後章/妄想フィルター

「……きてよ……ねぇ……」
 意識が覚醒する間も無く、頭が締め上げられるような疼痛に襲われた。
 思い出したくない。聞きたくない。考えたくない。あらゆる感情、意識、感覚を総動員して、必死に悪夢に抵抗する。ここには姉ちゃんも司もいない。そう認識したと言う事は、そういう事なのだ。
「……おねがい…………まして……そうすけ……」
 意識を隔絶する。ここでは見つかる。もっと深い場所に、もっと奥まった場所に、誰にも見つからない場所に、干渉されない世界に――
「……あたし……まってるから………………」
「……………………」
 やがて声は遠退き、俺は汗だくで布団を剥がし、荒い呼気を落としながら部屋を見回した。不足感の有る、適温に保たれた、いつもの部屋を。
「おっはよーう!」
 ばたーんっ、とけたたましく部屋の扉が開き、俺は着替えの途中で動きを止めた。姉ちゃんが「ほら、姉ちゃんの言った通り皮を――」「うるせえええええッッ!!」最後まで言わせず部屋の外に追いやる。
 パンツを穿き、嘆息。着替えを済ませて部屋の外に出ると、姉ちゃんが「いやー朝からいいもん見たわー眼福眼福」と悍ましさを覚えかねない台詞を宣い始めて朝から薄ら寒さを感じた。
 居間に下りると、父さんも母さんもいなかった。ご飯も置いてない。食卓は綺麗に片付けられ、テレヴィは点けっ放しになっていた。
「あれ、二人とももう出掛けたのか?」
 カレンダーを見る。一月二十二日。明日は司の誕生日だ。欠伸を噛み殺しながら、席に着く。
 テレヴィは雑音を吐き出していた。やがて天気予報に番組は移ろい、今日は一日曇りだと示す。隣に存在する白いマークが、ぼんやりと掠れていて、何を示すモノかイメージできない。
「今は考えなくてもいいよ、そーちゃん」
 俺の前に座った姉ちゃんが、顔を覗き込むように呟いた。
 言われなくても、俺は何も考えていない。大事な事を忘れている、失っているけれど、代わりに得たのがこの安寧なら、俺は思い出さないし、取り戻さない。いつまでだって微睡みを漂い続ける。
 そう思いながら、「判ってるよ」と端的に返した。判ってる。何を判っているのかすら判らない癖に、実に不遜な物言いだ。
 朝食が出てこないのは理解できたので、登校の準備をして、部屋を出る。ふと、気付いた。部屋に何が足りないのか考えないようにしていたつもりだったが、不覚にも取っ掛かりを見つけてしまって、脳内が少しずつ活性化してきた。
 マイスキー板だ。そう、スキー板が足りない。あんなに好きだった、スキー板が無いんだ。「好きだった」から、今は好きじゃないのか。
 何故その事を喪失し、忘却していたのか判らないが、恐らくこれは触れてはいけない事柄だったんだろう、と容易に想像できた。この世界には不必要だったから消却した、そういう事だ。
 つまり、これ以上考え続けたら、この世界は歪み始める。形成していた幸せが崩れ、悪夢が鎌首を擡げ始める。一度坂道を転がり始めたボールは、どこかにぶつかるまで動きを止めない。
 部屋を出て、玄関に辿り着き、靴を履く。昨日と比較すると、更に違和感は強烈なモノに変わっていた。靴を履けない。長年履き続けた靴が、俺のモノじゃないような感覚に変化している。そもそも俺は、靴を履く事が出来るのか?
 頭を振り、結局靴下のまま外に出た。足は冷たくなかった。と言うか、足の感覚が無かった。前には進むけれど、歩行と言う感覚ではない。外も寒くない。一月とは思えない陽気で、陽射しがポカポカと温かい。そんな事よりも驚いたのは、景色が昨日に比べると僅かに輪郭を取り戻していた事だ。
 白く沈んだ街並み。チラチラと降る白い粒。世界を溶かす、清廉な白。
“雪”が、目に映る。
 寒さを感じない銀世界を眺めて、俺は呆然と立ち尽くした。
「どしたの?」
 姉ちゃんが後ろから声を掛けてくる。俺は振り返らずに、「雪が……」と気の無い返事を発した。
「雪が、どうしたの?」
「雪が、見えるようになったんだ」
 見たくないモノが、見えなくなった。昨日、姉ちゃんはそう言った。
 つまりこれは、俺の心境が変化して、見たくなかったモノを見たいと考えるようになった、と言う証明なのだろうか。
 部屋に有る筈のスキー板が無い事を思い出したのも、それに関係している気がする。思い出したくないモノを、思い出した。
 俺は徐々に世界が崩れて行く感覚に恐怖を覚え、足が竦んだ。姉ちゃんに縋ろうとすると、姉ちゃんの方から俺を抱き締めてくれた。
