004:騎士に到る〈其ノ弐〉
【臥辰都立総合学習院】の応接室へと通された是烈(ゼレツ)と〈牙(キバ)〉は、先刻歴史の授業を行っていた教室にいた学徒の一人である少女と、学習院の院長である老爺(ろうや)の二人を対面に長椅子(ソファ)に腰掛けていた。間に置かれている足の低い長卓(テーブル)の上には若干結露している湯飲みと煎餅(せんべい)が出されている。是烈と〈牙〉は長卓の品に手を触れなかったが、少女は湯飲みを両手で握り締め、こくこくと小さな喉を震わせて中身の茶を飲み干していく。
院長である老爺は、前髪が後退した額から滲み出る脂汗を絹製の手拭(ハンカチ)で忙(せわ)しなく拭き取りながら、〈牙〉と長卓の間を何度も視線を行き来させていた。明らかに緊張しているが、それを気にせず〈牙〉は仮面も取らずに無言のまま院長を見つめていた。
「ええと、それで〈牙〉様。こちらでは怪しい人影を見た、と言う報告は受けていないのですが、何か不自然な点は、その、見受けられましたでしょうか……?」
ここまで狼狽(ろうばい)されたら、怪しい人影を見ずともあんたが一番怪しいんだが、と言いたくなる是烈。言う筈は無いが言ったらどんな反応を見せるかな、とついつい想像して胸の内で笑ってしまう。
大極に位置するように、冷静と言うか平静と言うか、身動ぎ一つ取らず平然とした趣で姿勢を正したまま座している〈牙〉は、院長の質問を受けても全く動じずに淡々と応じる。
「院内で怪しい人影が僕の目に映るようなら、この学習院はよほど警備が御座(おざ)なりと言う事ですよ、院長殿」
諫(いさ)めるような、軽はずみな言動を注意するような返答に、院長は汗顔(かんがん)の至りのようだった。「はぁ」と呟きを漏らして、頻(しき)りに瞬きを繰り返し、視線も逸れがちになる。が、〈牙〉は気づいているのかいないのか、院長の様子に構わず淡々と話を続ける。
「流石(さすが)に院内で目に付くような輩は見ていないので、それだけは安心なさって結構かと思います」
「で、では、賊は一体どこから侵入するつもりなのでしょう……?」
「それを食い止めるのが〈神災対策局(しんさいたいさくきょく)〉の役目です。心配なさらずとも職務は確(しっか)り果たします」
涼しげに言い切る〈牙〉に、院長が不安げに是烈にも視線を向けてきたので、是烈も彼に向かって確りと頷いてみせる。
頷いてみせたはいいが、是烈に〈牙〉ほどの自信が有る訳ではない。だがここで頷いておかなければ、気弱そうな院長の事だ、余計な不安を掻き立てられ、局員の行動に支障を来たすような真似をしかねない。そう思っての判断だった。
「そうですわ、院長様。〈牙〉様がいるのですから、わたくしが襲われる事なんて、万に一つもありませんわ」
自信満々に呟いたのは、是烈の対面に座っている十代前半と思しき幼き少女。
【臥辰都立総合学習院】の女生徒の制服である、袖に藍色の線(ライン)が入った白いシャツに白いプリーツスカート姿。胸元には“雲に挟まれた竜”の意匠が凝(こ)らされ、【竜王国】の中でも最上流に位置する学び舎である【臥辰都立総合学習院】の学徒だとすぐに知れる。それだけでも「お嬢様」の要素が充分だと言うのに、その涼しげな佇(たたず)まいと言い、気品の感じられる口調と言い、根っからの「お嬢様」なのだと一見しただけで分かってしまう。
名を竜華(リュカ)と言う。今回〈神災対策局〉の局長自身に依頼が持ちかけられたのは、件(くだん)の中心人物が彼女だから、と言っても過言ではあるまい。
「そうですわよね、〈牙〉様?」
「僕は全能じゃないですから、そう軽々と仰(おっしゃ)られても困りますよ、姫様」
苦笑を浮かべている様子が容易(たやす)く想像ができる、〈牙〉の返答。
――〈牙〉が“姫”と呼んだのは、渾名(あだな)でもなんでもなく、そのまま彼女の正体を表している。
