「真太郎、真太郎」

部屋の障子戸を控え目に叩く音と共に、俺の名が繰り返し囁かれる。夜中に何の用だ、この声は赤司か。俺は今から寝るところだったというのに。
そういえば、と今日は丸一日赤司の姿を見ていなかったことを思い出す。どこかに出掛けていたのだろうか。こんな夜遅くまで珍しい。

「赤司?」

「入るよ」

「ああ、構わないのだよ」

慣れた手つきで静かに障子が開かれ、音もなく赤を纏った狐がまるで忍ぶように部屋に足を踏み入れる。やはり赤司だったようだ。もっとも、よく考えれば俺を下の名前で呼ぶ者など彼くらいしかいないのだが。
寝る間際だったために行灯に小さな明かりが灯されているだけの部屋で、薄暗がりにぼうっと浮かび上がる姿はいやに幻想的に思えた。
床に散らかしていた薬草とそれを粉にする薬研を棚に戻し、赤司に座るよう促した。けれど彼はゆっくりと首を降りそれを拒んだ。どうしたのだろう。丁度今薬を作り終えたところだったから鼻にくる匂いがあるかもしれないが(俺はもう慣れたのだ)、赤司がそれを嫌がるとも思えないのだが。

「長くはならないからいいよ。お前に見せたいものがあるんだ」

「そうか、」

赤司はふふ、とどこか悪戯を思い付いた子供のように口許を薄く歪めると、首を回して障子戸の方を振り返った。するとその視線の先で何かが僅かに動いた、ような気がした。

「いや、見せたいものがいる、かな」

「……生き物なのか?」

もしかすると、急患がいるとかだろうか。いや、それにしては赤司は随分と落ち着いている。元来かなり冷静な奴ではあるが、さすがにこんな夜中に掛かりにくる程酷い容態の者を前に平素の様を保ってはいられないだろう。

「ああ。真太郎が随分と気にかけていた、ね。入っておいで」

「……?」

赤司が合図をすると共に、控え目に開かれていた障子戸は加減を知らない手で勢いよく開け放たれた。けれども暗がりのせいで目を細めてもいまいちそこの様子がわからない。
すると気をきかせたのか何なのか、赤司は小さく指を鳴らし指先に炎を灯した。そのまま部屋をぐるりと見渡して、具合のよさそうな燭台に火をつけた。部屋が一気に明るくなり、入り口に佇む人物の姿も明瞭に照らし出される。

「っ真ちゃん!」

「あ……、お、お邪魔、します……」

視界に映る二羽の天狗。そのうちの一羽、木の葉色の羽の方がおどおどと戸の陰から顔を覗かせるのと対称的に、黒がかった焦げ茶の翼の天狗が嬉々とした声を上げて地面を蹴った。
ふわり、と、翼が空を切る風が鼻を掠める。この声、この呼び方、この姿。赤司に視線を送ると、彼は白々しく目を逸らした。あくまで自分は傍観の立場を取るらしい。

「あー、何から言おう。とりあえず俺は無事、です。……なあ真ちゃん、俺のこと、心配してくれてた、んだよな?」

「……高尾」

くしゃりと困ったように、それでいて嬉しげに高尾は顔を綻ばせた。心配したに決まっているだろう、あんなところに一人で戻るなんて。無事でよかった。この笑顔がもう一度見られた。安心、した。
心のなかで沢山の感情が濁流のように渦をまいて、けれど己の口は思うように動かない。素直じゃない、とは散々言われてきたが、まさに言い得ていると我ながら頷いてしまう。……とにかく、あまりそういった感情を表に出すのは得意でないのだ。

「ちょっ!何で目ぇ逸らすのさ真ちゃん!」

「……別に、何でもないのだよ」

「何でもなくはないだろう。昨日はあんなに、」

「黙るのだよ赤司……!」

脇からいきなり水を差してきた赤司を思わず睨み付ける。そうだった、そもそも赤司に高尾のことを漏らしたからこうなったのだ。赤司の好意が嬉しくないはずはない、のだが。正直どうしたらいいかわからなくなっていた。赤司と紫原の前では自然と本音を告げられたのに、いざ本人を目の前にすると途端に頑なになってしまう。

「なになに真ちゃん、昨日がどうしたって?」

「ふふ。真太郎はね、初めての友人だから、と君のことを寝る間も惜しんで考えていたのさ」

「えっ……!」

「っいい加減にするのだよ赤司!もう遅いし部屋に戻れ!」

ああもう、こんな無性に照れ臭い思いをするのならこいつに相談しない方がよかったかもしれない。いや、しかし赤司に話したからこそ、こうやって高尾がここにいるわけか。そういえば赤司はいつの間に、どうやって高尾を連れてきたのだろう。
ふと疑問が頭を過るが、やはり恥ずかしさとそこからくるなかば八つ当たり気味の憤りで赤司を今許す気にはなれず、強引にその背を押して部屋から追い出そうとした。赤司は相変わらず何が可笑しいのかくすくすと笑っている。そんな様子についには高尾も吹き出して、終いにはまだ障子戸の陰に身を潜めていたどこか優しげな天狗さえもが堪えきれずに片手で口許を覆った。