「そーちゃんが望むように、変わっていくんだよ。そーちゃんが望まないと、何も変わらないよ」
「俺は……望んだのか……?」
 思わず独り言が漏れた。
 静かで、平和で、何も無い世界。俺はこの世界を望んだ、それはきっと間違いではない。でも、今は違うのか。見たくないモノを見て、思い出したくないモノを思い出し、望んだ世界を変えようとしている。
 俺は本当にそんな事を望んだのか? どうして、望んだのか。
 俺は今、幸せではなかったのか?
「考えたくないなら、考えなくていいの」頭を撫でながら、姉ちゃんは優しく囁いた。「辛いなら、逃げ出してもいいの。そーちゃんは、見たくないモノを無理に見なくていいの。姉ちゃんが守ってあげる。だから、考えなくていいの」
 ひたすら怖かった。沸々と湧き上がる恐怖の源泉に、俺は言葉が出せない程に怯えて竦んでしまった。
 俺は、逃げてここに来たのか。何から逃げたのか、薄っすらと見えてくる。悍ましい光景がゆっくりと、だが確実に、俺を追い詰めていく。
 壊れてしまう。俺と言う存在が、根底から壊れてしまうと、警告音を発していた。
「大丈夫よ、大丈夫」優しく撫でてくれる姉ちゃんに、俺は縋りついたまま何も返せなかった。「心配しないで、姉ちゃんが付いてるから――」
「――宗佑、お前シスコンだったのかよ?」
 姉ちゃんの声に被さるように、この世界で初めての別人の音声が弾けた。
 目を開ける。視界一杯に姉ちゃんの胸が広がっていた。そこから視線を剥がし、振り返る。見覚えのある少年が、俺を見つめて苦笑いをしていた。呆れているように、見える。
 滾々と際限無く湧き出る記憶の本流に、俺は眩暈を覚えた。彼は、親友だった。史雄(ふみお)……名前もすぐに出現する。俺は彼を知っているし、彼も俺の事をよく知っている。
 頭が擦り切れそうだった。どうしてお前がここにいる。脳内がその言葉で敷き詰められ、喉から声が出てこない。ここは俺の世界であって、俺が望んだモノしか現れないんじゃなかったのか。
「確かにそうだ、ここはお前の世界だよ」史雄は剽軽(ひょうきん)に肩を竦め、俺を見下した。「だけどお前があまりにもヘタレてるから、仕方なく邪魔しにやって来たってトコだな」
「どういう……事だよ……?」息が苦しい。動悸で視野が狭窄を起こしている。
「――史雄君」強い語調で、姉ちゃんが俺達の会話を遮った。「君はそーちゃんを壊したいの?」
「まさか」鼻で笑うと、史雄はその場から動かずに鮮やかな茶色い髪を掻き上げた。「帰って欲しいんだよ、さっさとな。いつまでもウジウジしてるお前を見てるとイライラしてくんだよ。それに、待たせてんだろ?」
「……」咄嗟には言葉が出てこなかった。思考は活動を停止し、史雄の言葉は流れるように漏洩していく。
「あんまり待たせてやるなよ、俺が身を引いたのがバカらしくなってくるだろ」そう言うと、史雄は目尻に力を込め、俺を強く睨み据えた。「――が無いからって何だ、お前は――てんだろ、とっとと帰ってあいつらを安心させてやれ、バカが」
 見えなくなる前に、史雄は微かに口許を緩め、寂しそうな笑みを滲ませた。
 俺は絶叫を張り上げそうになって、声が出なくて、涙が零れて、その場に蹲ったまま咽び泣いた。
 埋葬した現実が掘り起こされた事で、俺は耐え難い痛苦に襲われた。見たくなかった。思い出したくなかった。声なんて、聞こえない筈なのに、聞きたくなかった。
 声も出せずに、苦しく喘いで、ひたすら泣き続けた。どうしてだ。俺は何も望まなかった。望まない世界を、手に入れた筈なのに。
「そーちゃんは、強い子なんだよ」
 姉ちゃんが、俺の背中に触れながら、諭すように言葉を置いた。
 俺は嗚咽混じりに、必死に頭を振った。違う、俺は強くなんかない。強くないから、逃げ出したんだ。逃げて、逃げて、辿り着いた先でも逃げてるだけなんだ。
「姉ちゃんはね、そーちゃんがこのまま逃げちゃっても、良いと思ってるよ」
 嗚咽だけが響く世界で、俺は確かに姉ちゃんの声を聞いた。
 背中に触れている手が、ほんのりと温かい。
「でも、勿体無いよ。そーちゃんには、まだ帰る場所が有るんだもん」そう言う姉ちゃんは、寂しそうで、切なそうだった。「姉ちゃんは、無理は言わないよ。だから、そーちゃんが帰りたいなら、帰ればいいし、逃げたいなら、逃げちゃってもいいの。姉ちゃんがずっと傍にいる事は、変わらないからさ」

