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「行ってきまー」
「行ってらっしゃい」

私はいつも朝早く暗い時間に家を出る。学校が遠いのもあるし何しろ早く学校へ着くようにしているから。
だから、玄関のドアの磨りガラスの向こうはいつも真っ暗。玄関のランプの光を照り返すくらいで、他に明るさは微塵もない。だから気がつかなかった。

ドアを開ければ一面真っ暗。私の家だけが浮いているような暗さ。いや、四方八方が真っ暗闇。家の前の道路も向かいの家も……無い……。

「寒いんだから早く閉めてよ。行ってらっしゃい」
「行って…きます…」

母にはそれが見えていないらしかった。しかし私の方は一歩前に足を踏み出そうとしても地面がない。
なんてこった。
私は立ち尽くすしかなかった。皆勤を続けてきた私にとって、欠席はおろか遅刻もしたくなかった。しかし目の前には道がない。本当に行けないのかと再び前に重心を傾けた時。

「―――え、」

背中を誰かに 押 さ れ た 。

真っ逆さまに落ちていく。どこが上か下かも分からないくらいに落ちていく。感覚はない。寒くも暑くもなければ、痛くも痒くもない。ただ落ちている感覚だけが私の身体を支配していた。
押された感覚はまだ背中にあった。ただ、人間の手ではないほど小さなものだった。例えるなら、そう、肉球。ふにゃりというかふにふにした何かが私の背中を押した。服の上からだった筈なのに、はっきりと分かった。
なんて、奇妙な日だ。
落ちていく感覚はまだ私を支配し続けていた。


しばらくすると、私は太陽の下…塀の上で寝ていた。立ち上がろうとすると四つん這いになった。伸びをすると前に足が伸びた。
私の背は小さかった。手を見れば肉球がついていた。

「(…ねこ……。)」

昔猫を買って欲しいと頼んだことはあるが、私自身が猫になりたいと切に願ったことは一度たりともないのだ。

「………ぅんにゃあ…」

今更だけどもどうしよう。野良で生きていける自身はない。ここがどこかわかんないし。誰か助けて……!

「…………。」
「にゃ?」
「おて。」

通りすがりの少年が自身の右手を差し出す。いやいや、お手は犬にだろう。
まぁ、やらないこともないけど。
自分の前足を差し出された手の上に置くと、少年は感嘆を漏らした。

「お前、賢いな…」

脇の下に手を突っ込まれて抱き上げられる。この人かなりイケメンだなー。学生服を着てるところからして高校生だろうか?めっちゃピアスしてるけど。

「しかも結構べっぴんやんな…」

イントネーションからして大阪人か。一度猫の姿を自分で見てみたいけれど、鏡なんてそうそうないし、通りすがりの子供にヒゲを引っ張られるなんて事態は出来れば避けたい。

「品種もかなり良さそうやし。迷子か捨て猫なん?……って通じる筈あらへんし…どないしよ。」

できたらあなたの家で飼って頂きたい。なんて言えるわけもなく、私はにゃあと鳴くのみ。あああじれったいな!

「とにかく保護…やな」

少年は私を抱き抱えると、歩いて少年の家らしき家まで連れていかれた。