その時俺は油断していたのだと思う。背中の翼で大空を舞い、自慢の目で全てを見渡して。慢心していたのかもしれない。
気付かなかったわけじゃなかった。ただ、気付いたときにはもう遅かった。
無数の炎が俺をめがけて下から襲いかかる。視界の端にちらついた明かりに身構えるが、あまりの数に反応が間に合わなかったのだ。
翼を掠めた炎は、身体の自由をあっさりと奪い去る。俺はあっけなく、わけもわからぬまま地面へと落ちていった。



◆◆◆



「真太郎、いるかい?」

部屋の入り口の障子戸に影が映る。返事をする間もなく同時にがらりと開け放たれ、真紅の頭がひょこりと顔を覗かせた。

「赤司か。生憎だが、今から少し出掛けてくるのだよ」

「どこにだい?」

「天狗の山の麓までだ。この時期にしか取れない薬草がある」

手に持った薬籠を見せると、赤司はそうか、とつまらなそうに呟いた。その様子では、大方将棋を差しに来たのだろう。

「第一、赤司も政務はどうしたのだよ」

「僕がさぼるとでも?もうとっくに終わらせたさ」

不敵に微笑むその姿に、思わずため息がこぼれる。高貴だと噂される狐の頂点が、このような様子でいいのだろうか。
赤司は俺達狐の一族の長である。所謂妖怪のなかでも、気高く強力だとされる狐。一見人間のような見た目をしているが、赤司にも俺にも、頭部には髪と同じ色をした尖った耳が、着物の裾からは同じく毛並みの整った尾が流れている。狐である何よりの証だ。
なかでも赤司は群を抜いて強い妖力を持ち、この若さで長老たちにも認められ長の座に就いていた。俺もその実力は認めているし、赤司と将棋をするのも嫌いではないのだが。

「ねー赤ちんミドチン、お菓子ちょうだい?」

「うぐっ…」

「こら敦、真太郎が潰れてしまうよ。それに真太郎はこれから薬師の仕事なんだ」

「薬師ってなーにー?」

「……薬を作る仕事だ。わかったらさっさとどくのだよ!」

いきなり現れてはのしかかってきた紫原を押し退ける。えー、と不満げな声がしたが、今はこいつに構っている暇はない。
赤司と俺が共にいると、必ずと言っていいほどこの座敷童も現れるのだ。この館は身分の高い狐や俺のような薬師や医者が住む、狐の里の中心である。いわば妖力が集中したところだから、座敷童の一人や二人湧いたところで不思議はない。
座敷童は幸福を呼ぶ、というジンクスもありいるだけならいいのだが。この紫原は赤司と俺をどういうわけか慕っており、ことあるごとに甘え菓子をねだる。おまけに童とあるくせに、俺や赤司よりもずっと大きいのだ。

「敦は僕と行こうか。真太郎の邪魔にならないようにね」

「お菓子はー?」

「さっき訪ねてきた猫又が羊羮を持ってきてくれてね。そろそろ冷えただろうから食べようか」

「やったー」

部屋を出ようとする赤司に紫原はのそりとついていく。内心安堵するが、まったく、赤司がこのように甘やかすからこいつはいつまでも子供のようなのだ。

「ああ、そうだ真太郎」

「なんだ」

一度障子の奥に姿を消した赤司が顔だけ再びこちらに見せる。

「くれぐれも、天狗には気を付けて。休戦中とはいえ、僕たちをよく思っていない天狗も多いからね」

思い付いたように言った赤司は、じゃあまた後で、と去っていった。そんなこと言われなくてもわかるのに、赤司は案外心配性なのかもしれない。
天狗の山は俺達の狐の里と隣り合ったところにある険しい山だ。原因は知らなくとも、古くから狐と対立していることはあらゆる歴史書にのっている。
現在は一応休戦をして行き来は自由なものの、お互いをよく思っていないのは明らかだった。天狗は空を飛ぶから、狐の子供が連れ去られるなどといった噂もある。
とはいったものの、どちらにせよ大人の狐には関係ないし、そもそも関わらなければなにもないだろう。
壁にかけてあった羽織を掴み、部屋を後にした。



◆◆◆



(いってえ……)


鬱蒼と茂る木々のなか、地面に叩きつけられた俺は身動きをとることもままならなかった。墜落する途中で身体のあちこちを木の枝に切り裂かれ、破れた服の隙間から覗く傷口からはいまだに赤い血が流れている。
幸いと言っていいのかはわからないが、翼を掠めた炎はすぐに消え、翼の端が僅かに焦げただけだった。しかし、身体がこれでは飛び立ったところで平衡など保てる筈もなく、また墜落してしまうのが関の山だろう。
さて、どうしたものか。というかここがどこなのかもわからないし、いきなり襲いかかってきた炎の正体もわからない。悪戯な妖怪の仕業か、はたまた俺を狙ったのか。後者ならば、再び飛び立つのも危険だ。
ここが天狗の山に近いところだったのなら、歩いてでも帰れるのだが。生憎方向も見当がつかないのでは話にならない。

(とりあえず、空が見えるところに行こう)