 ――――いってきます。

 雪が降っていた。空から舞い降りる、音を食べる白い粒。ともすれば人を喰らいかねない凶悪な群れとも化す、清廉な白。俺は雪が好きだった。雪山でスキーを楽しむようになったのは、確か小学四年生のスキー合宿の時からだ。それ以来、ずっと雪は大好きだった。
 その頃からの付き合いだった史雄と一緒に、その日はスキー場へ向かう予定だった。流石に高校生にもなって親の送迎なんて恥ずかしくて出来ない。俺達はバスを乗り継いでスキー場へ向かういつものコースを辿るべく、まだ日も昇らない早朝に外に飛び出した。
「さっむ! カイロ持ってきたか宗佑?」
「持ってきたっつーか、お前持って来てねえのかよ? アホじゃねえの」
「買い置きが無くなってたんだよ! 余分に持ってるんだろ? 一つ貸せよ」
「ったく、仕方ねえな。後でジュース奢りな」
「……知ってるか宗佑。カイロって三十個入りで六百円程なんだぜ?」
 吐き出す白い気息を弾ませながら、俺と史雄はバス停に向かっていた。薄暗い空、チラつく雪。山の状況は悪くないと携帯の天気予報が告げている。絶好のスキー日和だ。
 ザクザクと雪を踏み締め、人っ子一人歩いていない道を二人して笑い合いながら進んで行く。
「眩しっ」
 史雄が前方から近づいて来るライトに目を細めた。俺もそれに釣られるように手を顔の前にやり、グングンと大きくなる光源に意識を奪われ――――けたたましい音が、全身で爆発した。

「止めろ……止めてくれ……」

 全身が熱かった。風邪でも引いた時のような熱っぽさに、思考が纏まらない。異常に眠く、俺はぼんやりと天井を見上げていた。
 天井。空ではなかった。俺は今、どこで寝ているんだろう。自室ではない事は確かで、白いカーテンが近くに映り込む。バタバタと慌ただしい足音が聞こえたり、呼び鈴のような音がどこかから聞こえたり、誰かの話し声が薄っすらと聞こえたり、している。
 ――せんせい! ふみおは! ふみおはだいじょうぶなんですか!?
 聞き覚えの有る声なのに、すぐに誰の声とは認識できなかった。
 ――おい、やめろ。さっきもきいただろ。ふみおは、そうすけくんをかばって、ぜんしんだぼくで、たすからなかったって。
 あぁ、史雄の母さんと父さんの声だ、と頭の底に浸透して行く。
 ――どうして!? どうしてあのこだけ!! どうしてふみおは!! あぁ、あぁぁ……!!
 ――いいかげんにしないか! そうすけくんも、あんなめにあったんだ。かぞくにもうしわけないとおもわないのか!
 ――だって!! あのこは、あのこは……! ぜんぶあのこのせいよ! どうしてふみおは、あぁ、あぁぁ……!
 ――わるいのは、いんしゅうんてんをはたらいた、とらっくのうんてんしゅだ。さばこうにも、そくしのようだがな……だから、そうすけくんをせめるのは、やめなさい。

