山頂の木々に隠れるようにしてそびえる天狗の村に降り立つ。村には荘厳な屋敷などはなく、簡素な木造の小屋が数十件と同じく簡素な長屋が数件立ち並んでいる。村だ村だとみんな言うけれど、俺は集落に近い所だと思う。

「ただいまでっす!」

「高尾、ってうわ!?なんだその格好」

その中では比較的大きな、寺院のような家の門をくぐる。頭領の家だ。
そのときたまたま庭先に出ていたらしい、本を抱えた一羽の天狗が俺を見つけびくりと声を上げた。
艶やかな黒髪に切れ長の瞳。天狗の正装である山伏の衣装を身に纏った彼は、静かな顔立ちを驚きに歪めている。

「それが聞いてくださいよ伊月さん!なんかいろいろあって落ちちゃったんすよね」

けらけら笑いながら彼のもとに駆け寄る。俺に巻かれた大量の包帯を気にしているようだが、その下の傷はもう痛むことはないので心配は無用だ。

「は!?落ちたって、空からか!?」

「もー、それ以外にどこがあるって言うんですか!」

両手に抱えたいくつもの書物を取り落としそうになりながら、伊月さんはらしくもなく取り乱した。そんなに驚くことだろうか。
まあ、天狗が墜落するなんて滅多にないことではあるのだけれど。

「いや、そうだけどさ……ていうかお前、なんでそんなに嬉しそうなんだ」

俺の様子をまじまじと窺っていた彼は、ようやく落ち着いたらしく静かに口を開いた。涼しい瞳を細め、不可解そうに首を傾げている。
嬉しそう、って、そんなに態度に出ていただろうか。確かに今日は散々な目に会った。けれどそのおかげで、俺は面白い奴と出会ったのだ。

「俺、狐に助けられたんすよ」

伊月さんが再び驚いた顔をする。しかし今度はすぐに落ち着いた様子を取り戻し、俺に続きを促した。

「狐って言うからには里の狐にか」

「はい」

誰かもわからないものにいきなり攻撃を受けたことには戸惑っているし怒りもあるが、そんなことよりも今俺の頭を占めるのは先刻まで共にいた緑色の狐だ。
見ず知らずの俺を介抱してくれた、薬師を名乗る狐。

「そうなんです。しかもすげえ綺麗な狐だったんですよ」

鮮明に記憶しているのは、真剣に俺の傷を見つめる長い睫毛に縁取られた翡翠の瞳と、傷口をなぞるしなやかな白い指。あいつはどう見ても雄だったけれど、どういうわけか、綺麗だなってぼんやりとその仕草を眺めていた。
口はあんまり良くなかったけど、なんだかんだで優しかったし。あ、あと口調も変だったな。なのだよとか語尾についてた。
とにかく全部ひっくるめて、面白い奴だったと思う。

「そうか……まあよかった。珍しい狐もいるんだな」

「そっすよね!あーあ、真ちゃんまた会えっかなあ」

今度はお礼をしに個人的に狐の里に赴いてみようか。天狗は嫌われてるけど一応往来は自由なわけだし。真ちゃんの住み処を聞くのは忘れていたけれど、薬師は珍しいから探せばすぐに見つかるだろう。
あだ名をつけるなんて随分と気に入ったんだな、と伊月さんに言われて、はいと返事をする。真ちゃん、なんて我ながら安直なあだ名だとは思うけれど、なんとなくその呼び名も気に入った。本人に微妙な顔をされたことは、伊月さんには言わないでおこう。
そのまま真ちゃんについてなかば一方的に話していること数分間。不意に上空から何者かの羽音が近づいてきた。

「お前らなに軒先でさぼってんだ」

「あっ日向さん!おかえりなさい」

「日向。早かったな」

俺達の間に立つように降り立ったのは、短い髪とこの辺りでは珍しい眼鏡が特長的な天狗。天狗の次期頭領であり、俺の先輩の一人だ。
そういえば真ちゃんも分厚い眼鏡をしていた。なんて、今はどうでもいいか。

「はやく中入れ、ってうお!?んだ高尾その格好」

「これっすか?まあいろいろあったんですよね」

「あはは、日向俺と同じ反応だな」

俺の姿の違和感に気づいた日向さんはひくっと大袈裟に反応を見せた。伊月さんと俺が揃ってその様子に吹き出すと、いろいろってなんなんだよ説明しろダァホ!と噛みつかれる。

「まあまあ、そのことは俺が話すよ。それより高尾、何か用があって来たんじゃないのか?」

「あっいけね!頭領に頼まれて雪の村の偵察に行ってたんすよ」

伊月さんに言われてようやく思い出す。そうだった、今日は偵察に行っていたのだ。早く報告に行かないと怒られてしまうかもしれない。

「ならはやく行け。日向、これから地下倉庫にこれ置きに行くんだ。説明してやるから手伝ってくれるよな?」

「っと、ああ」

ちゃっかり日向さんに荷物の半分を渡した伊月さんは、夕飯までには帰ってこいよと残して去っていった。
俺と伊月さん、そして日向さんは同じ長屋に暮らしている。妖怪には家族の概念がほとんど無くて、物心ついた頃には自立してそれぞれが好きに生きていくのだ。
腕を振り二人を見送っていると、ふとそこに巻き付いた白い包帯が目に入る。

(すげーきっちり巻かれてんな…)

