015:忌徒に到る〈其ノ伍〉
「あー……美味かった。本当に奢ってくれて助かった。ありがとな」
焼肉専門店から出てきた黒宇(クロウ)は、腹を摩(さす)りながら満悦の笑みを浮かべて律(リツ)を振り返る。
暖簾(のれん)を潜って出てきた律も釣られたように笑みを浮かべて応じる。
「気にしちゃいけやせんよ。出逢いは常に一期一会。出逢いは大切にすべきなんすから」
「でも……いいんですか? お金、凄く高かったんじゃ……?」
亜鳩(アハト)が怖(お)ず怖ずと話しかける。会計(レジ)を眺めるその眼差しには、不安げな色がありありと浮かんでいる。
会計を終えた覇一(ハイチ)はやって来ると小さく頭を振り、薄っすらと微笑を口許に刷いた。
「律が奢ると言ったんだ。律が言っただろ? 気にするな、ってな」
「……でもあんた、本当によく分かんない奴だよな」
通りを歩きながら黒宇は着物の少年に声を掛ける。
「何だってこんな貧者に飯なんか奢ってやるんだ? 溝(ドブ)に捨てるようなもんだろ」
通りを行き交う人は皆小奇麗な服を纏った者ばかりだ。そこを歩く黒宇と亜鳩の身形はどうしても浮いてしまう。
辺りは飲食店が建ち並び、美味しそうな匂いがあちこちから漂ってくる。丁度食事の時間帯のせいもあって、通りは人が多く蠢(うごめ)いている。その流れに逆らわないようにして歩くのは、人込みを初めて体験した黒宇や亜鳩にとっては大変な事だった。
「それは分かりやせんよ? 何が吉で何が凶か、それを決めるのは今じゃありやせん。何がどう転ぶか分からないから、出来る限り手を尽くすべきじゃありやせんか?」
通りを悠然と歩く律。風を受ける度に着物の裾が揺れ、健康そうな肌が見え隠れする。着物の服装は目立つ訳ではないのに、何故かこの空間では浮くように映る後ろ姿だった。まるで――陽炎(かげろう)でも相手にしているかのような、確かにそこに在るようで、実は空っぽの虚像を見ているような感覚。
「……あんたの言ってる事は全然(サッパリ)分かんねえな。もっと解り易く言ってくれよ」
「多分律はこう言いたいんだろう。――今行った事がどれだけ馬鹿げていても、未来から見たら有意義だったかも知れない――みたいなところだろう」
「ふぅん。俺にはそんな不確かなもん見据える余裕なんざねえよ。今を生きる事で一杯々々だからな」
不貞腐れるように唇を尖らせる黒宇。律はそんな黒宇に向けて、陰の滲む微笑を口許に刷いて告げる。
「余裕が有ってもそう簡単に見据えられるもんじゃありやせんよ、未来ってもんは。……ま、人に寄りやすがね」
「それより黒宇。お前は何か用事が有って【臥辰(ガシン)】に来たのではないのか?」
覇一が黒眼鏡(サングラス)を押し上げながらポツリと呟きを漏らす。黒宇はその一言で思い出す。
「――そうだ! 銀行に行かなきゃいけねえんだった。あんたらは知らないか? どこに銀行が在るのか」
「――覇一」ぱちんっ、と指を鳴らす律。
「偶には自分で思い出す努力をしろ、律。……この辺の道は複雑だからな。俺達が道案内してやってもいいが」
「……熟々(つくづく)思うんだが、あんたらは閑(ヒマ)なのか? 今思ったんだが、今日って平日だよな? 仕事、してないのか?」
再び黒宇の瞳に怪訝な色が浮かび上がる。色々おかしい二人組だとは思っていたが、ここまでくると流石に戸惑いが疑心以上の色を帯び始める。
二人は互いに視線を交わし、覇一の方が先に口を開いた。
「確かに今日は予定が入っていない。そして今日は平日だ。俺達二人はちゃんと職に就いているが、今日は休みなんだ」
逐一質疑に応じていく覇一。淡々と応じる覇一に僅かな疑問は浮かんだが、真っ当な答だったので頭の片隅に残す程度の想いしか生じなかった。
やがて銀行に辿り着いた一行は、受付で所持金を預金したい、と申し出る事になったのだが――
「申し訳ありません。ただいま混み合っておりますので、もう暫らく待合席でお待ち下さい」