「止めろ! それ以上聞きたくないッ!!」

 ――どうして……どうしてなの……どうしてうちのこばっかり……ごめんね、ごめんね、そうすけ……
 ――おまえはわるくない。まなみはたしかにこうつうじこでなくなったが、ぐうぜんがかさなっただけだ。だから、そうせめるな。そうすけがおきづらくなるだろう。
 ――ごめんね……ごめんね、そうすけ……まなみ……おねがい、あなたがしんだあとにうまれたおとうとだから、かおもしらないでしょうけど、そうすけを、たすけてあげて……おねがい、つれていかないで……

「……………………」

 記憶の濁流から意識を切り離し、乱れた呼気と狭窄している視野に堪えながら、姉ちゃんに縋りつく。姉ちゃんは何も言わずに俺の体を抱き留め、優しく背中を摩ってくれた。
 込み上げる弱音を飲み下し、俺は涙を流しながら何度もしゃくり上げた後、放心しかけた正気を手繰り寄せ、長く細く気息を吐き出した。
 俺はここに来る前に、嫌な想いに襲われた。悪い感情に殴られた。何もかも投げ出したくなって、結果投げ出して、ここに辿り着いた。俺は、見たくないモノを見ないために、逃げ出したんだ。
 喉元からせり上がってくるのは、吐瀉物ではない。喉が張り裂けそうな程の悲痛だった。俺は知ってしまった。辿り着いた世界に埋葬したそれは、やはり掘り起こすべきではない現実だったと。
「姉ちゃん……あいつは……、史雄は……」
 体が震える。受け入れられるのか、俺は。器から水が零れる事無く、ありのままに受け止める事が、本当に出来るのか。
 姉ちゃんは何も言わない。姉ちゃんに抱かれたまま、俺は真っ暗な世界で、震える喉を抑え、グッと歯を食い縛る。

「史雄は……――死んだのか」

 ――到底、受け入れられる訳が無かった。俺は現実を閉ざし、もう二度と見えなくするように、埋葬した。
 ――悍ましい怪物を穴の中に隠しても、何れ目を覚ます事を知らずに、俺は蓋をしたんだ。

「……宗佑、聞こえる?」
 静かな世界で、俺は司の声を確かに聞いた。
 瞼を開けると、溜まっていた液体が目尻から零れ、耳の方に流れていった。
 ゆっくりと首を動かすと、司の姿が見えた。憔悴した顔で、俺を覗き込んでいる。その顔が明るくなり、くしゃっと崩れた。
「良かった……っ、もう目、覚ましてくれないと思った……っ」俺の手を握り込んだまま、その場に崩れてしまう司。「本当にっ、良かった……っ」
「…………」
 どうなってこの場所に辿り着いたのか、理解を拒んでいた。状況は記憶として脳内にこびりつき、今現在に到るまでに発された言質も停留している。俺はその一切を見ず、理解を拒絶した。
 司は何も言わない俺に、「喉、渇いた? 何か飲みたい?」と目を擦りながら尋ねてきた。
「……足が、動かねえんだけど……」
 司に買いに行かせるのではなく、自らの足で買いに行こうと思ったのだ。
 だが、俺は足の感覚が無い事に気づいた。気付いて、慄然とする。俺はどうして、ここにいるんだ。何が遭って、ここにいるんだ。
 視界が一瞬、外気温に晒された。白い妖精が音も無く舞い散り、俺の音を奪っていく。
 見えるのは、でかいタイヤ。何でタイヤが目の前に有るんだ? 頭が重い。理解を拒んでいるのか、情景が中々伝達されない。何が、起こって――
 近くに黒い塊が転がっていた。人のように見えるが、それは真っ黒に塗り潰され、姿を認める事は出来ない。意図的に削除した存在なのだろう、俺にはそれが誰なのか理解も判断も出来なかった。
 全身を貫くような激痛が走り、歯を食い縛って雪を握り締めた。手袋をした手が切れるように冷たい。足の感覚が消失しているのか、動かない。
 ゆっくりと、視野が下に下りていく。どうして足が動かないのか確認するために、意識を下へ、視野を足へ。タイヤしか見えなかった。大きなタイヤで、足が見えなかった。

