013:忌徒に到る〈其ノ参〉

〈異人研究室(いじんけんきゅうしつ)〉は地下にある施設だが、その規模は下手な病院よりも大きい。
 施設には被験者とでも言うべき〈異人(いじん)〉が約三十人生活している。衣食住の全てが約束されているものの、連日の研究・実験漬けで、あまり意識する事は無い。とは言え実験は毎日ではなく、休みを挟む事が有るし、都合によっては数日の間何もしなくてもいい時間が生まれる事も稀にある。そういう場合、〈異人〉達は閑(ひま)を持て余す事になるのだが、そのための必要最低限の娯楽が施設に用意されている。
 総合演習室は、その中でも最高の規模を誇る巨大な空間だ。様々な用途で使用されるため、専用の部屋が幾つも用意され、それらを全部ひっくるめて“総合演習室”と呼ぶ。最早“室”ではなく“場”と呼んでも差し支えないだろうに、と黒宇(クロウ)は常々思っていた。
 重厚な扉は力を込めないと開かず、手を離すと自重であっと言う間に閉じる。或る時扉の間に腕を挟んで、あまりの重さに腕が千切れた、と言う噂を聞いた事が有るが、それを虚妄(きょもう)と断じ難い程の重量が有る。
 総合演習室の中にも扉が有る。その入口に今、黒宇はやって来ていた。天井は高く、幾ら〈破限(リミット)〉の異能が有る黒宇の脚力でも天井に手を突く事は出来ない。等間隔に並んだ電灯の間隔は狭く、廊下より比較的明るく設定されている。暗い赤色の壁で統一され、落ち着くには少し無理が有るような空間だ。圧迫感こそ、伽藍(ガラン)と拡がる空間が相殺してくれているが、地下にこれだけの空間を柱も無く確保している時点で、あまりいい気分はしない。
 入口の重過ぎる扉を潜(くぐ)った先には、無駄に広い空間が存在している。隅の方に長椅子(ベンチ)が用意されている事と、六角形を象った部屋のどの壁にも穿たれている扉しかない簡素な空間だ。長椅子には一人の着物姿の少年が腰掛けているだけで、他の人影は絶無だった。
 ――少年。そう、黒宇の認識では、その外見は幾ら目を眇(すが)めても十代後半にしか見えない。黒宇の歳が十九だから同い年に映る訳だが……それは錯覚だと、黒宇は知っていた。
 長椅子に腰掛けている少年は黒宇の入室に気づき、糸のように細い瞳を微笑の形に和(やわ)らげ、落ち着いた所作で立ち上がった。その所作には少年に似つかわしくない貫禄が窺える。
「まさか室長自ら出てくるとは思ってなかったな」
 自分よりも上背が小さい少年へと気軽な口調で話しかける黒宇。
“室長”と呼ばれた着物姿の少年は微笑に陰惨さを滲ませて、「くっくっ」と音を殺したような笑声を漏らす。
「そりゃそうっすよ、何せ最後の実験っすからね。誰の時でも見に来ていやすよ。これで黒宇が〈忌徒(キト)〉になるかどうか決まりやすしね」
 砕けた物言い。室長は誰が相手であってもその口調を崩す事は無い。それ故に室長を相手にする時は誰でも気軽に声を掛けられる。
「……思えば、ここに至るまで長かったよな。室長に拾われて、何年経ったんだろうな……」
 感慨深く呟く黒宇。それに対し室長は小さく首を横に振った。
「五年っすよ、黒宇。アレから強くなりやしたか?」
「強くなった。……ま、あんた程じゃあないとは思うけどな」
「くっくっ、いつの間に謙虚になりやしたんすか? 昔はもっと飢えていやせんでしたか?」
「俺も成長したんだよ。あんたは五年経っても何も変わっちゃいないな」
(――そう、何も変わっちゃいないんだ、あんたは)
 五年も経てば背が伸びるし、声も変わるし、体型だって何かしら変わる筈だ。
 なのに少年は何一つ変わっていなかった。背も、声も、体型も、全てがそっくりそのまま五年前のままだった。
 その想いが読まれたのか、少年はほくそ笑むように黒宇を上目遣いに覗いてきた。
「俺は歳を取らない異能を持ってる。――とでも言ったら、信じやすか?」
「……信じるも何も、あんたが何を言ってもこっちにゃ知る術が無いんだ。虚実だろうが何だろうが、呑み込むしかないだろうが」
「思考は大切っすよ、黒宇。動物は皆思考を活用して生き抜く事が出来るんすから」
 にや、と澄ました顔で笑む彼の顔は、やはり五年前に見たそれと同じだった。