――と、追い返されてしまった。
仕方ないので待合席と呼ばれている、受付前にある長椅子(ベンチ)に四人で腰掛けて時間を潰す事になる。
銀行の待合席は出入口の近くに並べてあり、構内を一望できるようになっている。清潔に保たれた床は天井の電灯を照り返して輝きを放ち、亜鳩なら走ると転んでしまいそうだ。入って来た出入口の戸は硝子(ガラス)製で、外の様子がよく見える。昼下がりの外はまだ熱気を充分に内包し、構内の冷房で保たれた気温を知ってしまうと、出る気があっと言う間に萎(な)えてしまった。
構内は人で一杯、と言う訳ではなく、数えてみると十人もいない。それでも受付が三つしかないためか、たったそれだけの人数でも混み合ってしまうようだ。
「……なぁ、律。あんたのしてる仕事って今、人手が足りない事は無いのか?」
閑過ぎる時間を持て余し、黒宇は単刀直入に着物の少年へと声を掛ける。
黒宇は何と無く、律の就いている仕事と言うのは、それほど労苦を感じない物ではないかと思ったのだ。平日に休みが有るし、平気で見知らぬ子供に食事を振舞える程の給金も有るみたいだし。もしそんな仕事に就けるのなら願ったり叶ったりだ。
そう思っていた黒宇の願望は徐々に形を作り始める。
銀行の入口付近を眺めていた律が口唇に皮肉を載せて、苦笑混じりに応じた。
「人手は万年足りていやせんねぇ。でも、大変な仕事っすよ?」
「いや、あんたの形(ナリ)を見てると、とてもそうは思えねえんだけどよ。どんな仕事なんだ?」
「どう説明したらいいんすかねぇ……。覇一」ぱちんっ、と指を鳴らす律。
「俺を執事か何かと勘違いしてないか? 律。……人類の研究、とでも言えば解って貰えるか? 〈人類復興財団(じんるいふっこうざいだん)〉直属の機関なんだが」
「〈人類復興財団〉直属なのか!? スゲェ大手じゃねえか、それ!?」
〈人類復興財団〉と言えば、世界の富豪が一堂に会した、世界最大の援助機関である。組織の名前こそ広まっているが、その活動が公表される事は殆ど無い。黒宇は以前、〈神災対策局(しんさいたいさくきょく)〉や〈救世人党(きゅうせいじんとう)〉の後援を行っていると聞いた事が有ったが、それ以外にも着手しているのは言うまでも無い。
興奮しつつも黒宇は、今一度考え直すように覇一へと視線を向け直す。
「つか、そんなスゲェ組織が、何だって? 人類の研究? 何だそりゃ? いつもどんな事してんだよ?」
遠慮や敬語が欠片も感じられない語調で尋ねる黒宇。ただ、あまりに作法が欠けた相手に対して、二人の少年の態度は変わらずだった。
「――百年前に、《神災(しんさい)》と言う大災害が起こったのは聞いた事、有るか?」
「んー……亜鳩、お前は知ってるか?」
「え? あ、うん……それのせいで、百年前に比べて人口が百分の一に減っちゃって、人の住める土地も凄い変化したって……」
「そうそう、それっすよ。その時に多分変な作用が人類に働いたんすねぇ。極少数なんすが、人類に不思議な力が宿りやしたんすよ。それを俺らは“異能”っつーんすけど、その異能を持つ人間を研究するのが、俺らの仕事なんすよ」
「へぇ……異能ってどんなモンなんだ? 炎を噴き出すとか、巨大化とか出来るのか?」
「流石にそんな魔法みたいな異能は終(つい)ぞ聞いた事がありやせんねぇ。そこまで人間の範疇(はんちゅう)を超越するような力じゃありやせんよ。体が硬過ぎて刃が通らないとか、存在感が薄過ぎて誰にも気づかれないとか、耳が良過ぎて一キロ離れた場所の会話も聞き取れるとか」
「それでもスゲェな! そんな人間がいるのか、この世界には……。――あ、でもそれなら俺と亜鳩にも、そんなスゲェモンじゃねえけど不思議な力が有るよな?」
黒宇が何気無く亜鳩に振り、亜鳩が困惑しながらも頷いたのを、二人の少年は鋭く見咎め、空気を僅かに凍らせる。
――その瞬間だった。銀行の入口の方から硝子の割れる音が響いてきて、人の悲鳴、そして男の怒号が重なった。
