一片の | ナノ


大通りにクラクションが鳴り響いて、視線がそこへ集中する。気にする人もいれば気にしない人もいて、私は気にしない方に分類された。
しかしクラクションは鳴り止む気配を見せずに何回も何回も長く鳴っていた。寝転がる体勢から体を起こして車を見てみると、光を反射しているくすみのない黒のリムジンが道路の脇に止まっていた。誰かを呼んでいるのだろう、早く来てあげればいいのに。
迎えか何かしらないけれど待ってくれている人がいるのは、幸せな事だろう。

「燈子!」

気を取られている間に、呼ばれた声。なにが怖いのかもわからないのに反射的に身が固まるのを感じた。嫌だ。帰りたくない。あの家には、私の居場所がないのに!
駆け出そうとして立ち上がった筈なのに、まだ脚は疲労のせいで安定せず、私は地面に倒れ込んだ。体が、吐く息があつくて久々に風邪を引いたのを感じる。なんだって、こんなときに風邪なんか…。

「燈子、大丈夫か!」
「……けい、ご…?」

私は、私が思っているよりも絶望の淵に立たされている訳ではないらしい。

「全く。心配掛けさせんじゃねえ」
「……ごめん」

あの騒音リムジンは景吾が乗っていたらしく、私は景吾に抱えられて広い車内に乗せられた。渡されたバスタオルを毛布がわりに自分だけの世界を作るように包まって下を向く。

「……やっぱり、日本に来ない方が良かったかもしれない」

なにも聞いてこない辺り私が数時間前に起こした事情を知っているんだろう。優しさが、惨めさを感じさせて少し痛かった。

「まだ結論をつけるのは早いと思うがな。とりあえずはしばらく俺の所に居ろ。両親には連絡が行ってる筈だ」
「……でも、迷惑じゃないの」
「そのあたりで野垂れ死なれてた方が迷惑だ。……落ち着いた頃に話を着けに行くぞ。それまでは休んでろ」

行くぞというのは景吾も一緒なのだろうか。思えば彼には昔から迷惑ばかりかけている。

父親が親友同士である景吾と私は幼い頃からの唯一の気の許せる友達だった。景吾は出会った頃には既に大人で、筋の通った思考も統率をとれる人格も社会を生きる戦術も身につけていた。
同じ人で同じ年齢なのに私に負ける点なんか一つもない。世界の中心が彼と言われても幼い私なら信じたはずの完全な、絶対的存在。彼には、純粋な憧れを抱いた。
華やかな彼が羨ましく、しかし心のどこかでは妬ましいとも思っていた。そしてそれはきっと今もそう。

私がドイツ、景吾がイギリスにいる為に会う回数は極端に少なかったけれど。それでも完全じゃない私を、馬鹿にしつつもフォローしてくれる景吾の傍にいられるのは純粋に嬉しかった。
支えてくれるのは嬉しいけれどいつまでも甘えてはいられない。これは家庭内の話だ。

「ごめん」

私が謝ってから景吾の家に着くまで、景吾は何も言わなかった。



助けを求める声が聞こえます
("子供"から卒業したい)


- ナノ -