「――――――ッ」
 視界が、病室に復帰する。全身汗だくで呼気が乱れている。思考が白熱し、喉が飲み物を渇望していた。
 司が、泣きそうな顔で、俺から視線を逸らす。
 そこで拒絶し続けた思考が、カチリと動き出した。布団を捲る。見てはいけないモノを、怖いモノ見たさの感覚で、覗いてしまう。
 空虚な空間が、

「……………………」

 俺は、自分の足を見た。ピクリとも動かない足。にも拘らず、俺はこの世界を自由に動き回れた。学校にも行けたし、靴も履けた。でもそれは単に、この世界には有るだけで、あの世界には無いんだ。
 姉ちゃんが物憂げに、何か言いたげに、俺を見つめたまま、黙りこくっている。俺も掛ける言葉が見当たらなかった。何を言えばいいのか判らない。何を応えればいいのかも、サッパリ判らなかった。
 息苦しい沈黙だったけれど、俺はその沈黙が心地良かった。何も干渉してこない。何も起こらない。静かに、自分だけを見つめていられる。そんな居心地の良さが、その沈黙には宿っていた。
「……そうすけ……」
 声が聞こえる。俺を呼ぶ声が、空から、地面から、降るように、湧き上がるように、反響するように、俺を責め苛む。
「……もういちど……こえをきかせて……」
 悍ましい響きは、もう感じられなかった。誰の声なのか、今の俺には判る。
 ついさっきまでの俺にとって、その声は聞こえてはならない声だった。でも今は、別の響きを伴っている。聞きたかった声。渇望した声。――もう一度聞きたかった、けれどもう二度と聞きたくなかった、愛すべき声。
 姉ちゃんに意識を傾ける。姉ちゃんは穏和な微笑を湛えて、俺を見守っていた。何も言わない。それは俺が、言葉を求めていないから、なのだろうか。
「行ってあげなさい。そーちゃんには、待ってる人がいるんだから」
 俺が躊躇していると、後押しするように姉ちゃんが口を開いた。普段の語調とは似ても似つかぬ、落ち着いた声で。諭すように、宥めるように、俺の背中を押す。
 俺がこの世界からの乖離を望んだのかと言えば、違う。彼女は、俺のイメージには存在しない人物だ。何せ俺の姉ちゃんは――
「……姉ちゃんは、今、幸せなのか?」
 ふと気になって、質問を吐いた。
 俺はこの世界にいる限り、幸せだ。この世界は何者にも干渉されないし、雪が音を吸い込むように静かで、一切の争乱が存在しない平和な世界で、何もしなくても満たされ、ただ漂っているだけで寿命を消費できる、夢にまで見た世界だからだ。
 姉ちゃんは、そんな世界に迷い込んだ訳ではない。見ていられなかったのか、ちょっかいを出したくなったのか、――連れて行こうとでも考えていたのか。何にせよ判るのは、この世界に於ける異邦人だって言う事だけだ。
 俺は思い出している。向こうの世界の出来事を、事実を、歴史を。そこに姉ちゃんはいないし、俺も姉ちゃんを知らない。だから姉ちゃんは、異邦人なのだ。
 姉ちゃんは「そうだねぇ」と惚けた素振りで空を仰ぎ、寂しげに俺を見返した。「そーちゃんが幸せなら、姉ちゃんも幸せかな」
 嘘つけ、と思わず呟き、涙が止まらなくなった。
「俺、帰れるのかな」
「帰れるよ。帰れるけど、帰らなくてもいい。そーちゃんは、どこにいたいの?」
「……やっぱり、司に会いたいや。それに、母さんも泣いてるだろうし」
「そっか。……そーちゃんがそう言うなら、姉ちゃんが言えるのは、“無理しないでね”――かな」
 そっと、姉ちゃんを抱き締める。柔らかい筈の感触は、何も無かった。俺は今、幻影を抱き締めて、泣いているんだ。
「……有り難う、姉ちゃん」
「うん、次はお爺ちゃんになってから来るように」
「……判った」

 そうして俺は、歩き出した。前に見える闇に向かって、一歩ずつ踏み締めていく。足は無い。ただ意識だけが前へ、前へと進む。
 闇は濃くなり、やがて後ろが塗り潰されて見えなくなった頃、急速に全身が鈍化して、睡魔に負けるように、俺は溶けて行った。

 ――――“おかえりなさい”。

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