「全員動くな! 両手を挙げて跪(ひざまず)け!!」
硝子戸を打ち破って入って来たのは、三人組の男達。皆顔を紫の布で覆い隠し、黒いニット帽を被り、黒の襯衣(シャツ)とズボンと言う姿。身長差も殆ど無く、まるで三つ子が入って来たかのような錯覚が生じる。
三人の男達は皆、白刃を大気に晒した大刀を握り締め、コッコッと革靴を鳴らして、受付の方へと向かって行く。
黒宇はその光景を半ば呆然と見守っていた。
「動くな! 騒ぐな! 誰も喋るなよ! 喋った奴から殺す!」
三人の内の一人が口を酸っぱくして似たような文句を叫び続ける。一番動いて、騒いで、喋っているのは間違い無くお前だろ、と思わず黒宇は心の中で突っ込んでいた。
「おやおや、強盗っすか。こりゃまた、トコトン――“ついていやすねぇ”」
律が隣に座る覇一にだけ聞こえるように呟く。覇一は黒眼鏡を押し上げ、酷く疲れたような嘆息を漏らすだけだった。
「金を出せ。この鞄(バッグ)に入るだけ入れろ。五秒経つ毎に客を殺していく」
「は、はひッ!?」受付の女性が戸惑いと驚きを両立させた声を発する。
「金を入れろって言ってるんだ。さっさとしろ」
「ひゃわわわわっ」
女性が腰を抜かしたのを見兼ね、要求を唱えた男が大刀で彼女の首を刈り取る。
何の躊躇も無かった。女性の首の先から大量の鮮血が噴き出し、彼女の周辺の一切を鮮やかな紅に染め上げていく。
――今度こそ、恐怖に満ち満ちた絶叫が構内に響き渡った。
客の誰もが驚きと共に恐れを懐(いだ)き、腰を抜かしたまま入口へと向かう。――が、強盗の一人が入口で待機しているのを見据え、涙目になってその場にへたり込んでしまう。中には失禁してしまう者まで現れた。
「リ、頭目(リーダー)……人は殺さないって約束じゃ……」
先刻まで大音量で同じ台詞を吐き散らしていた男が戸惑いがちに、女性の首を斬り落とした仲間へと声を掛ける。
頭目と呼ばれた男はその言葉に耳を貸さず、続けて別の受付の女性へと声を掛ける。
「お前もああなりたくなければ、黙って、素早く、金を、この鞄に、詰め込め」
「ひゃああ、あ、あ、は、はひぃッ」
女性は震えながらも何とか金庫の前へと走り込み、金庫の暗証番号を打ち込む作業を始める。が、指が震えて誤作動(エラー)ばかり起こる。それを見兼ねた頭目の男が歩み寄り、女性の首根っこを掴み上げる。
「ひあッ!?」素っ頓狂な声を上げる女性。
「落ち着け。落ち着いて暗証番号を思い出せ。何桁だ? 順番は?」
「あ、あ、あ、い、一、六、八、二、七……」
「分かった」
大刀で心臓を一刺しだった。女性が口から大量の血液をばら撒き、咽(むせ)ながら跪き、蹲(うずくま)る。大刀を引っこ抜くと、手慣れた所作で暗証番号を打ち込む頭目の男。五秒と経たずに金庫の錠(ロック)が外れ、重苦しい音を立てながら丸い扉が開き始める。
頭目の男が金庫の中へ入って行くのを見届けて、先程まで怒号を張り上げていたと言うのに、頭目の男が殺人を犯した辺りから沈黙を守っていた男は、緊張の混ざった嘆息を漏らした。
「怖ェ怖ェ、っと。……まぁ、俺が殺した訳じゃないしな。――おい手前ら! 動くんじゃねえぞ! 騒ぐのも、喋るのもダメだ! そんな事した奴ァ、俺が直々に、さっきの女みたいにしてやんぞ!?」
ようやく任務を思い出したかのように、再び喧(やかま)しくがなり立てる男。それを見て、黒宇は酷い悪夢を見ている気分を味わっていた。
(……死んだ、んだよな)
女性の死体は受付の机が邪魔をして視界に映る事は無い。それでも、大量の血液がその死を明確な色として脳に刻み込む。
まるで陳腐な御伽噺(ゆめものがたり)のようだ、と黒宇は思った。現実が希釈していくような感覚が全身を駆け巡っている。脳は視覚を通じて現実を刻み込もうとしているのに、意識がそれを受けつけようとしない。
――これが、現実。
どんな悪夢でも、醒める事が無いのならば、それがその者にとっての現実なのだ。
