黒子の目が覚めない。火神の用意した食事(やたらと美味しかった)をたらふく食べた後、皆思い思いに話したり騒いだりしている中で、黒子だけが寝台のなかで浅い呼吸を繰り返していた。
同じく倒れていたはずの黄瀬はとっくに目を覚まし、あげく先程狩に行くらしい青峰になかば無理矢理連れていかれたのに。
今吉さんは仕事があるとかで自室へ。詳しい話をできるのは夜になるだろう。高尾と降旗はまだ岩屋のあちこちに興味があるようで、少し散歩してくると告げて窓から飛び立って行った。俺も来るよう誘われたのだが、黒子の様子が気になるのでここに残ることにしたのだ。

「緑間、だっけ?こいつどんなかんじなんだ」

「熱はない。恐らく体力が黄瀬と比べて少なかっただけだとは思うが…」

寝そべったままの黒子の前髪を払い、額に触れる。壁に背を預け此方を眺める火神が心配そうにぽつりと漏らした。それきり特に話すこともなく、静かになった部屋には三人ぶんの呼吸だけ。
そういえば火神はここにいていいのだろうか。ただ立っているだけでも退屈だろうに。

「火神」

「なあ緑間、よかったら俺見てるけど。用事あって来たんだろ?今吉さんとこ行けよ」

「しかし、仕事中だと言っていたし、お前は」

「仕事っつってもあの人どうせすぐ終わらせて本読んだりしてるだけだから。それにここ、俺の部屋だしよ」

いつの間にやら近寄ってきていた火神がにいっと笑った。なるほど、そういうことなら今から行っても構わないか。予想外の申し出に一瞬面食らったが、一応こちらの用件も早く伝えられればそれに越したことはないので甘えることにしよう。黒子も急変しそうな様子はないし、目が覚めるのも時間の問題だとは思うのだ。

「ならばすまない、しばらく見ていて欲しいのだよ」

「おう。見てるだけでいいのか?」

「ああ。何かあったら呼んでくれ」

寝台の脇の椅子を火神に明け渡し、机の上へかけてあった上着を掴む。火神は見た目に反していい奴なのかもしれない。
軽く礼を告げて部屋を後にする。岩屋の内部は蒸し暑く、目を覚ましたところで黒子にはきついかもしれないな。
正直、黄瀬だけ目覚め黒子が眠り続けていることに疑問は感じなかった。心配ではあるし、早く起きてくれとも思うのだが。
黒子は昔からあまり丈夫でなかったことを今更ながら思い返す。仲間内では一番体力がなくて、ついでに存在感もなくて。本人は鍛えているのだがやはり体力はどうにもならず、結局いつも一番最初に遊び疲れて眠るのも黒子だった。反対に青峰は色々無駄に有り余っていたのだが。二人を足して二で割れば丁度いいな。

「っ…」

などと考え事をしながら歩いていたら、不意に足元がふらついて壁に軽く肩をぶつけた。僅かな目眩を伴って、けれどすぐに治まったので壁から体を離す。
どうしたのだろう、やはり昼寝はしたものの徹夜はさすがにこたえたのだろうか。こちらに来て早々、簡単なものであれ術を使わされたのだし。
今吉さんに手紙を渡したら、少しの間でも客間を貸してもらうことにするか。こういうときは休んだほうがいい。火神にも感謝しなくては。

(……?)

しかし、この胸に引っ掛かるような、急に沸いてきた妙なわだかまりは何だろう。今日の占いは特にどうということもなかったし、体調だって少し休めばなんてことない程度のものなのに。
考えすぎてはだめだ。きっと馴れない土地に来て、体がついていっていないだけに決まっている。

「失礼します」

「緑間。どないしたん」

「大事なお話があって参りました。お時間よろしいでしょうか」

恐らく一番大きな部屋の、荘厳な石造りの扉を開く。机に向かいなにか書き付けていた今吉さんがその手を止めて、薄く笑いながら顔を上げ頷いた。


◆◆◆


「あ、おみね、っち、どこまで、行くん、スかぁ…」

「だらしねえな黄瀬。あとちょっとだって」

「青峰っちのちょっとって山一つあったりするじゃないっスか!うぅ…」

わけのわからないまま目が覚めて、わけのわからないままやたらおいしいご飯を食べて、わけのわからないまま腕を強引に引かれ連れ出されて。そして、わけのわからないまま岩山を二つ越えてきた。今ここ。
三歩先を歩く(むしろ走る)青峰っちは汗一つ流さず涼しい顔で、もう少し俺のことも考えてほしい。ついていくのがやっとで、現にうっかり怒鳴ってしまったらまた息苦しくなった。曇り空でなかったらどうなっていたのだろう。いっそ踞ってしまいたい。
それに青峰っちは狩りに行くと言って出てきたのに、明らかにこちらは獣はおろか鳥すらいないようなところで。

「何考えてんスかあんた…。それに、俺一応弱ってんスけど、」

「ばーか。弱ってるから連れ出したんだろうが」

「わっ」

勢いよく踵を返した青峰っちは、気がつけば大きな獣の姿になっていて。全身を藍色の豊かな毛に包まれた俺よりでかい猫が牙を剥き出して、その牙を俺の首筋めがけて突き立てようと降り下ろす。慌てて咄嗟に丸くなるが体はいとも簡単に宙へ浮き、ぼすん、とやわらかな体毛の上へ落とされる。なんだ、服にひっかけただけか。一瞬本気でやられるとびびった。

「行くぞ」

「ちょっ、びっくりしたっス…」

前肢を振り上げて地面を蹴った青峰っちはどんどん加速して、振り落とされてしまわないように背中へしがみつく。彼がばかでかくて助かった。というか、最初からこうしてくれていたらよかったのに。日常生活では圧倒的に便利だけれど、わざわざ人の姿で山道を歩く必要なんてないのだから。獣の形態を持たない俺達に失礼だとは思わないのか。思わないか。青峰っちだし。

