ぱち、と駒が進む音が静かな部屋に響く。将棋盤を挟み向き合った赤司は、満足そうに顔を上げた。

「僕の勝ちだな」

詰んだ。赤司とは昔からよく将棋を指しているが、未だに俺が勝てたことはない。時々なぜ嫌にならないのだろうと疑問に思うほど。

「……投了なのだよ」

もうすっかり夜は更けて、そろそろ寝る時間だからこれで今日の対局はおしまいだろう。駒を入れ物に戻し、盤ごと壁際に寄せる。
風呂から上がった後夕食を済ませ部屋に戻ると、既に赤司は部屋の中央の座布団に腰かけていた。昼間断ったから今将棋をしにきたのだろう、と思ったら見事に当たったわけで。
傍らには紫原も座り、人の部屋だというのにぽりぽりとお菓子を食べていた。あんこの香りがしたので、あれは最中だったと思う。

「そういえば、敦はもう寝てしまったね」

脇を見ると紫原が壁にもたれてすうすう寝息を立てている。でかい図体だが、やはり童とあるだけあってそこは子どもらしい。

「まったく、人の部屋によだれを垂らさないでほしいのだが」

「ふふ、こうなったらなかなか起きないからね」

元はといえば将棋に熱中していた自分達の責任でもあるのだが。つい悪態が口をつくのは生まれ持った性かもしれない。

「敦がこの様子だし、僕も今日はここに泊まろうかな」

赤司は立ち上がると、押し入れの中から掛け布団を一枚取り出し紫原の上にそっと掛けた。お前は紫原の保護者か、と言いたかったがあながち間違いでもなさそうなのでやめておく。

「それは構わないが……」

「なら僕の分も布団を借りるよ。どうせお前はもう寝るんだろう?」

枕を一つ、投げて寄越される。手早く布団を引っ張り出した赤司は、慣れた手つきでそれを二つ床に並べた。もともと患者を泊めることもあるので、布団の数に困ることはない。
紫原を移動させるのは大きさに無理があるので、掛け布団だけで妥協したらしい。どうせ朝にはどちらかの布団に潜り込んでいるだろうが。

「悪いな」

「いいよこのくらい。ほら、明かりを消そうか」

ふ、と燭台に赤司の吐息がかかると、部屋の中が一気に暗くなる。開け放した窓の簾越しに吹き込む夜風は、まだ少し冷たかった。
黙ってしまった室内には、外の自然が生み出す音が満ちている。庭の池の河鹿の鳴き声や、風に吹かれた木々がざわめく音。館の付近の警護にあたったご苦労な者の足音も時折通り過ぎて行く。
そのとき、不意に何か羽ばたくような音がした。ああそうか、たしか軒下に燕が巣を作っていたな。二、三羽くらいだろうか、飛び立つ音がした。

(そういえば、高尾は無事に帰れたのだろうか)

あの場所から山頂まではそう離れてはいないはずだから、恐らく大丈夫だとは思うが。
いや、俺は何を考えているのだ。天狗の一人や二人、そこまで気にかける必要はないというのに。

(ああ、でもあいつは、なぜ)