「――――ひぐっ」
――不意に。
意識の外に投げてしまった現実の片隅で。
恐怖と言う名の沈黙の檻に覆われた世界に。
酷く掠れた、少女の泣き声が、静寂を破って、――響いた。
「……誰だァ? 喋るなって……喋るなって言っただろォがァァァァ!!」
癇癪(かんしゃく)を起こしたかのように激昂する男。大刀を振り回して叫び散らすその様は、更なる恐怖心を客に植えつける。
黒宇は思わず意識が殺されたような想いを胸に宿した。視界を横に水平移動(スライド)し、音源へ、男の激情の許へと、視線を向ける。
「うっ、っく、うぇ、うぇぇぇぇぇぇ……っ」
「――――あ、はと…………!」
少女は泣いていた。あまりの事態に思考が壊れ、感情に任せて、――嗚咽(おえつ)していた。
声を殺すと言う高等な真似も出来ず、本能の赴くままに涙の混ざった喚き声を喉から走らせる。
何とかしなければ、と思った。
何とかしなければ、と思ったのに。
体が強張り、思考が凍りつき、舌が縺(もつ)れ、意識が崩れそうになって。
――亜鳩の前に、立ち塞(ふさ)がる事しか、彼に出来る術は無かった。
「ンだガキぃ? 殺されてェのか!!」
大音声の怒号に、思わず体が竦(すく)みそうになる。――だが、彼女の前でだけは、そんな失態を見せる訳にいかなかった。
果敢に彼を見上げ、歯を食い縛り、足を踏ん張らせ、低く唸りを上げる。
男は黒宇を見下ろし、蔑(さげす)むように、嘲(あざけ)るように舌を打つと、大刀を振り上げた。
「ンな目で俺を見るんじゃねえよ!!」
――黒宇は、自身の中に有る“変換機(スイッチ)”を切り替える。
それは目に見えない装置。意識のみで切り替えられる、彼にだけ与えられた特別な力。
時間が緩やかに流れる。大刀が左斜め前から飛来する様子が分かる。袈裟懸けにするつもりか。併(しか)し峰の方が黒宇に向けられている。それはつまり殺すつもりが無い、峰打ちだという事。それを刹那に理解した黒宇は拳を固めると、男に向かって敢えて前進する。
それは一秒にも満たない時間。黒宇は摺り足で男の懐(ふところ)に入り込むと、見上げる高さにある彼の顎を目掛けて、――拳を叩き上げた。
ごがッ――、男の顎が軋(きし)みを上げて宙へと飛ばされる。
一瞬の間の出来事に、誰も理解が追いつかない。
周囲の目には、黒宇が大刀で斬りつけられる寸前に、男の方が突然空中に跳ね上げられた、としか映っていないだろう。それ程の早業で黒宇は男の顎を穿(うが)っていた。
男は半規管を揺さ振られたのか、意識は有るものの立ち上がる事が出来ず、倒れ込んだままフラフラしていた。
「――何をしている」
「リ、頭目……」
そうこうしている間に、一杯(パンパン)に膨らんだ鞄を手に、金庫の奥から頭目の男が戻って来た。倒れている仲間を見据えて怪訝そうに眉根を寄せたが、すぐに興味を失って足を止める事無く入口の方へと急ぐ。
「ちょっ、待って下さいよ頭目っ、俺を置いてかないで……っ!」
「そう思うならとっとと歩け。何腰を抜かしてやがんだ、この薄のろが」
「なっ」一瞬にして気色ばむ男。「ざけんなよ手前! 手前が楽に金稼げるって言うから付いて来たんだぞ! 早く俺を連れてけよこの馬鹿!」
ぴたり、と頭目の足が止まる。男を振り返ると、氷点下の眼差しを仲間へ射込んだ。
「ああ、確かに俺は楽に金が稼げると言った。だがな、それすらも満足に出来ない手前は、作戦の支障を来たす以外の何物でもない。ここでお別れだ、薄のろ」
「て、ん、めぇ……ッ!!」
男の怒りをまるで取り合わず、頭目の男、そして見張りの男は銀行より出て行く。――仲間の一人を置き去りにして。
やがて外から車の走行音が鳴り響き、構内に安堵の空気が満ちる。
――だが、これでこの事件は幕を下ろした訳ではなかった。
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