◇――◇――◇

 ――五年前。黒宇は十四歳で、亜鳩(アハト)は十三歳だった。
 日夜鍛錬を怠らなかった黒宇は力が付き、大の大人でさえ倒せる程に強くなったと自負していた。――同時に、いい加減この施設を脱せねばと言う気持ちが肥大化し過ぎて、歯止めが利かなくなってきていた。
 身寄りの無い子供を預かる孤児院とでも称すべきその施設では、子供は十五歳に成熟すると施設のために働かなくてはならなくなる。【幅馬(ハバマ)】の街で働くと言う事はつまり、一日中鉱山の中に入り浸り、明日を拝む事さえ困難な安い賃金しか貰えない、重労働に勤しむという事だ。そんな事、黒宇の精神が耐えられる筈が無かった。
 時間が無い、と言う事実が黒宇の内面を焦がし、想いは更に巨大化していく。
 黒宇は十四歳になった年の春、行動に移す事にした。
「亜鳩。俺は今日、ここを出る」
 いつものように遊戯室の隅で、幼児向けの絵本を静かに読書していた白髪の少女へと声を掛ける。
 亜鳩はあれから歳月を掛けて、痩せ細った体から、徐々にマトモな肉付きの体に変化を遂げていた。まだ幼いなりにも可愛いと思える、少女らしい顔立ちになり、上背はまだ小柄としか言えないものだが、充分に成長しつつある。
 遊戯室の隅に佇むその姿は、まるで静止画のようにピタリと風景に当て嵌まり、意識して目を向けなければ背景と同化しているかのような錯覚さえしてしまう。
「お前、本当に付いて来るつもりなのか?」
 黒宇の本心としては、亜鳩を連れて行きたくなかった。足手纏いだからとか、面倒を見切れないとか、荷物としか考えられないとか、そういう訳ではなく、単に彼女はこの施設に留まっているべきではないか、と言う想いが強かったからだ。
 亜鳩は十三歳になった今でも虚弱体質は変わらず、ちょくちょく熱を出すし、風邪も引き易い。何も無い所で躓(つまず)くし、舌足らずで口下手でもある。そんな彼女が、黒宇の送ろうとしている生活に順応できるのか。それが心配の種だった。
 亜鳩に何も言わずに一人で勝手に旅立つ、と言う脚本(シナリオ)も考えた。けれど、それは彼女との約束を破る行為であり、それだけは我慢ならなかった。どんな事情があれ、約束を違えたくは無い。それが、黒宇の信条だった。
「……うん。わたし、クロちゃんに付いてく」
 本を閉じ、まっすぐに黒宇を見据える瞳に、虚勢の色は浮かんでいなかった。
 亜鳩の決意を聞いても、黒宇の本心は変わらない。けれど彼女の意志を蔑(ないがし)ろにする事がどれだけ酷い事かも分かっている黒宇には、頷く以外の選択肢は有り得なかった。


