008:騎士に到る〈其ノ陸〉
「――――是烈(ゼレツ)。これは、俺とお前の試験なんだ」
呟きが、漏れる。
一瞬〈牙(キバ)〉が発した声だとは気づかない程、その言葉はこの場に於いて異端だった。
梵在(ボンザイ)が訝(いぶか)るように瞳を眇(すが)めたのを見て、初めてその言葉が自身へ投げられた物だと気づいた是烈は、思わず訊き返そうと口を開きかけ、――直前に〈牙〉がもう一言、声を発した。
「これが終わり次第、お前を副局長にするかどうか、――決めるからな」
淡々とした、いつもどおりの、感情の起伏を感じさせない、ただ何故か笑っているように思わせる、――〈牙〉の声。
その声が発された直後、〈牙〉の体が動いた。踊るように梵在との間に在った空間を侵し、心の臓を穿(うが)ちに走る。
電光石火の如き速さで肉薄する〈牙〉。だが、その単調な動きを梵在が見逃す筈も無い。
「――温(ぬる)いわァ!」
返す刃も、突きだった。
大剣――右手に握り締めた大人の胴ほどもある幅広の両刃を突き放ち、左手に握り締めた同じ形の大剣で突き放たれた矛を食い止める。
勝負は一瞬だった。
〈牙〉の体――胸部を刺し貫く、大剣。
まるで尖塔が飛び出たかの如く、真っ赤に彩られた幅広の両刃が〈牙〉の“防災服”を突き破り、赤く突出する。
見るからに致命傷だった。即死してもおかしくない部位を、あっさりと貫かれた〈牙〉。
(…………どうして)
どうしてそんな甘い攻撃で挑んだのだろう。是烈にはそれ以外の疑問が浮かばなかった。
ごぽっ、と大量の血液が粟立(あわだ)つ音が仮面の奥からくぐもって漏れ聞こえてくる。――ただ〈牙〉の動きは衰えを知らなかった。
――余裕。何故か是烈は、そう感じずにいられなかった。
併(しか)も悪夢以外の何物にも映らなかった。
〈牙〉は心臓を容易く破られたと言うのに前進を止める事無く、一瞬体を大きく痙攣(ケイレン)させはしたものの、自ら心臓を抉(えぐ)られるように前進すると、――槍を突き出し、梵在の左肩を刺し貫いた。
「あがゥアッ」
先に呻き声を発したのは梵在の方だった。左肩の恐らくは腱(けん)を切られたのだろう、左肩から先の腕が痺れたように動かなくなり、大剣から手を離してしまう。鐘を鳴らした時のような重たい音を立てて大剣が地面に落ちる。あまりの重量に軽い地響きを感じる程だった。だらん、と垂れ下がった腕には力がこもっている様子は微塵も感じられない。
深々と槍を突き刺した〈牙〉は、心臓を貫かれている事など気づいていないかのように振る舞い続ける。抜く事が容易く出来なくなった三節槍を手放すと、貫かれたままになっている大剣を無視して懐(ふところ)から短剣を抜き出し、――梵在の左目を刺し貫いた。
「ガァァアアァアァッ、ぐ、ぬゥゥッ!!!」
激痛が噴き出たのだろう、梵在は〈牙〉を刺し貫いていた大剣をも手放し、数歩後退する。無事な右手で左目を覆う。悲鳴、怒号、断末魔、何(いず)れにも聞こえる絶叫を走らせて、梵在は左目を押さえ動きが固まる。
大剣に刺し抜かれ、その大元である梵在が手を離した事により自由になった〈牙〉が、大剣で胸を穿たれたままその場に倒れ込む。
“防災服”の灰色が瞬く間に鮮血色に染まり、やがて黒ずんでいく。まるで自身の中に潜めていた暗黒面(ダークサイド)がじわじわと表層に滲み出てくるように、ゆっくりと時間を掛けて〈牙〉の全身を黒く染め上げていく。
是烈は息を呑み、指一つ動かせない金縛りに陥っていた。瞳孔が開ききり、視界に納まる全てが一瞬ホワイトアウトしそうになる。だが、霞むような現実はそれ以外の何物にも染まらない。
「がッ、あッ、くッ、ぬゥゥゥゥ……ッ!! まさかここまで先を見ぬ輩とは思いもせなんだわ、〈牙〉……ッ!」
左目に突き立った短剣を気力で抜いたのだろう、からん、と地面に短剣が落ちる音が聞こえた。――尖端には、梵在の物と思しき眼球が刺し貫かれたままになっていた。
梵在は左目からボタボタと落ち続ける鮮血を拭う真似(マネ)もせず、ただ押さえて呻き声を漏らしている。左手は槍が貫いたままになっており、腕はおろか指先一つ動く事は無い。
風が、熱と緑の香りを消し去るような血臭を纏わせ、場を駆け抜ける。
