山々に囲まれ、しかし木々も疎らに開けた平地に狐の里は広がっている。俺たち天狗の村とは比べ物にならないほど栄えており、なかでも平野を縦断する川沿いの土地に堂々と君臨する朱色の舘は、その栄華を讃えるかのようだった。
民衆の形態も様々で、けれども様々な狐が皆平和に暮らしている様子が上空からでも見てとれる。商業の発展した地域の賑わいは村にはないものだ。

(さて、どこに行けばいいのかね)

目指すは薬師の狐の元。なので自ずと行き先は絞られるのだが。
大方、あの大きな舘か里の外れにある薬草園の近くの集落にいるはずだ。薬師は貴重であるし、この人口と平和さなら医療施設はその二つで十分だろうから。

「あー、天狗が飛んでる」

「珍しいわねえ。でも近付くと危ないから、お家に帰りましょう」

地上から俺を指差す子供が見えた。その隣で、母親らしき狐が困ったような顔で此方を睨んでいる。

(やっぱ嫌われてんな。当たり前か)

母親が子供の手を引き、近くの家の軒先に身を隠す。子供のほうはこちらに興味があるようで一度振り返ったが、甲高い母親の声で怒鳴られると大人しく姿を見せなくなった。
先祖が狐に何をしたのかは知らない。何をされたのかも知らない。わかるのは、もう風化した記憶であるのにその根は未だ互いの奥底に根付き、表面上は和解に向かったように見せかけて実際は全く昔と変わっていないのだ。交易の生む利益だけが目当てのつながり。
そんななかで、やはり緑間のような奴は珍しいと思う。警戒はされたが、別段俺を嫌がる様子も見せなかった。どこか事務的できつさもあったけれど、それは彼の質であるようだし、対等な会話が成り立ったこともよく考えればすごいことなのだ。

(んー、やっぱあの舘かな)

ここからは一里あるかないかといったところだろうか。あまりの大きさに、遮るもののない上空ならば里の端からでも見えるのだが。
腰に巻き付けた麻袋には、天狗の村のある高山地帯にしか生えない(と、伊月さんから教えてもらった)薬草がつまっている。このあいだのお礼を何にしようかといろいろ考えた結果、薬師を名乗ったあいつにはこういうのが喜ばれるかなという結論に至ったのだ。
炎にやられた右の翼はまだ少し痛むが、それ以外はあいつのおかげでもうすっかりいつも通りだった。



◆◆◆◆



昨日の雨から一転して、今日は驚くほどの快晴だった。中庭の地面もだいぶ乾いており、隅に作っておいた小さな薬草畑も僅かな湿り気がむしろ丁度よいくらいだ。気がかりで見に来たが、心配は無用だったらしい。

「ミドチン、みてみてー」

不意に背後から聞き慣れた声がする。声のした方を向くと、中庭の中程にある石造りの池のほとりで紫原が長い腕を無造作に振り回していた。

「なんだ」

「お菓子もってきた。さっき黒ちんが来てね、赤ちんに用があるとかで、おみやげくれたー」

紫原の片腕の中には、たしかになにやら風呂敷包が見える。支離滅裂な説明だが、一応意味はわかったので此方からも近づいていく。

「黒ちんがお手紙持ってきたんだって。せっかく赤ちんと遊んでたのに」

ぼす、と俺に手渡された包をほどくと、そこには牡丹餅がぎゅうぎゅうに詰め込まれていた。不満を漏らす紫原だったが、甘い香りを嗅いだとたんに目を輝かせた。
黒子にしてはよく紫原の扱いを心得ている。「お菓子」をもらったとあらば、こいつはよっぽどのことでない限り文句を忘れてしまうのだから。

「雪の村の長からだな。何かあったのだろうか」

黒子は昔からの知り合いの一人で、雪の村の長の身内だと聞いている。長と直接顔を合わせたことはないが、若い男だったはずだ。
そういえば、黒子は今度貸すと言っていた本を持ってきてくれただろうか。あまりあいつとは気が合うと思えないが、本の趣味はなかなか似ているのだ。

「んー、わかんない。それより、早く食べようよ」

言い終わるが早いか否か、紫原はひょいと牡丹餅をつかむと早速一つ頬張った。

「おい、行儀が悪いのだよ」

「いーじゃん。ほら、あっちが陽当たり良さそうだから、行こ?」

紫原は大きく平たい岩が目立つ草むらの方に歩いていく。あそこなら岩にも座れるし、すでに湿り気もないだろう。
こいつにとって俺の注意は二の次のようだ。まったく、と思うものの、早く食べたいのは俺も同じなので、溜め息を吐きつつその背に続いた。