太陽さえ見えればなんとかなる。目印のない空を飛ぶ上で方角を知ることは大切だと、俺達天狗は幼い頃から太陽の見方を教えられていたからだ。



◆◆◆



(想像以上に収穫できたのだよ)

籠いっぱいに詰まった薬草に一人満足し、地面に放っていた包みを引き寄せる。出掛け際に走ってきた紫原に渡されたものだ。中には赤司の言っていた羊羮が入っているらしい。
惜しそうに包みを差し出す紫原が思い出されて、静かに笑みがこぼれた。俺も甘味は好物であるし、赤司の話に少し俺にも欲しいと言いたかったのだが、自尊心もあり結局言い出せなかったのだ。
赤司のことだから、俺を気遣ってくれたのだろう。心を読まれたようで気恥ずかしいが、ここは素直に受けとることにした。

(やはり美味しそうだ)

包みを開くと、とたんに甘い香りが広がった。甘い、けれど上品な香り。きっと上質な餡を使っているのだろう。
今吉、と言っただろうか。先程まで館に訪れていたらしい猫又の長の姿を思い出す。胡散臭い奴だとあまり好感は持っていなかったが、なかなかいい土産をくれたものだ。
包みを膝の上に置き、薬草摘みで汚れた手を手拭いで浄める。付属の爪楊枝を鮮やかな小豆色に突き刺し、唾液の滲む口に運ぼうとした、のだが。
その瞬間、がさりと近くの茂みが揺れた。

「あれ、誰かいんの?」

木々の隙間からかすれた男の声がした。しかし声の主の姿は闇に溶け込み、両目を凝らしてもよく見えない。
咄嗟に護身用の短剣を掴み身構える。この辺りは里の外れであり、見知らぬ妖怪といつ出くわしてもおかしくない。大抵の妖怪は無害だが、一部の自我のないものや狐に敵意をもつものは襲いかかってくることもあるのだ。

「お前こそ何者だ。自我があるのなら大人しく姿を見せろ」

もっとも、俺がそこらをうろついてる妖怪に負けることなどあり得ないが。周りが森のため大きな術を使えないにしろ、武器さえあればどうにかなる。
無害な妖怪に越したことはないが、と構えたままで神経を研ぎ澄ませていると、再び声が聞こえてきた。

「わっと。そんなに警戒すんなよ。お前を襲うつもりはねえよ」

ざわざわと木の葉が舞う。空が荒れる予兆だ。
茂みが再びがさりと鳴く。そして引き付けられた視界のなかに、焦げ茶の翼を身に纏った若い男が姿を現した。

「悪い、驚かせるつもりはなかったんだ」

背中にある翼、それは天狗の一族の証。なぜ天狗がここにいる。
しかし、警戒を解かずに男を睨み付けていると、ある違和感に気付く。男の纏う簡素な衣服はぼろぼろに引き裂かれ、あちこちから血が滲んでいた。

「お前、まさか墜落してきたのか」

「えっなんでわかんの」

「その傷口を見れば見当はつく」

長年薬師をやっていれば、傷口を見れば原因など大抵予想できる。こいつは服も切り裂かれている上に傷痕の方向もばらばらだったことから、木の枝に引っ掻けたのだろう。
それに加え、よく見ると翼の端も少し傷んでいることから、飛行に失敗して落ちてきたに違いない。
館を出る前の赤司の言葉を思い出す。天狗には気を付けろ。あいつの勘はよく当たるから、このことを予見していたのかもしれない。
しかしこの天狗は見ての通りとても襲いかかれるような容態ではない。寧ろ、なるべく早く処置をしなければいけないような。

「てかさ、お前狐だよな?てことはここ、狐の里?」

「ああ。外れではあるが」

「うっわまじかよ……こんなとこまで落ちて、つっ……」

天狗はその場にがくりと踞った。無理もない、その傷では立っているのもやっとだろうに。なかなか根性のある奴だ。
天狗が狐に良い印象を持っていないことは知っている。目の前の男のような若い天狗ならば敵意を剥き出すことはないと思うが、男の顔から窺える緊張は俺の警戒とさほど変わらなかった。
正直なところ、赤司の言いつけもあったし天狗と関わり合いになるのは避けたいところではある。けれど、空を見上げれば先程までとうって変わって陰鬱な雲が太陽を隠していた。
このままではやがて雨になる。天狗はあまり動けそうにない。雨水に傷口を打たれれば、流れる血は止まらずにいくらもしないうちに取り返しのつかないことになるだろう。

「見せろ。ここに切り傷によく効く薬草がある」

「うおっ!?」

狐の里で天狗が死んだ、となれば中の悪い天狗にどんな言いがかりをつけられるかわからない。災いは根本から断っておいたほうがいいだろう。俺も一応、里の中ではそれなりに地位のある方だ。
立ち上がらせるために男の胸ぐらをつかむと、情けない声が漏れた。この弱り具合と間抜け面では、害をなすことなどなさそうだ。

「えっいいの?俺天狗なんだけど」

「見ればわかるのだよ。いいから黙ってついてこい」

ここでは治療の途中に雨が降りだしたときにどうしようもない。道中に大木があったはずだから、その下がちょうど良い。
男を立ち上がらせ、薬籠を手に歩きだした。羊羮を再び包んだ風呂敷も忘れずに。




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