風が吹きつけてくる方向には巨漢が、血に塗れた修験者染みた格好の男が、体を心なしか震わせながらも屹然(きつぜん)と佇立(ちょりつ)していた。
「……ふん。〈竜王〉に【竜王国】最強と言わしめた武士(もののふ)。それを討ち取るのに某の片腕、片目が奪われたか……。――随分と安い命だな、〈牙〉よ」
是烈の腸(はらわた)を刺激する、嘲弄を超す侮蔑が髭(ヒゲ)の隙間に浮かぶ歯が並んだ穴から放たれる。
視界には〈牙〉の体が無造作に転がっている。動く気配など感じられる筈が無かった。心臓を一刺し。それも細剣のような武器で突かれたなら未だしも(それでも致命傷だろうが)、大剣で胸の半分以上をごっそりと穿たれている現状を見て、生死の有無を問えるほど是烈も馬鹿ではない。
「某の思い違いだったか。噂は当てにならぬとよく解った。よもやここまで命を粗末に扱う阿呆だとは思わなんだ。このような下郎が組織の長? ――ふん、分不相応も甚(はなは)だしいわ」
「――待てよ、そこのヒゲ」
思わず意識よりも先に舌が動いた。だが後悔は無い。怒りが既に理性など駆逐した後だった。凝集した怒りが低い恫喝(どうかつ)となって是烈から発せられた。
一瞬誰に言われたのか見当が付かなかったのだろう。梵在は不思議そうな顔をして、無事な右目をぎょろりと蠕動(ぜんどう)し、やがて遠近感の掴めぬ瞳で是烈の姿を捉える。
「〈牙〉の狗が何かほざいたか? 某に意見するところを見ると、貴様もそこの奴と同じく利口ではないようだな」
「さっきの発言を取り消せ」怒り、そして殺意を内包した低い唸りを発する是烈。
「さっきの発言? 何の事だ? 命を粗末にした阿呆の事か? 下郎か? それとも――」
「全部に決まってんだろクソッタレがッ!!」
怒号に等しいがなり声。空気が痺れるように是烈の怒声が空虚な敷地に響く。
片目を押さえる事を止めた梵在は、是烈より視線を容易く逸らし、落とした大剣を拾いに動く。その行為が更に是烈の腸を刺激する。怒りで煮え繰り返る内臓に忠実に是烈は怒鳴った。
「勝手に動いてんじゃねえよ!! 殺すぞ!!」
ぴた、――と。
梵在が大剣を拾い上げる仕草のまま硬直し、大剣を拾わずにゆっくりと胴を持ち上げると、頭を正面にし、是烈へと隻眼を据えた。瞳には仄かな冥(くら)い期待を内包した、熔(と)かした鉄のような熱を帯びた光が薄っすらと浮かんでいた。
「――某を、殺す、とな?」にぃ、と唇の端が自然と釣り上がる。言うまでも無い、――嘲笑が滲んでいる。「貴様がか? 〈牙〉の狗如き、貴様が、――か?」
心底馬鹿にしきった言葉の羅列。まるで相手にする価値も無いと投げられた、ぞんざい過ぎる嘲弄の連続に、是烈は自身の頭が沸騰したのに気づいた。熱し続けられた鉄は真っ赤に燃え上がる。
頭が怒りのために現実を希釈(きしゃく)していく。まるで現実が解けていくような錯覚。ここが、今見えている世界が自身の世界だと誤認する感覚。それに、是烈は気づかない。
奴を殺す。〈牙〉への罵詈(ばり)を並び立てた奴は殺すに値する。故に殺す以外の手は考えられない。それしか、たったそれだけの思考しか頭にはなかった。意識を占拠された是烈に再考の余地など有り得なかった。
斧槍を構え直す。それはまさしく、闘争の意志の表明。このまま尻尾を巻いて逃げる事も、クソッタレな敵を逃がす事も考えられない。奴は、ここで、仕留める。
梵在は是烈の構えを見ると、嘲弄を込めた笑みを引っ込め、硬い表情に切り替えて隻眼で睨み据える。
「……本気なのか? 某に敵うと、本気で思っておるのか? ――この梵在、例え片腕をもがれようが、片目を潰されようが、〈牙〉の狗如きに後れなど取らぬぞ、若造がァ!!」
隻眼を眼球が零(こぼ)れ落ちんばかりに見開いて発する恫喝にも是烈は動じなかった。今の彼の中に満ちている怒りは現状を少なからず希釈している。どれ程の実力差が有っても、ここで勝たなければいけないという、無謀と言う名の意志が働いている。
空気を痺れさせる程の声量で発せられた怒声にも動じない是烈を見て、梵在は瞳を眇めると、憐(あわ)れみを滲ませた感情を視線に載せた。初夏の暑さを冷やすような醒めきった声音で、呟く。
「正気を失したか、若造。……良かろう、貴様もここで地に伏せるがいい。――最後に名を聞こうか」
