一片の | ナノ



「お父さんがね、また転勤なの」

単身赴任でもすればいいのに。家計にはそんな経済負担ないし、あんたんとこは会社から手当が出るところでしょ。
腹の中でそう思っても口には出さなかった。どうせ私に話かけてなどいないのだ。
でもその両親が話しかけているのが律也だとしても、律也は無口だからあまり返事をしない。つまり、母のその言葉は単なる独り言であり、報告にすぎず、最初から意見などなにも求められていなかった。

さびしい?いや、私は、律也が幸せならそれでいい。血縁なんて律也しかいないようなものだ。かわいいかわいい弟さえ幸せでいてくれるなら、姉は安心していられる。

コーヒーを飲み干して、私は行って来ますと独り言を言った。律也が慌てて追いかけて来るのを犬の様だと思いながら足を学校へ向けた。

電車で揺られること10分。少し遠いけど、私達はそこから通っていた。電車のなかは今日も満員。昔は欠かさず毎日電車に乗って会社まで行ったものだった。今と昔、している事になんらかわりはないけれどこの世界はまだ色があると思った。私の考え方が変わっただけかもしれない。

「姉ちゃん」

不意に律也が話しかけて来た。いつもの無表情ではあるけれど、声音はどこか弱々しい。

「俺ってさ、迷惑?」

彼も何か考えていたのだろうか。

そもそも、律也はなぜこちらへ来たのだろうか。
私のように人生に価値を見出せない訳でも不都合な事が起きた訳でもないだろうに。でも間違いなく彼はこちらへ来た。
正直、安堵した。この世界で知っている人間がいるのは何より心の支えだった。
だからというわけではないが、迷惑だなんて思った事はない。

「迷惑なんかじゃない。どうしたの急に」
「いや、なんでもない」

ふわりと笑顔を見せて律也は携帯を弄り始めた。なんでもないはずがない。けれど深くまで突っ込んでは、律也の心のなかをかき回してしまう気がした。

「……律也はさ、なんでこっちに来たの?」

ずっと疑問だった事を口にしてみる。私は先に死んでしまったからその後の事なんて知らないのだ。けれど、律也はかなしそうな顔をした。

「毎日辛そうな顔してたの、覚えてない?」


いつの話だろう。
私は前世において、言う程切羽詰まった状況におかれた事はなかった。辛いとは思ったことがない。あってもなくても変わらない日常。ただそれだけ。
律也は私の知らない何かを知っているようだった。しかし学校の最寄駅についてしまったので、それからその話はなかったかのように振舞われた。


放課後、部活の時間まで親の転勤の事は誰にも話さなかった。何しろまだいくと決まっただけでいつになるかもわからない状況だったから、話す必要はないと思っていた。機が熟せば話すつもりでいた。

「親の転勤で東京に行く事になった」

それなのに、意外にも律也がそれを口にした。友人と自分から話に行くなんてこの子も随分と変わったものだ。昔は友達とよくしゃべる姿を見かけたが今ではそんな気配はない。いや、ないと思っていたのは私だけだったのかもしれない。少なからず嬉しい変化だ。今日はお赤飯かしら…!

「はぁ!?大会どないすんねん!!」
「吉田妹かて女テニのエースやろ」
「こればっかりはどうしようもないしなぁ…」

自分から話題の種を蒔いておきながら律也は黙っていた。せっかく成長したと思ったのに。全然成長してないじゃんか。続き話せよ。今日は麦御飯決定だわ。律也は粟と稗だけ食べてろ。

「律也と戦うんは嫌やなぁ…トラウマやし」
「また根性腐った時には叩き治してやる」

そういえば、白石先輩は去年礼華と喧嘩中に律也と戦ってぼろ負けしたんだっけ。でも次に戦った時にはどうだろう。彼らの成長はめまぐるしく、目を見張るものがある。きっと次に必ず律也が勝つというわけでもないだろう。

「このライオンのごきげんようジャージに袖を通すのもあと少しなんやな…」

ユウジ先輩が私の肩に手を回してがっかりといった風にやって見せた。確かに福岡出身のグラサンをかけた司会者がいいともーなどと賛同を求めたその後の番組のライオンはこんな色をしていたか。

「何が出るかな♪何が出るかな♪テテテテン♪」
「…情けない話!はい、せーの」
「「なさばなー!」」
「えーと私最近ですね…手芸を始めまして…」
「お前らこう言う時だけノリええよなあ」

こうやって馬鹿する時間もなくなると言う訳か…。実際こうしてみれば二年ちょいしかいなかったものの、楽しかった。流石笑いの殿堂だ。律也だってこの四天宝寺の人たちと会って変わった気がする。律也が先に中学に上がっていた一年は何があったか知らなかったけれど、強制的に私たちの間に距離が生まれると、律也のベクトルは私以外にも向いた。それは、この人情あふれる四天宝寺の人たちのおかげでもあると、私は思ってる。

「しかしさみしなるなぁ」
「笑かしたモン勝ちの精神はどこ行ったんよ!っつーわけで最後までお付き合いください!」
「せや!吉田妹の言うとおりやで!今日はタコパしよか!!」
「よっしゃ白石の奢りやー!」
「おいおいおいおいふざけるのも大概にせえよ鐚一文やらんぞコルァ」
「白石けちくせー!!」
「きゃー蔵リンが怒ったわぁん!」
「小春はなんとしても俺が守る!」
「いやいや私が」
「いや俺が」
「じゃ、じゃあ俺が」
「「どうぞどうぞ」」
「なんでやねん!」
「あはは!」

不意に騒々しい笑いの輪からぽつんと外れた影を見た。凉ちゃんだ。何かを言いたそうにして唇に思いを乗せようとしているがそれは言葉になる前に彼女の中へ消えて行く。

「凉ちゃんどうした?」

正直彼女の事は苦手だった。でもなんとなく気になったので声をかけてはみたが、彼女は曖昧な笑みを浮かべるだけだった。いつもの事だが、嫌な部分に触れると笑む彼女が嫌いなのだ。喜とほんの少しの哀しか見せない。なんとも子供らしくないのが、嫌いだった。
深く突っ込んでも聞き出せるはずはない。また笑みで躱されるはずだ。そのまま、諦めた。あとで謙也先輩にでも聞いてみようかな。

「ほな今日は早めに切り上げよか!」
「イェーイ!タ!コ!パ!」
「はい!」
「タ!コ!パ!」
「あい!」
「タ!コ!パ!」
「やかましーわ!」

何を考えても東京にはきっと行くのだ。名残惜しい。けれど、私達では何もできない。仕方ないのだ。だとすれば、残り少ない時間を謳歌するのがベスト。今はこの喧騒に身を任せるとしようか。


右と左の分かれ道
(ただ僕らは歩くのみ)







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