高尾の様子がおかしかった、気がする。 高尾が赤司に連れていかれて部屋に一人取り残された俺は、わけがわからないままぽかんと床に座りこんでいた。 いきなりあんなことをされるとは思わなかった。それに、普段の自分ならもっと強引にでも引き剥がすことができたはずなのに。 色々な思いがぐちゃぐちゃになって、何も考えられない。こんな気分になるのは初めてだ。ただわかるのは、嫌ではなかったということ。そして、頬に集まった血液がいつまでたっても熱を持っていることだ。 「あいつは、何を考えているのだよ…」 胸がやわく絞められるような感覚がした。高尾が戻ってきたら、一体どうしたらいいのだろう。 ◆◆◆◆ 上品な装飾の施された襖は音もなく開け放たれた。赤司君にしばらく待てと言われて、半刻程だろうか。格子窓の外に見える太陽は既に真上に昇ろうとしていて、そろそろお腹がすいてきたなあとぼんやり考えていた。 「お待たせ降旗君」 「赤司君。お帰り、って高尾!?」 「よ、よお……」 赤司君に首根っこを掴まれて、ひどく疲れた表情の高尾はよろよろと右手を上げ会釈した。身体的におかしなところは見当たらないが、明らかに憔悴しきっている。一体なにがあったのだろう。赤司君の目が笑っていない笑顔に、ああこいつなにかやらかしたなということだけはわかる。 どさりと畳の上に投げ出され、けほっと小さく咳き込んだ高尾はよろよろ立ち上がると俺の隣に腰を下ろした。どうしたの、と小声で尋ねると色々あったんだよと目を剃らされる。 「僕の身内に手を出したら、誰だろうと無事では済まさないよ」 涼しげな、けれど鋭く低い声で赤司君が囁いた。背筋にぞくりと悪寒が走る。もしこの部屋に天井がなかったら、思わず飛び立ち逃げ出していただろう。高尾は放っておいて。 とりあえず、大体のなりゆきはわかった。つまり高尾は手ぇ出したのね。赤司君の身内、恐らく緑間君に。 「……高尾、何があったんだよ」 「自分でもよくわかんねえ」 あ、でも真ちゃん可愛かったよ、とにやにや報告する高尾にどこから取り出したのか枝切り鋏が飛んできて、勢いよく壁に突き刺さった。二人して恐る恐る顔を上げると、にっこりと微笑む赤司君の姿。 しかしどういうことだろう、全く笑っているふうに思えない。紅の耳はぴんと上を向いて、明らかに敵意を剥き出しにしているようだ。 「まだ懲りてないのかな?」 「いっ、いや、んなことないって!さすがにあれは早計すぎたっつーかなんというか!」 重たい鋏を壁から引き抜いて、胸の前で掲げた赤司君が頬に冷や汗を伝わせた高尾に一歩歩み寄る。威圧感が尋常じゃない。よっぽど緑間君が大事なのか、それとも高尾が相当のことをやらかしたのか。想像してもらちが明かないので、徐々に壁際へ追い詰められていく高尾を横目で眺めた。 「僕としては君を真太郎の友人として招き入れたつもりなんだけどね…?」 「友達!真ちゃんとは友達だから!」 高尾は両手を顔の前で必死に振って、どうにか言い逃れようとしているらしい。お前さっき真ちゃん可愛かったとか言ってただろう。白々しい。 「赤司君、高尾死にそうだから見逃してやってくれない……?」 どんな醜態を晒していようとも、彼は一応は同郷の仲間なわけで。さすがに助けを求める視線を無視するのはいけないかなと思い、やんわりと間に割って入る。俺もびくびくしてひきつった声しか出せなかったけれど。 「……もし真太郎に惚れたのなら、それは構わない。けれどあいつの信頼を裏切るような真似だけはするな。高尾君、誓えるかな」 「もちろん、……その、さっきは衝動的にっていうか、とにかく、悪かった」 赤司君の声音が僅かに落ち着いて、どこか諭すようなものになる。高尾もそれを感じ取ったらしく、軽く身を起こして頭を下げた。 「……ふう。悪ふざけはここまでだ。二人とも、そこに掛けてくれるかい」 溜め息をひとつ吐き出して、赤い尾が揺れた。俺達に背を向けた赤司君は、肩越しにこちらを見据え部屋の中央の机を指差す。漆塗りの台を囲むのは朱色の座布団が四つ。そのうち入り口に近い方へ高尾と並んで腰を下ろし、離れていったかと思えば壁際のたんすを開けあさりだした赤司君を待った。 「お待たせ」 しばらくして、両手に収まるくらいの小箱を三つ抱えた赤司君が机の向こう側に座る。置いた瞬間にからんと音を立てたから、中には宝石類でも入っているのだろうか。 そういえば、今朝呼び止められた後も他愛ない話に花を咲かせただけだった。詳しいことは高尾が来て二人揃ったらと赤司君は言っていたけれど、つまりはそれなりに大事な話なのだろう。しかしその内容が全く読めないので、相手の出方を窺うことにする。 卓上へ小箱を綺麗に並べ、座り直した狐が微笑んだ。紅、蒼、黒の色をした箱のうち、白い指がまず延びたのは蒼。いよいよ本題に入るようだ。 