中庭の木々から小鳥のさえずりがちらほらと聞こえてくる。足元近くに生える椿は、真っ赤な花を朝露に濡らしていた。
狐の里に迎えられてから、早くもこれで三度目の朝だ。緑間君と言っただろうか、どうやら高尾の友人らしいその名の通り綺麗な緑の毛並みの狐が長に俺たちをここに住まわせるよう頼んでくれた。もっとも、長の方も初めからそのつもりだったみたいで二つ返事で承諾したのだけれど。

「おはよう」

「あ、えっと、おはよう?」

そして件の長が今、どういうわけか俺の目の前で微笑んでいる。因みに俺は厠で用を足した帰りだ。どうしてこうなった。はっきり言って俺は彼、赤司君ととりあえず呼んでいる、に対して僅かながらも恐怖心みたいなものを抱いていた。そりゃそうだ、だってついさっきまでというか今も少なからず互いにいい感情を持っていない種族を統べる狐なのだから。まあ、今はどうやら味方だと思っていいみたいだけど。
どうでもいいがついでに言うと、最初混乱やら畏れやらで彼のことを赤司様と呼んだら笑われた。畏まった態度は面倒くさいと思っているのか、同い歳だし真太郎の友人の友人なら構わないよ、と言いくるめられ遥かに目上な筈の彼にまるで友達のような口調で話している。個人的には違和感たっぷりなのだけれども、高尾はむしろそっちの方が有り難いとばかりに早速呼び捨てに切り替えた。あいつの順応性には本当に感心してしまう。

「降旗君、少し時間をもらってもいいかい?」

「は、はあ……」

「だめかな?」

「いっ、いや、そんなことないですっ!」

がっちがちに固まりながら返答すると、彼は踵を返し俺についてくるよう促した。朱色に近い紅の立派な尾がふさりと揺れる。緑間君のそれは深緑をしていたっけ。何となく、綺麗だなあと思った。高尾の言っていたことが、少しだけわかった気がする。

(……だめだ、)

緩慢な動作で首を振り、一瞬浮かんだ思考を払う。まだ警戒を解いてはいけない。あくまでも狐は俺たちと相容れない存在であって、そう易々と心を許すわけにはいかない。
誤解しないで欲しいのは、彼らを全く信頼していないわけではないということだ。仮にも高尾の命を助けたのは緑間君なんだし、赤司君も行き場のない俺たちを受け入れてくれたのだから。
ただ、全てを話すほど信頼してはいない、というだけの話。相手を騙すのが狐の十八番でもあるのだし、もしかしたら、という可能性もないわけではないだろう。どちらにせよ、天狗の皆が村を出る直前に俺に託した秘密は、まだ誰にも話せそうにない。
ああそうだ、それでも高尾にだけは伝えておこう。本当は俺よりあいつが知るべきことだ。その方が、ずっと役にたつ。


◆◆◆◆


中庭に出ると、対岸の廊下で降旗が赤司と並んで歩いているのが目に入った。たしかそっちは赤司の執務室がある方だ。あいつ、何かやらかしたのか。いや、それはないか。そっと赤司に視線を遣ると、薄く微笑んでいるように見えた。
中庭は壮大で、ここからあいつらにはかなり離れているのであまりよくはわからなかったのだが。けれど、少なくとも降旗に害をなそうとしているわけではなさそうだ。そういうことならならまあいいか。とりあえず、俺は真ちゃんを探すとしよう。

