「笠松センパーイ!」

屋敷に降り立つなり、黄瀬君が勢いよく建物のなかに駆けこんでいった。よほど心配だったのだろう、笠松さんは彼にとって兄のような存在なのだから。
そしてそれは僕も同じなのだけれど、少し気がかりなことがあった。はやる気持ちを抑え込み、屋敷を覆った結界に歩み寄る。

「これは……」

「気づいたんだね」

「はい」

「俺がやっておくよ。それより君は早く笠松さんに顔を見せなさい、彼も心配していたから」

屋敷の周囲を覆うようにかけられた結界は、笠松さんが張ったと氷室さんから聞いていた。これと猛吹雪のせいで外の様子は全く見えないのだが、恐らく雪に刻まれた足元の線を越えればそちらには虎視眈々と僕たちのことを狙う魔物が湧いているのだろう。
その結界に、僅かではあるが亀裂が走っていた。しゅわしゅわと泡が弾けるように光を放つそこは、遠目でどうにか見える程度だ。しかし少しの亀裂であっても油断は出来ない。敵の攻撃でできた損傷ならば、小さなそれがみるみるうちに広がっていき、終いには結界が崩されてしまうかもしれないのだから。

「……ありがとうございます」

いつの間にか隣に立っていた氷室さんが結界に触れると、淡い光を纏った雪が指先に集まり包み込むように亀裂を塞いだ。
……驚いた。当然顔には出すようなことはしないけれど。あなた今までどれだけ大きな術を使ってきたと思っているんですか、僕と黄瀬君を乗せて超高速で飛んできたばかりですよね。悔しいことに僕なら自分一人だけであの速度で飛んだだけでもへばって倒れる自信がある。
それなのにあなたは涼しい顔で僕に話しかけながらまた術を使うんですね。底知れぬ力、というのはきっとこういうことを指すのだな、と一人で納得する。少なくとも彼は絶対に敵に回したくない。赤司君の次くらいに。



◆◆◆◆



足音がどたばたと煩くて、きっと迷惑だろうなということは自分でもわかっている。けれど走らずにはいられなかった。無事だとは聞いていたけれど、この目で確認するまでは、

「うっせえぞ黄瀬え!子供が怯えてるだろうが!」

ずばんと空気を震わす音を立て廊下右手の襖が開いた。勢いをつけたままの体勢でこちらを怒鳴りつける黒髪の男は、俺が今の今まで走り回っていた目的で。

「笠松センパイっ…!!よかったっスー!」

彼の顔がひきつるより早く、思いきり床を蹴って飛び付いた。が、そこはさすが笠松センパイと言うべきか、咄嗟に鍛え上げられた右足が振り上げられ俺の腹に勢いよくめり込んできた。かなり痛い。さすがセンパイ、素晴らしい技のキレ、じゃなくて。

「ちょっとセンパイ!ひどいっスよ!」

「うるせえよ。しゃきっとしろしゃきっと」

「だって、…俺ずっと心配して…」

物理的な痛みと共に、一気に安堵が襲ってきた。視界が歪む。ああくそ、みっともない、けれど。
足元には心配そうに俺を見上げる村の雪ん子の姿があって、室内なのに頭に乗せた笠の隙間からちらちらと俺のお腹を窺っていた。きっと避難してきたのだろう。さっきセンパイが言っていた子供っていうのは彼らのことだろう。

「だって林、あんなに燃えてたし、敵もうじゃうじゃいるっぽいし、万が一、って考えたら、俺、」

「……あー、見ての通り皆無事だ。男ならめそめそすんじゃねえよ」

ぽん、と頭に節の目立つ掌が乗せられる。そのままくしゃくしゃと髪を擦られ、伝わるあたたかさ(実際はあまり物理的な暖かさのない低体温なのだけれど、気持ちの問題だ)に自然と目元が緩んだ。