 その夜。黒宇は施設の大人達が生活している部屋に忍び込むと、施設の金を無断で拝借し、密かに施設の外へと逃げ出した。
 亜鳩の足が遅いのは分かりきっていたので、黒宇は彼女を背負って走る。施設の外へ逃げ出す事は容易だと調べていたので、困難ではなかった。問題は、その先に有る。
【幅馬】は【竜王国(りゅうおうこく)】の辺境にある片田舎と呼べる街だ。そこから主都【臥辰(ガシン)】へ向かうには、何十キロもの距離が有る。その距離を如何(いか)に乗り切るか、それこそが要点なのである。
 黒宇は、亜鳩さえいなければ徒歩で向かおうと考えていた。【幅馬】と【臥辰】の間にはバスが走っているが、出来る事なら金はあまり使いたくなかった。【臥辰】に着いてからの生活費に使おうと考えて拝借した金だ、一円も無駄には出来ない。
「クロちゃん。主都までは歩いて行くんだよね?」
 だが、そんな黒宇の思考を読み透かすように、亜鳩は黒宇の隣を歩きながら呟いた。
 施設から逃げ出して間もない、朝の光には程遠い、夜の帳に満ちた山道を二人は歩いていた。疎(まば)らに点る外灯だけでは、相手の表情を窺うのは困難極まりないが、それでも黒宇は彼女が真剣な顔をしていると気づいた。
「わたし、頑張って歩くから」
 出来る限り気遣わせないようにとの配慮なのだろう。亜鳩の体力ではあっと言う間に歩けなくなるのは分かっていたが、亜鳩の言葉に首を“否”と振る事が、黒宇には出来なかった。
 黒宇が気遣えば、きっと彼女は落ち込む。自分は足手纏いだと、再認識してしまう。どの道二人で歩き続ければ、彼女は途中で確実にヘバる。その瞬間に結局は再認識してしまうのだ。前者を選んだ方が彼女に掛かる負担は軽く済んでいい。
「……休む余裕は無いんだからな。停まらずに行くぞ」
 ――だと言うのに、黒宇は後者を選んだ。
 答はエゴだった。金を使いたくない、その想いが強く働き、主都まで走ってくれるバスではなく、徒歩で向かう事を黒宇に選ばせた。
 その時、黒宇は自分がそう発言した事に何の躊躇も無かった。今思えば酷い事を言ったものだと、その時の自分を責めたくなる。


 夜が明け、施設を出て初めての朝が訪れた。
 亜鳩は見る物全てが新鮮なようで、あちこちで吐息を漏らして、感嘆を表していた。
 黒宇としても似たような感傷には浸っていたのだが、感銘を覚える心境には至らなかった。黙々と歩を進める事だけに集中していて、意識が外へと向かなかった事が起因していた。
【幅馬】にはない草花、【幅馬】にはない鳥獣、【幅馬】にはない空気……見た事も、感じた事も、聞いた事も無い世界が眼前に広がっている。それが全て、黒宇の鬱屈した精神を和らげていく。これが世界なのだと、心を洗っていく。それが黒宇は楽しく嬉しかったが、言葉に出す事は無く、また表情にも出さず、黙然と規則的な動きで足を運び続ける。当時を振り返ると、それは一種の照れ隠しだったのかも知れないな、と思う黒宇。
 休憩を挟みながらの徒(かち)だったが、昼頃になると早くも亜鳩がヘバりだした。
「はぁ……はぁ……はぁ……、」
 歩いているだけとは言え山道の急勾配を何時間も歩き続けているのだ、体力の無い亜鳩の息が、あっと言う間に上がるのも無理は無かった。足を動かす速度(ペース)が次第に遅くなり、進む距離も画然と落ち始める。
 黒宇は始めに自分が言った事を遵守するために、亜鳩を待たずに進んでいたが、やがて良心の呵責(かしゃく)に耐え切れず、引き帰してきて亜鳩の前に屈み込んだ。
「ど、どうしたの、クロちゃん……?」
「乗れ」前を向いたまま、亜鳩に振り返るつもりの無い黒宇。
「だ、大丈夫、だよ……まだ、歩けるよ、わたし……」
「いいから乗れって」
「でも……」
「乗れ!」
 黒宇の恫喝(どうかつ)に驚きながらも、亜鳩は結局彼の背中に乗る事にした。
 亜鳩の華奢な体を背負い、黒宇は先程と同じ足取りで歩を進めて行く。
 黙々と、足を進めるだけの時間が過ぎる。
 ――ふと、しゃくり上げる声が後頭部の方から聞こえてきた。
「……どうした」低い声で尋ねる黒宇。
「うっ、うぅ、……ごめんね、クロちゃん……」
「何がだよ」
「ひっ、う、っく……わたっ、わたし、足手まと……」
「言うな」
「でっ、でもぉ……ひくっ、」
「――そうだ、話を聞かせてくれよ」
 歩きながら、亜鳩の泣き言を聞きながら、黒宇はふと思いついた事を舌に乗せた。
「ふぇ……? はな、し……?」
「お前、たくさん本読んでんだろ? 面白かった話でも聞かせてくれよ」
「……えっと、」
「ダメか?」
「う、ううんっ、ダメ、じゃないけど……」
「じゃ、何か話してくれ。出来たら難しくない話な」
「う、うん、分かった……」
 亜鳩が戸惑いながらも泣き止む気配を見せた事に、黒宇は安堵の溜息を、彼女には聞こえないようにひっそりと漏らした。

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