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「おい久我」

律也が、白石先輩にも目を向けずうつむいている礼華に声をかけた。普段あまり自分から話をしないからか当然皆が驚いて見ていた。だんだんとざわめきが落ち着く。律也はしばらくの時間を置いてからまた礼華に話しかけた。

「いつまでそうしてんだ。喧嘩は楽しいか?」
「吉田先輩には関係ないやろ」
「そうだな、どうでもいい。ただ、部の空気は乱すな。白石は部長だ。もっとわかってやれよ」

その瞬間を誰もが見ていた。礼華のプライドと律也の不器用さが対峙していた。
ただ、律也が問題に首を突っ込んでいるようにも見えたかもしれない。けれど、彼が思うところは部活の意識にあった。
律也が睨んで言うと、礼華は押し黙ってしまった。その威圧感にフェンスの外に居た女子も竦み上がっている。
そんなに怯えるほどだろうか。
私はあの律也は怖くない。何も考えずに威圧するようなやつじゃない。外見は怖いかもしれないし、初対面での挨拶もそっけないものだと思われるかもしれない。でも大事なものにはこうやってどうにかしようといきなり突っ走ってしまうのが律也だ。彼らしくない一面でもある。
彼は、テニス部の士気、いわば意識を大事にしていた。

テニス部以外から聞こえる音がだんだんとフェードアウトしていく。ついには、何も聞こえなくなってもう慣れてしまったあの感覚が来たのだと自覚した。






捨て猫は衰弱していた。人に何かされたのだろうか、野生の本能だろうか、私たちが近づくと逃げようとした。車がクラクションを鳴らす。猫が、クラクションの方を向いて立ち止まる。律也が猫を抱いて丸くかがむ。私がそれを突き飛ばして、私も車に突き飛ばされた。

「お姉ちゃん、おねえ、ちゃん、!」
「……、」
「お姉ちゃん」
「…だいじょ、ぶ、だよ」
「ごめんなさい、お姉ちゃん、ごめんなさい……」

私の意識があるとわかった時、律也はひたすら謝っていた。私の視界は真っ赤に染まっていた。
律也が、5歳のとき。私が、8歳のとき。
律也が見つけた捨て猫の命と、猫を助けようとした律也の命と心と、私の命。

天秤にかける暇もなかった。律也は優しい子だから、羨ましくて、私にはないものを大事にしてあげたかった。

よくある話だ。作り物のような話。だが幸いにも私は生きていたし、運転手も轢き逃げするような事はなかった。それでも、何も悪くない律也はずっと謝っていた。ごめんなさい。おねえちゃん。ごめんなさい。

「その捨て猫は、律也にとって大事な猫だった」

私たちが生まれる前から両親が飼っていた猫に似ていた。それだけの事だったが。律也はその老猫を大事にしていた。家の老猫が死んですぐに似たような捨て猫を見つけたのだ。幼い律也に違いがわかるはずもない。

それから成長するにつれて、大事なものを作っては予期せず失っていく律也が、変化していくのに気がついた。

「律也は大事なものを作らないようになった」

失うのが怖かったのだ。律也は子どものままだった。手離すことを、手離す前もあとからも良しとはしなかった。

「だから碧の手を握った」

猫の件はその一片だった。大事にしていた猫より、碧を選んだ。それからずっと。碧の生死にかかわらずとも。律也はそれから大事なものを作らなかった。

「碧がどう思っていたのかは、まぁ、」

言うまでもない、かな。





喧騒に意識を引き戻された。
礼華と律也が話し終わり、あたりが再びざわめいていた。
私は目の前にあったフェンスを上って律也の方に走って行った。



面白くもない昔話
(彼は離れを許さない)


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