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夢の中を生きてきた。

春には桜が咲き乱れ、夏には眩しい向日葵が咲き誇り、秋には暖かな紅葉や銀杏(いちょう)が舞い、冬には一面が銀色に覆われるらしい。
私がそれを見た事はない。私の目は何も映さない。光の加減は少しわかるものの、光自体が目に良くないと布で覆われている。透き通る様な水も、生き生きとした草花も、一面の濃紺に光の絵の具で散りばめられた点描のような星も私は見る事が出来ない。
盲目は私の行動範囲をも狭めた。この私の部屋から出た事はない。食事も入浴もこの部屋で済まされる。どこかへ自由に行く事もままならず足の筋肉は衰えてゆくばかり。這うことは出来るが歩くなんて一種の拷問だとさえ思えた。人の気配を感じ取れてもどこにモノがあるかなど到底わからないから怖い。怖くて、日常ではこの布団から出ることはなくなった。

私はまだ私の夢幻の中で生きている。
夢の中には私ともう一人が佇んでいるだけ。
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名前はぱたん、とノートを閉じた。雨はまだしとしとと降り続いている。
目が見えないとは一体どんな世界なのだろう。以前、目の見えない人が雨の形を見てみたいと言ったらしい。自分たちにとってなんでもないものすら見えない。不安なんだろう、な。
いつもの様に小説をある程度まで書いて、名前は図書館を歩いた。夏目漱石や太宰治の小説がある棚を見上げる。今日は梶井基次郎でも読もうと別の棚に目を移すと、名前の目がこちらを見る双眸と視線がぶつかった。

「今日も勉強しとったん?」

同じクラスの忍足だった。話したこともないのに向こうから声をかけてくるなんて珍しい。けど彼は気さくな事で有名だからもしかしたらそれが理由かもしれない。しかしいきなりの事に名前は蚊の鳴く様な声で「え……」というと苦笑いされた。

「いつもここで勉強しとるやろ?ほら、白石が部活休みん時は毒薬聖書ここで書いとるから、俺もちょいちょい来てんねん」

忍足の指の先には白石がいろんな本を広げてせっせと原稿用紙に何かを書き込んでいた。本の中には図鑑もある。言わずもがな植物の本で毒々しい色の花のページが開かれていた。

「あ、引き止めてスマンな。これから息抜きなん?」
「え、あ、いや、うん。」
「へえ、頑張ってな」
「あ、うん。ありがとう」

名前は荷物をおいていた席に戻り、梶井基次郎の『桜の木の下には』を開いて一つため息をつく。
なんだ今の。私、ほとんど会話してない。どうしたんだろう。びっくりしたとはいえ言葉が出てこないのは不思議だった。
『桜の木の下には』には目をやらずに、視線をノートに移す。まさかこれを書いていたのがばれたわけじゃないよね、と焦る気持ちが湧いた。
自己満足の小説をせっせと書いているなんて!一番友達に知られたくない事なのに!
……でもまさか気づかれた訳でもないだろう。きっと。それなら何を書いていたのか聞くはず……いや、そこまで興味が沸く様な事でもないかな。

「(とにかく、心配する事はない筈)」

自分に言い聞かせながら名前はやはり梶井の本を棚に戻した。それから忍足を見ない様に図書室を出て、雨の止んだ後の湿った空気の中を歩いて帰った。