天狗の怪我は見た目ほど酷くはなかった。切り傷は幾つか深いものがあったものの骨にとどくようなものはなく、受け身をとれていたようで打撲もほとんどない。さすが、空を飛ぶだけあって運動能力が発達しているのだな、と一人納得する。

「後は脚の傷だけだな。見せてみろ」

「ん」

男が袴の裾をたくしあげ、足袋を脱ぎ捨てるとまたいくつかの傷が顔をだした。 簡素ではあるがそれなりに丈夫な足袋に守られたらしく、殆どが擦り傷のようなものだった。

「いっ…」

「ほら、できたのだよ」

包帯をきつく結び、残りは薬籠に戻す。この様子ならいくらもしないうちに完治するだろう。薬草が十分にあってよかった。
けれども天候はすっかり悪化して、ぽつりぽつりと雨があたってきた。もう夕暮れ時でありなるべく早く帰らないと赤司達に心配をかけることになるのだが、山道はぬかるみ帰るには雨が止むのを待たなければいけない。
頭上の木の葉が遮ろうとしても僅かな隙間からの雨水が肩を濡らし、座り込んだ地面の草も湿り気を含む。少しきついが、ここで雨宿りをする他ないだろう。幸いにも食糧はあるから、一晩くらいなら耐えられる。

「なあ、名前なんて言うの?」

「は?」

無言で傷を確かめていた天狗がふと口を開いた。名前、俺のことか。声のした方を向けば、鋭い瞳が俺を見つめている。

「お前の名前だよ。俺は高尾和成ってんだけど」

高尾。聞き慣れない名前だ。狐の一族にはない名字である。
高尾と名乗った男は、静かに俺を見据えている。俺の答えを待っているのだろう。

「なぜ天狗に教えなければならない」

これ以上の関わりを、はたして赤司が許すだろうか。見知らぬ妖怪、しかも対立している種族の輩にぬけぬけと名を名乗るなど。

「天狗じゃなくて、俺が知りたいの。ほらさ、お前は俺の命の恩人、ってやつだろ?」

ところがこの天狗は、屈託のない笑みで俺に問いかけてきた。確かに俺がこいつを助けたことに変わりはないが、こいつこそ素性のしれない妖怪にこうも易々と気を許していいのだろうか。
いぶかしんでいると、高尾が再び口を開いた。

「こんなに頼んでも、だめ?」

膝を抱えた体制のまま、残念そうに首を傾げる男にぐっと言葉が詰まる。
こいつに敵意がないことは伝わってきた。どうせ雨の止むまではここで二人きり。名前くらいなら、教えてやってもいいかもしれない。

「……緑間真太郎だ」

しぶしぶ名乗ると、高尾はすぐに曇った表情をもとの明るいものに戻した。ころころ表情の変わる奴だ。

「そっか!じゃ、ありがとな真ちゃん!助かったぜ!」

がしり、と高尾の手が俺の腕を捕らえる。あまりの唐突さに驚いてびくっと耳が揺れると、それに気づいた高尾がくつくつ笑いを漏らした。

「なんなのだよお前は!それと変な呼び方をするな!」

「いーじゃん、親しみを込めてんだよ!」

なんだか恥ずかしくなって腕を振り払っても、高尾は笑うのをやめようとしない。天狗にもこのような奴がいるのか、と内心驚いていた。さすがに鵜呑みにしていたわけではないが、天狗は悪戯で冷酷なやつらばかりだと幼い頃から聞かされていたからだ。年輩の狐たちの噂でしかないにしろ、狐を敵視するものとばかり思っていたから。

「しっかしさあ、お前みたいな狐もいるんだな」

「は?」

「狐って言うと、天狗を憎む奴等って聞いてたからさ。だから最初警戒してたんだけど」

高尾は思い付いたように目を細める。天狗にとっても、狐は警戒に値するものだということは容易に想像がつく。種族間の対立などそういうものなのだから。

「それを言うなら、お前こそ意外なのだよ」

「えー、何が?」

「天狗というのはもっと賢そうな印象があったが」

「なにそれひどい!俺だってわりと賢いんだぜ」

「自分で言うか」

やはり変わった奴だ。天狗と関わった経験など皆無に等しいが、それでもこの男は想像とはあまりにもかけ離れていた。

「まあそれは置いといて。ありがとな、真ちゃん」

まだその呼び名で呼ぶか、と怒鳴りつけたくなるが、傷口を包んだ包帯を慈しむように撫でる高尾に不思議と言葉は出なかった。
正直なところ、狐の薬草が天狗にも効くのかは定かではない。しかしこの様子なら、少なからず効き目も出ているだろう。当初の弱りきっていた声と比べ、今はもうすっかり些か煩いような声音になっていた。