ここまで考えて、脳裏に描いた天狗にふと疑問がよぎった。

「真太郎?どうかしたのか」

息をのむ俺に赤司が訝しげに問いかける。暗闇な上に眼鏡を既に外してしまっていたので、その表情は伺えなかった。
ああ、博識な赤司なら、なにかわかるかもしれない。

「……赤司、一つ尋ねていいか?」

「何だい?」

「今日会った天狗…高尾と言うのだが、羽を傷めて空から落ちたと言っていた」

高尾に怪我の原因を尋ねたとき、あいつは頭をかきながら答えていた。 たしかに、翼に何かあった以外で天狗が空から落ちるなど有り得ない。

「へえ、珍しいね」

「ああ。しかし、その原因が引っ掛かってな。地上から飛んできた炎に襲われたというのだよ」

話を聞いていたときから考えていたのだが、やはりそのようなことのできる妖怪に心当たりはなかった。炎の術の使える者、火矢を扱える者、色々候補を挙げてみたけれど、どれも天狗の飛ぶ高さまで届かせることは至難の技だ。
妖怪がいきなり襲いかかってくることはよくあるが、このように得体の知れない能力をもつ輩があのあたりにいるとしたら、少なからず警戒しなければいけない。もっとも、この目で見たわけではないし、天狗の方もあまりよく覚えていなかったようなので、何か行動をおこすわけにもいかないのだが。
ふむ、と考え込んでいるような声を漏らした赤司は、それでも、ああ、と何か閃いたように声を上げた。

「それは影法師の仕業かもしれないね」

「影法師?」

「真太郎も一度くらい聞いたことはあるだろう。伝承にもよく出てくる妖怪だ」

「あれが?今でもいるのか」

影法師のことは、里に伝わる昔話で何度か聞いたことがある。記憶にあるのはほとんど子ども向けのものだったので、ただ「怖い」妖怪だ、ということくらいしかわからないが。

「ああ。昔よりは大分数を減らしたと思うけれど」

「しかしそれがなぜ」

「影法師はね、妖怪を食べるんだ。彼らは実態を持たない。そのかわり、妖怪を襲ってその身体を乗っ取るんだよ」

乗っ取る。そういえば、たしかそんな話もあった気がする。森に迷いこんだ狐の子供が、異形の姿に変わり果てて戻ってくる話。子供心にも、あれは怖かった。

「彼らは限界を知らないから。宿主の能力を超える術を使える。代わりに寄生した妖怪自体を殺してしまうんだけどね」

「では、高尾は影法師の乗り移った妖怪に襲われたと」

「そういうことだ。あくまで僕の予測でしかないけれど」

赤司の推測はよく当たるから、おそらくそれが正解だろう。たしかに、妖怪は自身の限界に応じた術しか使わない。身を滅ぼしてしまうためだ。
その限界を超えたことが影法師にできるとしたのなら、高尾を狙い打ったのは奴等に他ならない。そんなに危険な妖怪があの辺りを彷徨いていたのか。

「そうか。さすがだな赤司」

「しかし珍しいな。里の付近に影法師が近付くことは滅多にないから大丈夫だとは思うけれど、一応警戒しておこうか。もし外出中に黒い影を見付けたら、近寄らないですぐに離れろ」

「わかっているのだよ。滅多に出ることはないのだろう?」

赤司曰く大変珍しい妖怪らしいし、高尾は運がなかったのだろう。気の毒だが、あの場で俺が居合わせただけでも不幸中の幸いのはずだ。
しかし、今度森に行く時は警戒を怠らないようにしよう。高尾を襲った輩がもしかしたらまだ生きて彷徨いているかもしれないし、万が一見つかったりしたら面倒だ。

「感謝するのだよ赤司。これで心置きなく眠れる」

「それはよかった。じゃあ、おやすみ真太郎」

赤司が隣の布団のなかで身動ぐのが微かに伝わってくる。真っ暗な部屋に静かに広がる三人分の吐息に混じり、窓の外から巣に戻る燕の羽音が聞こえた。



◆◆◆◆


報告を終えて長屋に戻ると、縁側でなにやら真剣な様子で話し込む日向さんと伊月さんが目に入った。俺の方はなんてことない、いつもどおりの仕事だったのだが、日向さんは次期頭領だからなにか重要な用事で村から出ていたのかもしれない。

「あ、高尾いいところに来た」

「お前も聞け。お前にも関係してるからな」

二人が同時に手招きする。何だろう。とりあえず近づいて行くと俺も座るように促された。

「なんすか?」

日向さんの隣に座り、二人の方を向いたまま尋ねた。両足はだらしなくぶらぶら縁側の下で揺れている。

「お前は偵察の帰りに炎に襲われた、ってことでいいんだよな?」

「はい。いきなりでびびったんすよー!」

身ぶり手ぶりでぐわっと炎が飛んでくる様子を再現しようとする。あれは本当に肝が冷えた。いや、実際は恐怖を感じる間もなくやられたのかもしれない。ここらへんの記憶は曖昧だ。

