吉少年は、酷く優しい。どうしてこんな、首の折れた人間…いや死人を、どうして。…心配、してくれるのだろうか。彼と話すのは楽しくて、どうしてか安心する。彼の優しさが嬉しくて、その分だけ、どうして死んでしまった後に出会ったのかと思うと、寂しい。飛び降りなきゃよかった。そう思うとどうしてか、目頭が熱いような気がするのだ。
どうして私は自分の生死すらも曖昧なんだろう。どうして私は首が折れたまま日常を送れている?どうして私の身体は透けていないの?――どうして?
分からないことだらけの自分自身が嫌になり、ぱか、と携帯電話を開く。日吉若、と表示されたアドレス帳を暫し眺めた後、ひとつ溜め息を吐いて携帯電話をぱたんと閉じた。一瞬で暗闇になる布団の中で今日も私は、眠くもない目を静かに閉じた。
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