「た、ただいまー……」

「……っ、高尾」

まずい。明らかに気まずい雰囲気だ。俺が恐る恐る襖を開けて顔を覗かせた途端、緑色の耳がぴくんと張りつめたのがわかる。
本を読んでいたらしい真ちゃんは、それを机の上に置いて半身俺の方を向いた。けれど決して目が合わない。そりゃあ俺が数刻前にこいつにしたことを省みれば、当然の反応なのだろうが。

「……何かあったのか?」

ところが、いっそ土下座でもしようかしらと膝を折ろうとしたその時。目を逸らしたままの真ちゃんが小さく口を開いた。

「へ?」

「赤司と何を話してきたのだよ」

ああそっか、いきなり連れてかれたわけだもんね俺。真太郎に手を出すなってボロクソ言われてきたんですけどね。まあそれは置いといて(明らかに俺のせいだし)、そういえば猫のところへ向かう話は俺から伝えろと赤司に頼まれてきたのだ。彼が聞いているのも、きっとそちらのことだろう。
ついでによくよく見てみると真ちゃんの頬はうっすらと染まっていて、とりあえず俺を嫌悪しているのではないというかむしろこれ照れてんじゃね?みたいな感じで、こっそりと胸を撫で下ろした。嫌われたらどうしようかと思った。一応謝りはしたのだから、水に流してくれるのか。
にしてもやっぱ真ちゃん可愛い。俺を見て赤くなるとかなんなんだよほんとにもう。綺麗な顔してすげー可愛い。大方さっきのことの整理がついていないだけなんだろうけど、それでも。

「猫のとこに行けだとさ。真ちゃんも一緒に」

「……やはりそうか」

「あれ、真ちゃん知ってたの?」

「いや、この間赤司と話していたのだよ。影法師を潰すのだと」

どうやら俺達の預かり知らないところで、既に話は進められていたようだ。赤司から預かった小箱を懐から取り出して真ちゃんに手渡す。指先が肌に触れたときまたぴくりと耳が動いたが、真ちゃんは何でもないような顔で取り繕うので黙っておくことにした。やばい、絶対今にやついてる。どうせならこのまま俺のこと意識しちゃってよ真ちゃん、なんてな。

「で、今日の夜中に発とうってさ。降旗が」

「わかった。となると、明日の昼には着くことになるか」

夜中に発つのは、万が一敵に遭遇してもほぼ確実に逃げられるからだ。幸い狐の里から猫の岩屋へは拓けた土地が続いていて、物陰から襲われることは滅多にないだろう。俺たちも好きなときに地上に下りられるのでかなり楽だ。ただし念には念を入れて、というのが降旗の主張であり、それには赤司も賛同した。

「あ、あと真ちゃんこれ」

「ん?」

「まんじゅうと干し柿。昼飯まだだろうって、赤司がくれた」

小脇に抱えていた風呂敷の結び目をほどく。球状の白い塊が姿を現して、ほんのりと甘い香りが鼻腔をくすぐった。昼飯というには微妙な気もするが、もう屋敷の食堂は閉まっているだろうし何か作るのも面倒なのでこれでいいや。せっかく赤司がくれたのだから、ありがたくいただくことにする。真ちゃんも甘味が好きなようだし。

「天気もいいし、どうせなら中庭で食べようぜ。」

どうせ出発は夜中なのだ。急いで準備するようなこともないし、しばらくのんびりしてもいいだろう。食べたらそのまま少し昼寝をしてもいい。そうだ、そうしよう。一晩飛び続けることになるのだから、体力の温存だ。
真ちゃんは案の定まんじゅうに喉を鳴らして、外へ出ようと先導する俺に大人しく着いてきた。あたたかな陽射しのなかでこいつと寝転がって、ああなんて幸せだろう!こんな事態のさなかに不謹慎ではあるけれど、それとこれとは話は別だ。あまり天狗の皆の心配をしていないのは、あの人たちなら大丈夫だと信じているからなのだし。

「どこに座る?」

「槐の木の下はどうだ。陽当たりもいいし、風も気持ちよく来るのだよ」

「よし決定!で、食ったら昼寝しよ。真ちゃんもう今日の仕事は終わらせたでしょ?」

当然なのだよ、と眼鏡を押し上げた彼の胸に揺れる瑪瑙は、きらりと陽光を反射して輝いた。二人そろって中庭の奥まで歩を進め、中央あたりの大きな木の元を目指してゆく。さすがと言うべきか、中庭といえども相当広いここには種々の植物が根を張ってなかなかに面白い。竹垣に区切られた露天風呂だとか、例の真ちゃんの畑だとかもあるのだ。
そんななかで一際目立つ、少し丘のようになった所に槐の木はそびえていた。木陰に辿り着いて、並んで草の上に横たわる。やわらかな草の香りは睡魔を誘い、食べる前にねちゃってもいいななんて思ったりもした。まあ結局腹の虫が我慢してくれるはずもなく、すぐに風呂敷へ手を伸ばすはめになったのだけれど。