「実はな、俺も今日は雪の村の近くを通ったんだ」

「えっ!大丈夫でしたか?」

「ああ、俺には何もなかったんだがな。途中で、焼け焦げた狐の遺体を見つけたんだ」

遠くを眺めながら、日向さんが苦々しく吐き出すように呟いた。

「本当に、無惨な姿だったよ。服装や毛並みからして年老いた旅の狐だったんだが、丸焦げでぎりぎり顔が判るくらいでな」

年老いた旅の狐、と聞いて不謹慎だがひと安心してしまう。
あの辺りで狐と言えば、今日出会った緑の狐を真っ先に思い浮かべてしまったからだ。

「そいつも俺を襲った奴にやられたんですかね」

「恐らくな。生憎犯人の姿は見えなかったが」

「おい、見えても近付くなよ日向」

見つけたら自分が退治してやると言わんばかりの日向さんに、伊月さんが冷静に突っ込む。日向さんは不服そうだったが、森に慣れた狐を丸焦げにするような奴に天狗が挑んだところで無謀だろう。地上での戦闘には向いていないのだ。

「で、その狐はどうしたんですか?」

「埋めてきた。どのみち、あんな山奥に放置しておいたら獣の餌になるからな。かといって村に連れ帰ったら、年寄り連中になに言われるかわかんねえし」

「じいさんばあさんは狐大嫌いだもんなあ」

森の中に一人埋められるというのは少し可哀想な気もするが、相手が狐ということならこれが最善だろう。狐の里に狐の遺体を抱えた天狗がいきなり押し掛けたりしたら、犯人扱いされる危険もあるし。

「でな、高尾。お前に頼みがあるんだが」

日向さんが突然此方を向き、がしりと俺の肩を掴んだ。なかなかの握力である。うん、逃げらんないねこれは。

「な、なんすか急に」

「伊月の聞いた話によると、お前は狐の友達がいるらしいな」

多少身動ぎ恐る恐る問いかけると、眼鏡をぎらぎら反射させた日向さんが口を開く。

「はあ、友達というか」

「んなこたあどうでもいい。要は、知り合いができたんだろ?」

「あ、はい、」

肩を掴む腕に力がこもるのを感じた。いいかげん痛いんですけど、なんとかなんないのこれ。
狐の知り合いというのは紛れもなく真ちゃんのことだろう。伊月さんの方を見ると、あーあ、と肩を竦めて完全に傍観の立場をとるつもりらしい。

「ならこれ、届けろ」

目の前にじゃらりとなにかが突きだされる。一瞬怯んだ後によく見ると、動物の皮と天然石を編み込んだ御守りのような首飾りだった。

「なんすかこれ」

「遺留品だ。死んだ狐のな」

体は無理だったがせめてこれだけは故郷に還してやれ、と掌にそれを落とされ、慌てて受け止める。

「え、何で俺が」

「いいからやれ。俺は正直狐はよくわからんし苦手なんだよ」

「ま、高尾がその真ちゃんとやらに届けるのが一番安全だろう。その後然るべき場所に届けてもらえばいい」

両手で包むように、首飾りを握り締める。じゃり、と石の擦れる音がした。

「日向も最後まで自分でやればかっこつくのにな」

「うるせえよ」

二人の騒ぐ声がするが、うまく頭には入ってこなかった。
あれ、これで真ちゃんに自分から会いに行く口実出来たじゃん。
心の中で密かに拳を握る。今度こそ、さっき出来なかったお礼をしよう。そして、いっぱい話しをしよう。
なんだか、明日が急に待ち遠しくなった。




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