◆◆◆◆



「いやー、赤司って怖そうに見えて以外とおもしれえのな!」

「……知るか」

「機嫌直せっての!ねえ真ちゃん、お友だちと話すときは笑顔が基本ですよー?」

にやりとしながらそう言うと、真ちゃんは分かりやすく眉根を寄せて黙りこんだ。「お友だち」という言葉に反応したのだろう、からかわれていると思ったらしい真ちゃんは拗ねた顔を俺に見せないように寝返りをうった。その弾みで布団から溢れた豊かな尾が、隣の布団のぎりぎりまで身体を近づけおしゃべりに興じていた俺の膝を擽る。肌触りは最高だ。
赤司は真ちゃんに押されるがまま部屋を出ていった。ついでに降旗には客間が与えられるらしい。積もる話もあるだろうから、と俺は一人ここに泊まるよう命じられた。素晴らしい判断です赤司様。お陰で真ちゃんと二人きりの俺的に最高の夜になりました。もう俺あいつに足向けて寝れないわ。

「……ねえ真ちゃん、ずっと俺のこと心配しててくれたの?」

掛け布団の隙間から右手を伸ばして、指先で静かに背中をつっとなぞる。細い背中はぴくりと揺れて、大きな体躯はそれを逃れるようにまるく縮こまった。髪と同じ色のふさふさの耳は警戒しているのかぴんと上を向いている。うわ、可愛い。
こいつは俺に見えてるなんて思ってないんだろうな。残念でした、俺たち天狗は夜目が利くのです。特に俺の目なら尚更。

「……悪いか」

「んなことねえよ!むしろすげー嬉しかったって!」

薄い肩越しに消え入りそうな程小さな声で呟かれる。まさか俺にばれるとは思っていなかったからか、自分が口にしたことへの羞恥心でいっぱいいっぱいのようだ。そんなに照れんなっての。実際俺はこの上なく嬉しかったのだから。
赤司が突然村に現れたときはどうしようかと思った。特に降旗の慌てぶりはもはや俺が吹き出しそうな具合だった。まあ、よくよく考えてみるとあれが狐を見たときの普通の反応で、俺の狐への警戒心が薄すぎるだけなのだけれども。
赤司は狐の里でのことの顛末をありのまま話すと、俺たちに里に来ないかと誘いをかけた。その際に真ちゃんのことも聞いた。影法師とやらが村から離れるまで村の外へ出られないと思っていた俺にも降旗にも選択肢は一つしかなく、あっさりと頷いて好意に預かることにして今に至る。ちなみに赤司は来る途中に三匹の奴等と出くわしたらしいが全て焼き払ったそうだ。半端ない。

「……ふん。それより、高尾はこれからどうするつもりなのだよ」

「俺?」

「ああ」

少しは諦めがついたのか、ちらりと此方を見た真ちゃんは静かに口を開いた。これから、かあ。確かに気になるよな。俺の村の惨状は全部話したのだし、不安なのは俺も同じだ。
ぶっちゃけそれは俺にもわからない。赤司の誘いがなければ、近いうちに村を発ってどこか遠くへ逃げていただろうし。

「んー、とりあえず、赤司に許してもらえればだけどしばらくはここに居させてもらえないかな。行く当てもないしさあ」

「……そうか」

「だめ?」

「いや、そのことは俺からも赤司に頼んでおくのだよ。もとからそのつもりであいつもお前を連れてきたのだろう」

あんなに危険なところから。仰向けになった真ちゃんは、ちら、と横目で此方を見る。睫毛長えな、綺麗だな。宝石のような深緑が、ゆらりと宙をさ迷う。
そして彼は躊躇いがちに、少し間をおいたあとにほんの僅かに微笑んだ。え、なにそれ、どういうことなの。俺を見て、笑った?真ちゃんが?二度見した頃にはもう顔はむこうを向いていて、残念ながらよくわからなかったけれど。不覚にも随分あっさりと俺の心臓は早鐘を打ち始めた。

「真ちゃん、」

「……無事でよかった」

「へっ!?」

「なんでもない。俺はもう寝るのだよ」

それっきり、真ちゃんは深く布団を被って眠る姿勢に入ってしまった。ちょ、え、真ちゃん。今何て言ったの。俺直接聞いちゃったんだけど、いいの。
今すぐ肩を掴んで問い詰めたかったけれど、次第に微かな寝息が隣の布団の膨らみから漏れてきたので断念する。
ああ、もう。まじ反則だろ、そういうの。




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