「てか、弱ってるから連れ出したって、なんなんスか?」

「勘だよ勘。あそこは危ないっつーか」

「は?」

危ない、あの屋敷が?あんなに平和そうだったのに有り得ない。それにここは襲われたりした痕跡の一つもなく、このあたりでは一番安全だろうに。
そうだ、忘れてはいけない。氷室さんの知り合いを探して援軍を頼まなくてはならないのに。もう青峰っちに頼んでもいい気がするけど。
どちらにせよ、こんなことをしている暇はないのだ。助けてもらった恩はあるが、こればかりは譲れない。けれど頭とは裏腹に、彼の勘、というのが引っ掛かる。青峰っちの直感というか野生の勘というかは恐ろしく当たるから、なにか悪いことでも起こるのだろうか。

「火神とか緑間は強えけど、弱い奴を優先するだろ。なにか起きたときお前は足手纏いかもしれねえ。一人くらいなら俺でどうにかなるし、お前をあそこに置いとくよりは連れてきた方がましなんだよ」

「はあ…。いまいちよくわからないんスけど、」

「さっき食べてたとき、すげえ寒気がした。だから何かあったときのために今から援軍呼びにいく」

黙ってろ、と青峰っちが呟いたと同時、彼は思いきり地面を蹴って高く飛び上がった。ごつごつした岩肌を器用に踏み場にし、先程までとは比べ物にならない程の速さで岩山を駆け上っていく。たしかに、黙っていないと舌を噛んでしまう。まだ聞きたいことはあったが大人しく口をつぐむことにした。
彼の背中で風を感じている間、途方もないような、それでいて一瞬のような、不思議な感覚に陥った。ひゅうひゅうと風が鼓膜に響いて、だんだんと強くなる。息苦しさはない。けれど、得体の知れない気配が身体中を駆け巡り、それでもどこかあたたかいそれに抗うことはできず、気付けば目を閉じていた。

「っし、着いたぞ」

「あれ、」

気がつけば、辺り一面色づいていて。つい今までの殺風景な岩肌はどこへやら、山の頂上らしいここには花が咲き乱れ、中心には立派な桜の木が花吹雪を散らしていた。
ここは。以前来たことがあるような、いや確実にある、

「大ちゃん、きーちゃん!」

「ようさつき。三日ぶりだな」

「もう、来るなら連絡してよ!結界解いてもらったんだから」

「桃っち!?嘘、久し振りっスね」

もう何年ぶりになるだろう、やはり幼い頃の顔馴染みの少女が、美しく成長した姿で目の前に佇んでいた。淡い桜色の着物とかんざしに見立てた桜の枝は、彼女が桜の精霊であることの証。こんな状況でないのなら、懐かしい顔ぶれが勢揃いではしゃぎまわっていただろうに。

「でも青峰っち、援軍って」

「なんだ?騒がしいな。てか俺の結界破ったの誰だ?」

まさか桃っち、と尋ねようとしたところで、背後からのんびりとした男の声がして慌てて振り向いた。俺より長身の男が大きな手をひらひらと振って、背中の翼をはためかせている。

「木吉さん。私の友達ですから大丈夫です」

「そっか。青峰もだがお前もやるなあ。あっさり俺の結界を潜り抜けてくるなんて」

「二人に負けてんじゃねえよダァホ。もっと強いの出せるだろ」

そうか、さっきの違和感は結界をくぐっていたからか。と一人感慨に耽っていると、木吉と呼ばれた男の後ろからぞろぞろと天狗の群れが現れた。眼鏡をかけていたり髪がさらさらだったり様々である。眼鏡の天狗が木吉さん(年上に見えるので一応敬称をつけることに決めた)を小突いて、隣で髪の綺麗な天狗がなだめている。

「桃っち、なんで天狗が?」

「リコさん、ああ天狗の女の子なんだけど、とにかく彼女に頼まれたの。天狗の村が今大変なんだって」

天狗の村も大変なことになっているのか。一族みんなで家出となると、相当厳しいのだろう。ここは桃っちの城のようなものだから、たしかに逃げ込むには最適かもしれない。小さな頃何度か遊びにきただけであるが、ここは一年中花が咲いていて、桃っちがずっと守っている場所だ。今思うと、今日来た道もあの頃のままだった。なぜ途中で気づかなかったのだろう。

「お前は雪の村の奴か。このとおり、今天狗は行き場を無くしていてね。小さいのが二人たりないが、この子にお世話になっているんだ」

「そういうこと。そうそう、天狗さんたち強いから安心してね。大ちゃんと迎えに来たんでしょ?」

また見ていないうちに人のかたちへ戻っていた青峰っちが、おうと適当に頷いて天狗の方を見上げる。なるほど、援軍とは彼らのことか。なにかあったときはすごく頼れそうだ。

「悪いけどたぶんあんまし時間ねえんだわ。とりあえず岩屋まできてくれ」

「わかった。だってさ、日向」

「了解。っしお前ら、久々に身体動かすぞ!」

眼鏡の天狗は日向というのか。彼が掛け声を上げた次の瞬間、数十羽の天狗が一斉に飛び立った。

(そうだ)

なにもなければそれでいい。けれどなにかあったとしても、これなら大丈夫かな、とか。青峰っちも不敵に笑っていたし。なんて、根拠にもなんにもならないけれど。
早く戻ってなにもなければ雪の村への援軍を頼んで、何かあったら片付いた後に。とにかく俺は、一刻も早く村へ戻らなければ。




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