「いただきまーす」

堅い岩肌に腰掛けたところで、大きな手が二人の真ん中に広げた風呂敷にのびる。

「んー、おいしー」

「なかなかのものだな」

手にとってみると牡丹餅はなかなかに大きくて、それでいてぎっしりと握られているようだった。目測ではそれが十個ほどある。
口に広がる上品な甘さについ二つ目に手をのばしたが、これでは昼食が食べられなくなってしまうかもしれない。俺は元来少食な方であるし。

「……おい紫原、それは何個目だ」

「うーんと、五個目?」

「食べ過ぎなのだよ!」

ふと風呂敷を見れば、いつのまにやらかなりの餅が消えていた。紫原は口の周りにだらしなく餡を貼り付かせ、身体に見合った大きな口で両手の餅に噛みついている。

「だっておいしいんだもん。ミドチンももっと食べなよ」

「お前を見ていると、俺まで満腹になりそうなのだよ…」

いくら好きなものだとしても、度を過ぎればただの毒だ。ものすごい勢いで消費されていく牡丹餅に、俺は今手に持っているぶんだけで十分だと悟る。

「ミドチン、日向ぼっこ気持ちいいねー」

「……そうだな」

なんでもないようなただ晴れた日だが、嫌いではないなと思う。今日は診察の予定もなく、のんびりと過ぎ行く時間も悪くはない。
隣で紫原が指についた餡子を舐めとっていた。風呂敷の上にはまだ三つ残っているが、いくらもしないうちにこいつの腹に収まるに違いない。

「あ、見て見て、鳥だー」

「どこだ?」

「あそこー、って、あらら?……大きすぎる?」

紫原の指先を辿ると、晴れ渡る空の青のなかにひとつの黒い影が見えた。その影はどうやら此方に向かっているらしい。

「………っ!」

「どうしたのだよ、」

「ミドチン、下がって!」

ところが突然紫原が立ち上がり、らしくもない大声で俺を押し退けた。肩を押されて腰を思いきり岩にぶつけたので、何事だと文句を言おうと起き上がると、目の前にはいつになく真剣な気配を纏った座敷童が立ちはだかっていた。俺からは広い背中しか伺えないが、これは明らかに臨戦態勢だ。

「なんなのあいつ…こっち来るなっての」

「落ち着け紫原、一体何なのだよ」

状況が理解できずに尋ねると、長い腕は空の一点を指差した。先程よりも幾らか近づいてきた黒い影に、もしやと思い目を凝らす。

「ミドチン、あれ見える?」

「……もしかして、天狗、か?」

「うん、そう。まっすぐこっちに、てかたぶん俺たちを目指してる」

どんどん近くなる影は、言われるまでもなくこちらを目指していた。既に舘の敷地まで入ってきただろうそれは、ひとのからだに翼を生やした、天狗の姿そのものだった。

「とりあえず落ち着くのだよ、」

「だめ。ミドチンや赤ちんを狙ってる奴かもしんないじゃん」

天狗は俺たちの敵、そういう風潮のなかで俺もこいつも育ってきた。実際に天狗を見たことのある狐が減ってきた今もなお、噂や伝承が一人歩きしながら。だから、紫原のこの反応は当たり前のことだろう。
しかし、天狗の姿を見たときに、もしやと思ったのだ。記憶の隅に刻まれた、昨日の口約束。

(あいつは、絶対また会おうと言っていた)

笑顔がくすぐったい、あの天狗に似ているような。だんだんはっきりしてきた天狗の姿に、予想は確信に変わる。

「撃ち落とすよ」

「やめろ紫原っ!」

……遅かった。俺が叫ぶ一瞬前に紫原がその長い腕を勢いよく目の前に突きだすと、辺りの木々が不自然にざわめきだす。
この男が術を使ったのだ。揺れ落ちた木の葉は幾つかが集まって塊となり、鋭さを増して一斉に天狗に襲いかかる。

「……っ高尾!」

俺の見間違えでない限り、あの天狗は高尾だ。風になびく黒髪に、鷹のような翼。昨日見た姿に酷似しているのだ。
そして、口約束のこともある。通りすがりの天狗が俺たちを襲うよりも、あいつが俺を訪ねてくる可能性の方が高い。

「うわっ!?」

高度を落とした天狗に、飛び掛かる木の葉は容易に到達した。天狗のものだろう、切羽詰まった声がする。
天狗は高い運動能力を生かして懸命に避けようとするが、数が数だった。そしてとうとう塊の一つが右の翼を掠り、体制を崩し地面へと落ちていった。




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