「ほんと、よかったっス…!」

「ああ、お前もご苦労さん。疲れてるだろ、休んでけ」

強引に腕を引かれ、敷居を跨いで部屋に引きずり込まれた。八畳程の部屋には座布団数枚が敷かれていて、真ん中には祭壇らしきものが見える。それと、センパイについてきたんだと思われる雪ん子が五人程。生活感のないここは、たしかに普段から休憩所の役割を果たしているのだが。

「センパイ、俺の部屋は」

「……雪女たちが、避難するならそこがいいって居座ってる」

「ああ……」

苛立ちを隠さない声で言われ納得してしまう。危機感ないなあ。
まあ確かにこの屋敷は屋敷といっても昨日泊まった狐のそれに比べ随分と小さく、いくつかの客間の他には笠松さんとその親類の部屋があるだけだ。一族全員が避難するには少し手狭だろう。だから、俺の部屋が占領されていても何ら不思議はないのだけれど。

「モテるってのも大変っスね」

「自分で言うな、気色わりい」

「ヒドッ」

さすがに気色悪いは言い過ぎだと思うっス。我ながら調子にのった台詞だったとは自覚しているが。

「えー、じゃあ黒子っちの部屋は?」

「そこは子供に占拠されてる」

「……なんか意外っスね」

「あいつ割と子供にモテるんだよ。かくれんぼが最強なんだとさ」

「ああ……」

というか黒子っちとかくれんぼをして見つけられる者なんていないんじゃないだろうか。まあ、今はこんなことどうでもいい、むしろそんな時ではないのだけれども。

「てかセンパイは何でここにいるんスか?」

センパイの部屋は屋敷の一番奥にあるから、まさかこんなところにいるとは思っていなかった。ここはどちらかといえば入り口に近い部屋で、かなり狭いし仮にも族長が構えるようなところではないだろうに。

「結界の陣の中心なんだ。とりあえず燃えてないとこ全部囲ったからな」

センパイは部屋の中央に置かれた祭壇を指差した。漆塗りの箱で段が組まれ、天辺の蝋燭には小さく火が灯っている。簡素なものだが、陣をしっかり刻んだのならこれでも十分だろう。

「黒子も来たのか?」

「あれ、そういえばまだ入って来てな、」

「お待たせしました」

「わわっ!?黒子っち!」

音もなく背後から顔を覗かせる黒子っちに思わず情けない声を上げる。驚かさないでほしい。本人にそのつもりはないのだろうけれど。

「なら早いな。とりあえずお前ら適当に座れ」

指示されるままに近くに転がっている座布団に並んで腰を下ろす。そういえば、久々にくつろいだ気がする。実際半日近く走り続けていたわけだし。
凝り固まった身体をほぐすために伸びをしていると、閉じられた襖が再び静かに開いた。そちらに自然と目をやると、薄く笑みを浮かべた青年が佇んでいる。どこか艶やかな雰囲気を纏った彼は笠松センパイの方を見て、薄い唇を動かす。

「お待たせ。言われた通り連れてきましたよ」

「ああ、御苦労様。助かったぜ」

「あと、直しておいたけれど結界にガタがきかけている。どうにかしないと」

「そうか……」

まずいな、と掌を額に当てるセンパイには、明らかに疲労の色が見えた。当然だ、あれだけの規模の結界を一人で張っているのだ。俺たちが村を守るときには吹雪を使うのが普通だ。けれど、雪の大敵の炎が村を取り巻いているときては、はっきり言って相当不利で。おまけに結界が使える者はかなり限られている。
こんなことなら狐のとこから紫原っちでも借りてくればよかったかもしれない。お財布にはきついが、お菓子を沢山積めばついてきてくれる筈だ。