◆◆◆◆


梵天の房のついた結袈裟を胸にかけ、小振りの頭巾を頭に括れば天狗の正装の完成だ。風呂上がりに着ていた寝巻きから装いを改めて、真夜中の空へと向かう準備を整える。

「おーい降旗、準備できたか?」

「声が大きいのだよ。今は夜中だ馬鹿め」

窓の外にはただただ黒い世界が広がっていて、慣れたものだけれどやはり不気味さは拭えない。百鬼夜行と言うように妖怪なら夜を好むべきなのかもしれないが、俺はどうしても昼の方が好きだ。
一先ず高尾たちと合流しようと部屋を出たところで、廊下の奥から聞き慣れた声が響いてくる。溌剌としたそれは、夜中にしては随分と元気がいいように思えた。

「お待たせ」

早足で突き当たりの角を曲がると、予想通りに高尾と背の高い狐の青年が目の前に佇んでいた。高尾は俺と同じ格好を、狐、緑間君は白い着物に羽織を掛けて、二の腕には掌に収まるくらいの鈴が鈍く光っている。恐らく星占いがどうのってやつだろう。高尾から聞いた緑間君情報その六。緑間君は毎日占星術の結果に従い行動しているらしい。ちなみに緑間君情報は今のところ全二十三件聞かされている。正直かなりどうでもいい。

「準備はいいか?」

「うん、ばっちり!」

俺の返答に緑間君が頷くと、それじゃあ、とすかさず一歩前に踏み出した高尾がにやりと笑う。

「出発しますか!」

俺達も頷いて、廊下の縁から勢いよく外に飛び降りる。高尾は早口で詠唱を済ませ緑間君の腰に腕を回した。上向きの風が一気に吹き荒れて、庭の木々の木の葉を散らしてゆく。
気候は良好、たっぷり昼寝をしたから体調も万全だ。久々に飛んだ空は気持ちがよくて、つい気分の高揚が先走ってしまう。

「緑間君、つらくない?」

「ああ。悪くないのだよ」

ふと隣に目を遣ると、高尾の肩に腕を絡めてすがりつく緑間君が見えた。ついでににやけきった高尾の面も。すごく幸せそうだ。
狐が飛ぶことなんて滅多にないだろうから少し心配になったのだが、緑間君は平気らしい。そうか、前も高尾が真ちゃん抱えて飛んだんだぜとか自慢げに話していた気がする。別に初めてではないのか。

「……よかった、」

ああ、これならかなり早いうちに到着できるかもしれない。でもそうしたら、高尾にあのことを話さないと。
思い返して、高まった気分に少しだけ影が射したことは二人には黙っておこう。


◆◆◆◆


「赤ちん、まだ起きてるー?」

「敦。珍しいな、こんな時間に」

何の予兆もなくいきなり襖が開いたかと思ったら。僅かに身を屈めて部屋を覗きこむ敦は僕を見つけて嬉しそうに笑った。

「眠れなくってさ。あ、そういやミドチンたちもう行ったっぽいね」

「ああ、さっき出立すると報告があったからね」

「ところで赤ちん、なにしてんの?」

蝋燭の灯りを頼りに文机に向かう僕に違和感を覚えたのか、敦は隣に座ると身を乗り出して卓上の紙を見つめている。書きかけの手紙の上で乾き始めた墨からは独特の香りがして、甘いような苦いようなそれは嫌いじゃない。

「氷室さま、へ…ってこれ、室ちんに?」

「そうだ。彼だけじゃないさ、他にもほら」

机の引き出しを引くと、先程したためた手紙の束が顔を出した。これで最後だと居直り再び筆を握る。数分もしないうちに書き終わり一息ついたところで、敦がへえと新しいおもちゃでも見つけたような様子で手紙のいくつかを手に取った。

「みんなお菓子もってきてくれるかなー」

「こら、そんな場合ではないだろう」

「そうだけど、そうだったら嬉しいじゃん」

まあ、敦くらい気楽なのが一人くらいいたっていいのかもしれないけれど。仕方がないな、と自然と笑みが零れて、僕も敦のことを言っていられない。
開け放したままの窓から吹き込む夜風はちょうど良い具合に柔らかなもので、立ち上がり窓辺に佇む。後ろについてきた敦から手紙を受け取り、窓の縁へ整然と並べた。

「始めるぞ」

「わかったー」

敦が一歩身を引いたのを耳で確かめて、ゆるやかに目を閉じる。いまだ冷たい夜の空気を啄むように薄く唇を動かし、掌を手紙の上へかざす。
がさり、と微かな音がした。瞼を上げると、ちょうど術がかかりきったところだったらしい。手紙たちはまるで生きているかのように蠢いて、星の瞬く夜空へ飛び立っていった。

「ちゃんと届くかな」

「僕を疑うのか?」

「赤ちんなら大丈夫か。……始まるんだね」

「ああ」

これで、じきに多くの妖がこの里に集結するだろう。事情を知らないだろう猫の所へはさすがに真太郎を行かせたが、他はこれで十分だ。

「敦も準備をしっかりな」

「うん。赤ちんもね」

合戦の舞台はもうすぐ整う。月のない夜空を見上げ、静かに口角が上がるのを感じた。




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