「……痛みはどうだ」

「ん、かなりよくなってる」

「そうか。なら、暫く安静を保て。薬の効力がよくなるのだよ」

狐の薬草は、摘んだ者の妖力によりその効果を増す。薬師の地位が高いのもそのせいだ。
俺の薬は天狗にも効果を示したらしく、一先ず安堵する。相手が何であれ、薬師として自身の薬が役立つ以上の喜びはないだろう。この仕事は嫌いではないから、なおのこと。
よく見ると高尾は全身を包帯でぐるぐる巻きにされて随分と情けない姿だったが、治療のためならいたしかたあるまい。

「わかった。優しいね、心配してくれてんの?」

「誰がだ。薬師として当然のことを言っただけなのだよ」

にっ、と明るく笑う高尾につい顔を逸らしてしまう。この男に会ったときから感じていたが、どうも高尾は好意をすぐに表に出す性格らしい。
対する俺は、率直に好意を向けられることに慣れていない上、向けられた好意を素直に受けとることが苦手な質だ。だから、こいつと話していると胸のあたりがむずむずして落ち着かない。

「照れんなって。ほんとに感謝してるんだぜ?見ず知らずの俺にここまでしてくれてさ」

照れてないのだよ、と脇腹を小突くと、高尾はちょっそこ傷口っと情けない悲鳴を上げた。落ち着かないのは、こいつがやたらと馴れ馴れしいことも原因かもしれない。
ここで、ふと頭をある疑問が過った。そういえば、こいつはなぜこんなに怪我をしているのだろう。

「高尾、お前はなぜ空から落ちた?まさか天狗が飛行を誤るなどないだろう」

疑問を投げ掛けると、高尾は拳を顎の下に当てて悩む素振りを見せた。

「んー、何でなんだろ。正直俺もよくわかんないんだよね」

「自分のことだろう」

「そうなんだけどさあ。強いて言うなら、いきなり襲われたってかんじ?」

襲われた、上空を飛んでいたこいつが。あまり想像できなかった。天狗の飛ぶような高さで、天狗に襲いかかることのできるものなど。

「炎が下からいっぱい飛んで来てさ。翼を掠めて俺は真っ逆さまってわけ」

「炎が?狐にも炎の術を使う奴はいるが、お前たちの飛ぶような高さまで届くほど放てる奴など聞いたことがない」

「そうなんだよね。ここからあんまし離れてないとこだと思うから、狐の仕業かもって疑ったんだけど」

まあ無理に決まってるよなー、と高尾は自分の言葉に納得できないらしく首を捻っている。翼の傷は治療するほどのものではなかったからいいにしろ、物騒なこともあるものだ。それに、犯人は皆目検討もつかない。

「残念だが俺にもわからんな」

「だよな。まじなんだったんだろ」

「さあな。それはそうと、見てみろ。雨が止みそうなのだよ」

「あっほんとだ!」

気づけば雨足は殆ど遠退いている。この時期にはよくある通り雨だったようだ。
一時は野宿も覚悟したが、この調子ならすぐに里に帰れるだろう。太陽も顔をちらつかせ始め、道も乾くに違いない。

「あーあ、もうちょっと真ちゃんとお話ししてたかったかも」

「なっ…馬鹿なことを言うな。お前も仲間が心配しているだろう。早く帰るのだよ」

いきなり何を言い出すのだこいつは。先程からやたらと友好的だが、まさかこの短時間で俺に親しみを覚えたというのか。僅かに動揺するが、平然を装い顔を逸らす。
尻と尾についた泥を払い、ゆっくりと立ち上がる。高尾も続いて立ち上がり、翼を払う仕草を見せた。

「よっし、真ちゃんのおかげですっかりよくなった!」

高尾は相変わらずへらへら微笑んでいる。因みに呼び方を改めるつもりはないらしい。もう否定しても無駄な気がしたので諦めた。

「俺が処置したのだから、当然なのだよ」

「ぶはっ真ちゃん意外と自信家だね。そーゆーの俺好きだぜ!」

高尾はついに吹き出すと、笑いすぎたせいで目尻に浮かんだ涙を拭った。
何が可笑しいのかは全くわからないが、やはり向けられる好意はむず痒い。わかったからさっさと行くのだよ、と片手で追い払えば、ようやく収まったらしい高尾が翼を広げた。

「じゃ、俺は行くよ。真ちゃん絶対また会おうな!」

そのまま翼を大きくはためかせると、いとも簡単にその身体は宙を舞った。途中で何度も振り返りながら、大袈裟に手を振る背中が晴れ間の射した空に消える。彼の姿が完全に見えなくなるのを見届けてから、俺は静かに帰路についた。
当初の目的の薬草は減ってしまった。せっかく持たせてもらった羊羮も結局食べられなかった。けれど、気を抜くとすぐに脳裏を先程の天狗の姿がよぎる。
俺に向けられた溌剌とした笑顔。幼い態度に思えたが、紫原のように子供だとは思えない。時折此方を見据えた鋭い視線も、赤司ほどの力強さはないけれど。
真っ直ぐ自分に向けられた好意に、戸惑いを隠せないにしろ悪い気はしなかった。
絶対また会おう、なんて、叶うのかわからない。けれども悪い出会いではなかったな、と、軽くなった薬籠を見てまた心がむず痒くなった。




prev next