「しーんちゃん、どこいっちゃったのよー」

右手を口元に添えて呼び掛けてみる。目が覚めたら真ちゃんの布団がもぬけの殻だったのだ。陽はまだ東の空に姿を現したばかりだし、我ながら早起きをした方だと思ったのだが。
あの後俺は結局真ちゃんの部屋に居候することになった。赤司は客間を用意すると言っていたが、真ちゃんは俺の腕の傷がまだ気になるらしく俺を引き留めたのだ。もうすっかり治ったものだと思っていたのだが、確かによく見るとわりと大きな傷痕になっている。振り回すと時折ずきずき痛むし。真ちゃん曰く、短期間に二度も傷めたからだそうだ。
なんにせよ、俺は今所謂生殺し状態なわけだ。毎晩好きな奴の隣で布団に潜り、剥かれたと思えば薬を塗られ、朝目覚めれば大抵はすぐにあいつが視界に入る。
もうね。どうしろっていうのかね。これ俺じゃなかったらもう食われてんじゃねえの?とか思っちゃったりするわけですよ。あいつが油断しきって部屋で着替えたりするので、俺の愚息が元気になるなんてことももはや日常みたいな。まあ自室で着替えない方が問題なのだけれども。俺もまだまだ若いねえ、まったく。
真ちゃんが俺を引き留めたのは、本当はあいつも俺と同じ気持ちで、なんて期待してしまうこともある。そうだったらどんなに嬉しいか。けれど俺にとっては恩人で一目惚れでっていう特別な相手なのに、あいつの目に俺はどう映っているのだろう。ただの患者とかだったら少し泣ける。一応一緒に空飛んだ仲だし、お友だちくらいには思ってくれていたらいいのだけれど。

「おーい、」

「その声は高尾か?」

「あれっ、真ちゃん?」

名前を呼びながら歩いていると、中庭の隅へさしかかったあたりで植え込みの陰からひょこりと覗く二つのとがった深緑が見えた。植え込みの低木とほぼ同じ色だからわかりにくい。ぐるりと回りこんで低木を越えると、やっぱりそこには真ちゃんがしゃがみこんでいた。朝日を浴びて翡翠に輝く瞳が横に流されて、ぱちりと俺の視線とかち合う。

「おはよ、こんな早くからどうしたの」

「見ろ」

真ちゃんは顔を前へ向きなおすと、前方に右手を突きだした。ああ、これは畑だ。彼の指差す方を目で追って、辺りとは色の違う土とそこから力強く生える草花を見て納得する。青々と茂る草の葉は、朝露にきらきらと揺れていた。

「すげー、かなり生えてんじゃん。全部真ちゃんが育てたの?」

「ああ。平地でも育てられるものに限られるが、たとえばこれはいつもお前に塗っているものなのだよ」

丁度俺の目の前の花を指差して、かと思うとそれを一思いに根から抜いた。そして真ちゃんはそいつを膝の上に置いて、同じようなものをぶちぶち引き抜いていく。あっという間に薬草は山積みになり、それと同時に畑の一部は丸禿だ。

「随分思いきって抜くんだな」

「もとからこれを取りにきたのだからいいだろう。貯めておいたぶんが切れそうだったからな」

「うわ、それ完全に俺のせいじゃん!……なんか手伝うことある?」

「む……なら後でこれを挽くのを手伝え」

「りょーかい」

僅かな罪悪感が芽生えたのでささやかにお手伝いを申し出たのだが、どうやら今は必要ないらしい。ま、余計なものまで引っこ抜いて邪魔するよりはいいか。
しばらくすると真ちゃんが満足げに立ち上がり、薬草を両手に抱えて一言戻るぞと呟いた。慌てて俺も立ち上がり、真ちゃんが右手にかかえていたぶんをなかばひったくるように預かる。こいつだけに持たせては俺まじ何しにきたのって感じだし。実際何の目的もなく真ちゃんいないかなーとふらふらして来たのだけれど。

「なあ真ちゃん、今日の朝ごはんなに?」

「昨日赤司が魚を沢山貰ったと言っていたのだよ」

「へー、じゃあ魚かな。俺塩焼きならなんでもいけるわ」

「俺は煮付けがいいのだよ」

「あ、それもうまそう。つーか腹へったな」

しかしまあ、予想外、ってやつかね。なにがって、こうやって真ちゃんと他愛もない話をしながら過ごせるなんて思ってもみなかった。
外が大変なことになっているのはわかっている。どこへ逃げたかわからない日向さんたちと、いずれは合流しなければならないことも。
けれどもう少しだけ、このぬるま湯みたいな状況に浸っていたいと思うのは我が儘だろうか。臆病者が恋心と決着をつけるまでの、あとちょっとの間だけは。




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