【竜王国】は王室が一番の権力を誇る、絶対王政の“王国”である。【竜王国】に住まう人間を〈竜人〉と呼称するのは、国王が〈竜王〉と呼ばれる事に起因している。そして〈竜王〉の第三王女こそが、彼女――竜華なのである。
一般人には逢うだけですら奇跡としか思えないような雲の上の人と、こうして長卓を挟んで対面する事は、〈牙〉はともかく是烈には初めての体験だ。院長ほどではないが、常識的な緊張は勿論懐(いだ)いている。
竜華は恐らく妃に似たのだろう、幼いが既に整った容姿を持っている。これでは今から言い寄ってくる雄達の心配が必要な気がする。その見蕩(みと)れてしまいそうな端整な顔が、〈牙〉の苦笑混じりの一言で勃然(ムッ)と頬を膨らませる。
「〈牙〉様? わたくしの事は姫様、ではなく、竜華、と呼び捨てて下さいと、再三申した筈ですけど?」
「いや、流石に不味いでしょ、公の場では。私的に逢う時だけで勘弁して下さい」
「むぅぅ」頬を一杯(パンパン)に膨らませる竜華。「そう言っていつになったら私的に逢いに来て下さるのですか? もう半年近くも逢いに来て頂けてません事よ?」
「姫様、僕にも職務が有りましてですね、そう毎日のようにご訪問出来ない事はご承知の上だと思っていたのですが」
「毎日とは言っておりませんわ。せめて毎週、出来なければ二週間に一度でもいいんですのよ?」
譲るつもりが無いのか竜華はじとーっと〈牙〉の仮面を食い入るように睨(にら)んでいる。これが最大限の譲歩だ、とでも言いたげな眼差(まなざ)しをマトモに注がれている〈牙〉はと言えば、表情が全く窺(うかが)えないので分からないが、表面上は涼しげに応対し続ける。
「その件に就いては何(いず)れまたお話しましょう。今は賊の方が大事です」
「むぅぅ……またそうやってはぐらかす……」
唇を尖らせ、眉根を力一杯寄せて不機嫌な表情を浮き上がらせる竜華だったが、〈牙〉はこれ以上取り合うつもりが無いのか院長の方へと牙の面の正面を向け直す。話題を元に戻すつもりなのだろう。是烈も今の和(なご)やかでありながら剣呑さを隠せない非常に興味深い内容を意識の外に取り除き、真剣みを帯びた眼差しで〈牙〉と院長へ視線を向ける。竜華は不機嫌に「ぷぅ」と頬を膨らませたまま煎餅をがっつき始めた。
「院長殿。現在学習院の敷地内に僕の部下を五人配備してあります。〈竜騎士(りゅうきし)〉が遠征から戻って来るまでの警護とは言え、流石に僕と彼だけでは無理だと感じましたので」
「おお、そうでしたか! いや、助かります。こちらとしても〈竜騎士〉の遠征を狙っての賊の予告状でしたので……警護、警備に関しては〈神災対策局〉に一任するつもりで御座います」
院長が汗を拭き取りながらも、先程より緊張が解けたような和らいだ表情を滲ませる。流石に〈牙〉と是烈だけでは不安が有ったのだろう。五名もの局員が警護に当たってくれるのなら、絶対とは言えないが何倍も安心感が湧く。
――事の始まりは、〈竜騎士〉の遠征に始まる。
〈竜騎士〉とは、【竜王国】の軍部が抱える選りすぐりの精鋭騎士の事である。【竜王国】が戦を行う時は常に最前線で剣を持ち、且つ王将の陣で最後の盾としても機能する。その強さは折り紙付きで、戦が沈静化した現在では王族の警護――つまり近衛(SP)や、貴族や王族など上流階級の人間が係わる場所の警備などを行っている。
それが今殆(ほとん)どの者が遠征のために不在となり、その煽りを受けて【臥辰都立総合学習院】には〈竜騎士〉がたった三人しかいない事態に追い込まれたのである。因みに通常時は十人の〈竜騎士〉が駐在していた。相当な規模を有する学習院ですら十人で済むのだから、その腕は恐ろしく立つと言える。
〈竜騎士〉の遠征は一年周期に行われる行事で、七月上旬に行われるのが通例となっている。それを狙った犯罪が現在進行形で行われようとしている――のかも知れない。
かも知れない、と断じる事が出来ないのには理由がある。