「センパイ、どうしよう」

「かなりまずいんですよね?」

黒子っちと二人、身を乗り出してセンパイたちに詰め寄る。黒子っちの顔にも不安の色が浮かんでいた。
万が一、本当に万が一村が本格的な襲撃を受けたとしたら、恐らく敵う見込みなんてない。そしたらここにいる皆も、恐らくは。真剣な雰囲気を察したのか、近くで騒いでいた子供たちが水を打ったように静かになり、ぱたぱたと小さな足音をたてて足早に部屋を離れていった。察しのいい子たちのようだ。助かった。

「……なにか俺たちにできることってないんスか?」

センパイは、俺と黒子っちにとって家族のようなものだ。俺たちを拾い、育ててくれた。だから俺も、彼が守る村を力の限り守りたいのだ。

「笠松さん、俺に提案があります」

「何だ」

氷室さんが片手を上げて口を開く。こんな状況でも、彼はひどく落ち着いているように見える。

「ここから南、猫の岩屋に俺の古い知り合いがいます。そこに援軍を頼めないでしょうか。彼ならきっと、大きな力になる」

猫、か。隣接した地域だといえ、ここからはかなり遠い。つまりはそういうことだろう。俺の出番が来たようだ。

「センパイ、俺が行くっス!」

「僕も行きます。お手伝いさせて下さい」

俺や黒子っちのものとは違う、力の籠った黒い瞳を見つめる。センパイは肝を据えたように大きく息を吐くと、重々しく口を動かした。

「ああ、頼む。守りは俺と氷室で固めるから、お前らは援軍を連れてこい。死ぬんじゃねえぞ」

「「はい!」」

もう後がない。拳を強く握り締め、黒子っちと目を合わせた。



◆◆◆◆



「さて、どうすっかね」

自分の家であるのに、息を潜めるというのは変な気分だ。全てはあいつらに見つからないようにするためなのだけれど、はやくどこかに行ってくれないものだろうか。
俺が慌てて村に戻ると、そこは既に閑散としていた。いつもの賑わいなど跡形もなく、もしや手遅れだったのかと慌てて長屋に駆け込んだ。するとそこには、この村で数少ない同い年の友人が困った顔で俺の帰りを待ち構えていた。彼、降旗は今見張りと称して玄関近くに構えている。
降旗の話によると、夜明けと共に動き出したあいつらの気配を伊月さんが敏感に察したらしい。あの人も俺のように目がいいから、おおかた飛び上がったときにでも見つけたのだろう。すぐにそれを村全体に知らせ、日が高くなりあいつらの動きが活発になる前に皆で方々に飛び立ったそうだ。そこで帰らないおれのために伝令として残ってくれたのが降旗だった。一人くらいなら見つかる危険も少ないし、いざというときもすぐに逃げられるから。
まあ、皆が無事で何よりなのだが。とりあえず日が沈むまでは迂闊に外に出られない。というわけで夜になるまでここに潜んでいようということだ。今のところあまり近くには出ていないようなので何事もなく日が沈んでくれればいいのだが、

「うわあああっ!?」

「おい降旗っ!?」

随分あっさりと俺の祈りは打ち砕かれたようだ。響く悲鳴に思わず立ち上がり、小さく舌打ちをする。窓から飛び出した方が早いか、玄関を通り降旗を連れていくか。決まってる、俺のために残ったあいつを放っておくなんてできるわけがない。

「降旗、どうしたんだよ!」

「高尾!ご、ごめん、驚かせちゃったな」

え。勢い勇んで扉をなかば蹴破るように部屋を飛び出すと、怯えた顔の降旗が此方に助けを求めるように見つめていた。けれどその様子はどうにも襲われただとかそういうふうには思えない。それに彼の前方、玄関から顔を覗かせた奴はどこかで見たことがある気がして。

「高尾君と言ったかな、君に用があって来たんだ。直接話すのは初めてだね」

「あっ…!お前、狐のとこの!」

「えっ、なに、高尾知り合いなの!?」

驚きやら慌てやらであたふたする降旗はとりあえずそっとしておくとして。特徴的な左右色違いの鋭い瞳が、静かな笑みをたたえて俺を射ぬいた。




prev next