常に絶対優位の立場を崩さない物言い。是烈は癪(しゃく)に感じて奥歯を更に強く軋らせるが、それでも口は動いた。感情を極限まで殺したような、低い低い嘶(いなな)き。
「……俺は是烈。〈神災対策局〉“仮”副局長にして、我烈(ガレツ)が息子、是烈!」
後半は怒号と化した宣言に梵在は不敵な笑みを滲ませた。面白い、と口の中で呟きが漏れたのが是烈には分かった。
「某は梵在。〈禍神崇信教団〉祭司にして、此度(こたび)の襲撃部隊隊長を信任されし者、梵在!」
「うぉおおおおおッッ!!」宣言を返された直後、是烈は怒号と共に駆け出していた。疾風の如き速さで梵在へと肉薄する。斧槍に因る突撃。矛先は狙い違わず梵在の心臓へと向かう。
「ぬんッ!」喊声(かんせい)と共に大剣が横薙ぎに振るわれ、進路を妨げられる。
是烈は斜め右――梵在の大剣から逃れるように跳んだが、雷の如き速さで襲い来る大剣はそう簡単に躱(かわ)せる代物ではなかった。咄嗟に屈み込んで白刃から逃れようとしたが、それでも左肩に抉られるような衝撃が走る。だが、転がるように右斜め前へ前転したのが功を奏し、その先に在る首を刈り取られる事だけは回避できた。
「ち――――ッ」前転しつつも両足を踏ん張って動きを急停止し、再び攻勢に戻ろうと斧槍を構えようとした、その時だった。
梵在は既に、薙ぎ払いを始めていた。
避けられない――気づいた時には既に手遅れだった。咄嗟に斧槍で白刃を受けようとしたが、その行為自身が間違いであり、彼の最善でもあったと、衝撃を叩きつけられてから知った。
ぼぎんッ、――と。
斧槍が容易く断ち切られ、そのまま肋骨に食い込むように大剣が薙がれていく。
本来、槍の中にある茎(なかご)と呼ばれる芯が柄の中に入っており、そう簡単には切り落とせない仕組みになっているのだが――そんな物、容易く切り落とせる程の膂力(りょりょく)が大剣に込められていたのだろう。
断ち切られたと気づいた時には胸にまで刃が食い込んでいた。是烈は喀血しながらも咄嗟に体を捻(ひね)り、大剣から無理矢理逃れると受身が取れずに何度も転がり、梵在から数メートル離れた場所で跪(ひざまず)く。即座に立ち上がれるほど胸部の傷は浅くなかった。
視界が明滅する。あまりの痛さに視界がホワイトアウト寸前だった。雑音(ノイズ)が走るように視界に砂嵐が混じる。呼気が自然と荒くなる。足が産まれたての小鹿のように震え出し、立ち上がろうにも力が入らない。
視線の先の梵在は左目と左腕を失って尚、健在だ。まるでそんな不利条件(アドヴァンテージ)など無いかのように、挙措(きょそ)が確(しっか)りとしている。一撃で這い蹲(つくば)っている是烈との実力差は、見るまでも無く理解できる。
敵わない――やっと理性が現状に追いつくのを、是烈は感じた。先刻まで全身を満たしていた怒りが、突如として湧いた現実的な痛覚に因って鳴りを潜め、恐怖とも言える本能が理性を呼び戻し始めた。
梵在は大剣を杖のように地面に突き刺し、ただ立っているだけだ。そう、そこに在るだけだと言うのに、全く別物に感じさせる存在感が、ヒシヒシと是烈の肌を炙っていく。
自分の思い込みは烏滸(おこ)がましいにも程があると理解できただけ、まだ良かったのかも知れない。あのまま何も考えずに戦闘を続けていれば、失うのは血液と得物だけでは済まなかったに違いないからだ。
――だが、
「――――逃がせる、か、よ……ッ!」
〈牙〉が殺される程の強さを誇っていようとも、
自身の得物が壊され、挙句に殺されかけようとも、
このまま挑み続ければ間違い無く殺されると分かっていようとも、
――退けない時が今なのだと、疑う余地は無かった。
(……だが、どうする? あの大剣に対抗できる長物は壊され、胸からの出血も酷(ヤヴァ)いから戦える時間も残されてないだろうし、奴は片目片腕を潰されても衰えを知らない化物……)
考えれば考える程、勝ち目の無い戦だと気づかされる。
――『失敗に構うな。常に次を考えろ』
ふと、〈牙〉の言葉が脳裏を過ぎる。
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神戯
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