すぐに報告にいかなくては、けれど頭に浮かんだのはあの狐の姿。森に溶け込むような色の毛並みが綺麗だった。
真剣な目が俺を映し、繊細な指使いで肌をなぞる様が思い出されて、

(あれ、俺なに考えてんだ)

一瞬浮かんだ変な気持ちを払おうと慌てて首を振るが、誰も見ていないのではかえって不審だったことに気づく。てかなんで俺慌ててんだよ。変な気持ちってなんだ。
自分でもよくわからなくなってきたので、とりあえず頭領の元へ報告に向かうことにした。


◆◆◆◆



「真太郎、随分と遅かったじゃないか」

「赤司。すまない、」

「でもちょうどよかった。風呂が炊けたところだから、真太郎も来るといい」

館に帰ると、偶然廊下を歩いていた赤司と鉢合わせた。手には手拭いと寝巻き用の着物を抱えている。
里までは難なく帰りつくことができたのだが、さすがに距離があったため遅くなり日はもう完全に沈んでしまっていた。夕食はまだだったが、少々泥のついてしまった身体を清めてからでもいいだろう。

「わかった。荷物を置いたらすぐに行くのだよ」

赤司に会釈して一旦部屋に向かう。一度意識し出すと、思っていた以上に自分が泥だらけだったことに気づいた。






館の風呂は広い。常にいる狐だけでも二、三十人を越え、来客などの宿泊も多いから当然なのだが、大浴場と呼べるほどのものだった。
大人が五六人一度に入れるような檜の湯船が二つ、温度別に洗い場の奥に配置され、竹垣となった片側からは中庭を一望できる。石造りの置物や点在する竹の隙間から、月が昇った空が見えた。

「真太郎、天狗と会ったんだね?」

疲れもあり湯船のなかからぼうっと外を眺めていると、突然隣に座った赤司に話しかけられびくりと肩が跳ねる。天狗のこと、高尾のことは俺の口からは一度も話していないのに、なぜ。
悪いことをしたとは思わないが、赤司の言いつけを破った気がして、言い出せずにいたのだ。すると赤司は真太郎は嘘がつけないね、と笑った。お前の前では誰も嘘などつけないと思うが。俺は目が良くないので湯気のなかではよく見えないが、きっと双方で色の違う目は弧を描いているのだろう。

「……なぜわかった」

「匂い、かな。すれ違ったときに、微かに天狗の匂いがした」

赤司は自身の鼻を指差す。鼻も利くことは知っていたが、やはりこいつにはなんでもお見通しのようだ。

「さすがだな。安心しろ、特になにかあったわけでもない」

「それなりに匂いが移ってたけど?」

「怪我をした天狗の手当てをしていたのだよ。闘ったりはしていない」

それは安心だ、けれどそういうことじゃないんだけどね、と困ったように赤司が此方を向く。

「害がなかったのなら別に構わないが、手当て、か。優しくして、天狗に惚れられたりしていないか?」

「惚れっ!?何を言い出すのだよ赤司」

思わず湯船に沈みそうになった。惚れる、誰が、誰に。

「そのままの意味だけど」

赤司の手がぽちゃんと音を立てて湯船から出てきて、そのまま俺の耳と髪を鋤いた。予期せぬ刺激にぴく、と耳が自然に反応してしまう。なんなんだこいつは。

「その天狗は男だろう?」

「あ、ああ…」

「お前は綺麗だからね。お前に優しくされたら、そこらの妖怪ならうっかり好意を抱いてしまうかもしれない。たとえ天狗でも」

髪を撫でたままくすくすと笑う赤司に、からかわれているのだと思った。綺麗?俺がか?顔の造形を褒められることはあるが、それは赤司やあの紫原ですら同じなのだ。基準がわからない。狐は見目麗しい、とはよく言うが、それは身のこなしも磨かれて人間の男を騙すことを生業とした雌の狐が多いからだろう。
おまけに俺はあの時地べたに座り込んで薬草を摘み、泥にまみれながら手当てをしたのだ。薬師としてはよくある光景だが、他の種族の想像する狐の「美しい」姿とはかけ離れている。

「というか、俺も男だろう」

「はあ……真太郎、わかってないな」

深く溜め息を吐かれた。わけがわからないのだが。
確かに人間と比べたら、妖怪たちは性に拘りは少ないと思う。雪の一族などの一部を除き、雄の方が圧倒的に多いからだ。
しかし子孫を残すにはやはり異性でまぐわる必要があるし、第一俺はまだ色恋には興味がない。

「生憎だが、赤司が思っているようなことは起こらないのだよ」

充分暖まったし、夕飯もまだなのでと湯船から立ち上がる。高尾は悪い奴ではなさそうだったが、あの好意はそういうものではないだろう。まさか俺に、などあり得ない。

「先に失礼する。また後でな」

赤司は再び呆れたように溜め息を吐いたが、やはり俺には理解できなかった。



◆◆◆◆




「伊月、その話で少し気になることがあるんだが」

地下倉庫の片付けをしながら先程の高尾の話をしていると、今まで黙って聞いていた日向が遠慮がちに口を開いた。なんだ、と振り返った俺の目に映ったのは、今までよりずっと真剣な顔。

「高尾が落ちたってのは、どこらへんだ?」

「ああ、たしか山の麓の近くだったらしい」

やっぱり、と日向が片手で頭を抱える。 俺はわけがわからずにただその様子を窺っていると、しばらくして顔を上げた日向が常より低い声で呟いた。

「麓の近く……北の森で、焼け焦げた狐の遺体が見つかったんだ」




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