「実は、君たちに協力してほしいことがある」 「俺達に?」 「ああ。ひとまずこれを見てくれるかい」 そうして広げられたのは、一枚の手紙。蒼い小箱から取り出されたとき、仄かに涼しさを感じた。 まだ新しい上質な紙と滲みひとつない漆黒の墨からよほど大事な文書であることは明らかで、自然と好奇心が湧いて顔を近づける。 「これは少し前に雪の村から届いたものだ。字は読めるよね」 「あ、うん。難しすぎなければ」 差し出された手紙を受け取り、おおまかに目を通す。文字はよく伊月さんから習っていたので、案外すんなりと大体の中身を理解することができた。 「えっと、これは」 「攻められた、じゃね?」 「そっか。てことは」 要約するとこうだ。雪の村に何者かが攻めこんできた。そいつは村人のなかに紛れ、突如本性をあらわし村人に襲いかかった。族長以下数名で退治はしたものの、数名の犠牲者をだした、と。そして敵の正体がわからないので、まだ予断を許さぬ状況であるとも。 「救援要請?」 「とはちょっと違うけどね。要は、僕らにも注意をしろってことさ」 雪の村と言うと、黒子がいる所か。昔村に立ちよった時、少しだけ言葉を交わしたのを覚えている。驚くほど影が薄かったので、逆に記憶に残ったのだ。 「君はこれをどう思う?」 「俺?」 「何か感じたことはないかい?ああ、それと。奴等は黒い影のような姿をしていたらしい」 鼻先で手を組んだ赤司君の双眸が細められる。なにかを含んだような、そんな表情。 初めからぼんやりとした違和感があった。なぜ雪の一族の手紙をわざわざ俺達に見せたのか。そしてその内容。黒い影に襲われた、というのは。 「天狗の村と、似ている……?」 「そうだ」 外部からの侵入者である黒い影の出現は、被害の差はあれど俺達の村と全く同じだった。天狗の村の場合は早くにみんな避難したためあまり内部に踏み込まれることはなかったが。それでも奴等はあっという間に村を取り囲み、迂闊に外へ出られない日々が続いた。大体十日くらいだろうか。頼れるのは高尾くらいで、その高尾も手負いとあれば生きた心地がしなかった。 手紙に記された日付は半月ほど前のものだ。まあ実際襲撃されたのはもう少し昔なのだろうが、それでも、こんな短期間に二つの村に侵攻があるなど聞いたことがない。事態は俺が思っていた以上に深刻らしかった。 「昨日新たに連絡があった。雪の村は奴等に取り囲まれて、今現在万事休す、らしい。つまり、天狗と雪は落ちた。この近辺に残るは二つ、僕達狐と東の猫」 隣で高尾が唾を飲んだ。当初のふざけた雰囲気はどこへやら、いつの間にか部屋は鋭利な空気に包まれている。 「そこで、改めて君たちにお願いしたい。僕の作戦に乗ってくれないか?」 「作戦?」 「敵の名前は影法師。実態を持たない太古の魔物だ。けれど勝算はある。君たちだって、故郷に戻りたいだろう?」 影法師。幼い頃、絵本で読んだことがある。妖怪にとりついて、滅ぼしてしまうという。 赤司君は不敵に笑う。なんとなくだが、彼についていけば何にでも勝てそうな気がした。故郷を取り戻したいというのは紛れもない本心だ。本当に勝算があるのなら、悪い話ではないかもしれない。 「俺達はどうすればいい?」 「妖怪には特性がある。妖術に長けた狐、進路を阻む雪、何人たりとも喰らい尽くす猫、そしてあらゆるものを見渡す天狗。全てを組み合わせれば、負けることなど有り得ない」 協力に前向きな素振りを見せると、赤司君は僅かに口元を歪めた。視界の端で紅の尾が揺れる。 饒舌に紡がれる言葉に、気づけば魅了されていた。だからね、と赤司君は続ける。 「君たちには猫の岩屋へ向かってほしい。あそこへ狐だけで行くのは難しいから」 静かに黒い小箱が差し出される。光沢のある表面は、貝殻でも使っているのだろう。 「この中に僕からの書状がある。これを真太郎と一緒に猫の長の元へ届けてくれ」 ◆◆◆◆ 「ふあー……ねむ」 頑丈な大岩に横たわり、藍色の毛並みをした猫が盛大な欠伸をした。真っ昼間から呆れたものだ、と岩肌を駆け降りてそいつに近づく。 「おい青峰、今吉さんが呼んでたぞ」 急な斜面の遥か上を指差して、寝ぼけ眼の青峰に長の元へ行くよう促した。なんで俺がわざわざこいつを呼びにこなけりゃいけないんだと内心毒づきつつ。同い年で周りに言わせれば性格も似ているらしいが、別に仲がいいわけでもないのに。 「んあ…火神?んだよせっかく気持ちよく寝てたのによお」 「いいから早く起きろ」 仕方なしにすぐ傍まで歩み寄り、だらしなく垂れ下がった尾を踏んで起こそうとした時だった。背筋にぴりりとした緊張が走る。 青峰は突然起き上がり、にやりと獰猛さの隠しきれない笑みを浮かべた。この感覚を、俺達は知っている。 「……これは」 「ああ。四匹、いや五匹か。なあ火神、おもしれえことになりそうだぜ」 prev next |