事件の発端は昨朝――【臥辰都立総合学習院】に宛てられた犯罪の予告状が、選りにも選って【竜王城】に届いた。内容は実に簡潔、『【臥辰都立総合学習院】を襲撃する。』――それだけ。何故か重要な「何時」が全く記されていなかった。それも犯人の意図だとは分かるのだが、王室はすぐに〈神災対策局〉へ連絡を入れ、そうして翌日――つまり今朝には局長である〈牙〉自ら【臥辰都立総合学習院】へと参上した次第。
これが今までの顛末(てんまつ)。そして今から立てるのは、その対策である。
〈牙〉は院長の言葉を受けた後に暫らく黙り込んだ。「うぅむ」と顎を摩(さす)る仕草をしつつ小首を前に傾げる。悩ましげな姿勢を取り、そのまま固まった。
「そちらの、」不意に幼い少女の声が上がる。「〈牙〉様の隣に座っている方は、どちら様かしら?」
「俺か?」と思わず言ってしまった後に、ハッと口を押さえて「――僕ですか?」と言い繕う是烈。
どうにも〈牙〉のような“目上の上司”と言う印象が薄い、だが画然とした階級の差が有る少女に戸惑いを隠せない。〈牙〉相手の時と同じような反応が即座に出来ないのである。
「そう、貴方。貴方は、〈牙〉様の、何なのかしら?」
「……僕は、〈牙〉さん……様の助手みたいなものです」口ごもりつつ応じる是烈。
「役職は?」
「……」言い難そうに視線を逸らすが、じとーっと見据えられる時間が続き、流石に辛くなって竜華に向き直る。「……“仮”副局長、です」
「“仮”副局長、なの?」
「はい。“仮”副局長、です」
そう、“仮”である。厳密には副局長ではなかった。まだ、正式に辞令が出ていないため「仮」のままなのである。まるで自動車の仮免許のようで、是烈としてはあまり公言したくない役職だった。
「お名前を聞いても宜しいかしら?」鋭い口調で竜華が質問を続ける。
「……是烈です」
「是烈?」竜華がハッと何かに気づいたように口を滑らせる。「もしかして我烈(ガレツ)様の親族かしら?」
是烈はグッと奥歯を噛み締め、俯(うつむ)くように頷く。
その様子を見て察したのだろう、竜華は申し訳無さそうに柳眉(りゅうび)を「ハ」の字にし、目を伏せて続ける。
「……失礼しました。無礼は謝ります。ごめんなさい」
ぺこ、と礼儀正しく頭を下げる幼い少女に是烈は自分の感情が何故か子供らしく思えて、若干苦笑を浮かべて、応えるように頭を下げた。
「いえ、こちらこそ紹介が遅れて申し訳ありませんでした」頭を下げて告げた後、竜華を正面から見据えて言葉を続ける。「僕は前副局長我烈の息子、是烈です。まだ“仮”副局長の身ではありますが、この件には全力で当たらせて頂く所存であります」
ハキハキとした口調で言えた事が少し誇らしかった。是烈が少し胸を張りたい気分で竜華を見つめていると、彼女は一瞬呆気に取られた表情を浮かべた後に、柔らかい、日溜まりのような微笑を浮かべて小さく小首を傾げた。
「頼もしい限りだわ、是烈様。頼りにしていますわよ?」
「はい!」
思わず背筋を伸ばして応じる是烈。そこに横で動きを停めていた〈牙〉が不意に口を挟み込む。
「――姫様も、気に入られましたか?」
〈牙〉の親しげな一言に、竜華は瞼(まぶた)を半分下ろした、どこか冷たい眼差しを返した。
「〈牙〉様はもっと気に入っているのですけれど? どうして気に入って貰えているわたくしに逢いに来て下さらないのかしら?」
「――と言う訳で院長。そろそろ休み時間も終わりでしょう? 姫様を教室まで送ってあげて下さい。僕達は学習院を一通り見て回りたいので」
「ちょっと!? ちゃんと人の質問に答えなさい!」
激昂する竜華など何のその。〈牙〉は全く意に介さずに院長と話を進め、結局それ以上竜華とは取り合わなかった。
彼を大人だと感じるのは、まだ自分が子供から卒業していないからか、と是烈は人知れず思ってしまうのだった。
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