狐の里の境界が閉鎖されるという赤司の決定は、瞬く間に里の中はおろか周辺の妖怪たちの間にまで広まった。里の閉鎖、それは暗に何らかの危機がこの近隣に迫っていることを物語っている。
里の内外で様々な憶測が飛び交った。どこかで戦が始まるのでは、天変地異が起こるのでは。囁かれる噂は多々あれど、真実は命令を下した赤司に親いもの以外知りようがない。安易に知らしめてしまえば、余計な混乱を招くだけだからだ。

「どうしたんだい、真太郎。浮かない顔をして」

「ミドチン具合悪いのー?」

「……赤司、と紫原か。」

月明かりが射し込む自室の窓辺でひとり佇んでいた。障子を大きく開け放ち涼しい夜風を頬に受けるが、気分は全く晴れなかった。
いつの間に入ってきていたのだろう、気がつけば背後に二人ぶんの気配がする。かと思えば肩にずしりと重みがのし掛かり、隣に目をやると深紅の毛並みが美しい狐が此方を見上げ微笑んでいた。

「重いのだよ紫原」

「んー、でもミドチン、具合悪そうだもん。そういうときってさ、一人で寝るの寂しいでしょ?」

俺の頭、というか耳に頭をうずめた紫原がぐりぐりと額をこすりつけてくる。ふわりとやさしい甘い香りがしたのは、きっとまた懐に菓子を忍ばせているせいだろう。

「で、どうなんだい?真太郎」

「……心配するな。ただ、あれからもう十日が過ぎたのか、と思っていただけだ」

なにもかもを見透かすような瞳が、うっすらと裏の読めない微笑みを張り付けたまま俺の目を見る。赤司とは親しい仲であるし少なからず好意を抱いてはいるものの、こういった目は苦手だった。
逆らうことを許さない、見るもの全ての意識を捉えるような瞳。所謂天狐の、鋭いそれだ。もっとも天狐は狐のなかで最も尊いもので、狐である限り彼に逆らえる者などいるはずもないのだが。

「……あの天狗のことが気掛かりかい?」

ぽん、と優しく、赤司の掌が肩を叩く。彼はゆっくり息を吐き出すように、俺の本心を見事に言い当ててしまった。
疑問系であれど口ぶりも確信めいていたので、誤魔化すことなどできないなと素直に頷いた。

「隠し事はだめだよ真太郎」

「すまない、だが隠していたわけではない。これは俺の個人的なことだと思ったのだよ」

「それでも、僕も紫原も心配してしまうじゃないか」

「そーそー」

紫原の顎がまたぐりぐり押し付けられる。痛くはないが少しだけくすぐったかった。

「あいつの村は無事だろうか」

十日前、俺は天狗の山で影法師と出くわした。幸い怪我もなく、駆けつけた天狗、高尾になかば連れ去られるようなかたちでその場を離れた。
高尾は狐の里まで俺を送り届けると、村が心配だから、とすぐさま山へ引き返して行った。なにしろ俺たちがいたのは天狗の村のすぐ近くだったのだから。
なにも告げずに出掛けた俺を赤司は小さく咎めたが、俺ももう大人なのでそれほど深くは詮索されなかった。
それから間もなくだ。同時期に、ここから猫の岩谷と雪の村へ繋がる道に影法師が出たという報告があったらしい。里の周囲を守る兵士達の伝令からするに、ちょうど俺がやつらと対峙した頃だ。
紛れもなく緊急事態である。何か大事になる前に、と赤司が里を閉鎖する命を下した。
今現在、里全体は術師による結界に包まれ、何人たりとも侵攻することは不可能な状態が保たれている。しかしそのせいで俺は全く外の様子がわからない。天狗の山に繋がる道も例外なく封鎖され、もはやあちらが無事かどうかすらわからないのだ。
あの場所は、隠れているとはいえ村のすぐ近くだとあいつは言った。あいつの、天狗の村は無事だろうか。影法師のことはもうとても偶然とは思えない。
あいつが戦闘に慣れているとは薄々気づいている。そういう種族なのだから。けれど、高尾は仮にも手負いなのだ。治療したとはいえ、長時間の戦闘となれば不利になることは目に見えている。
高尾のことはただの私情だ。ここで俺が勝手に里を離れては、赤司の面目が立たなくなることはわかっている。仕事だっていつも通りにあるのだし。
そうだ、わかっている、のだけれど。

「助けに行きたいなんて、馬鹿なことを考えているんだね?」

赤司はまた、俺の本心を恐ろしいくらいに言い当てる。

「少なくとも、術さえ使えれば影法師の一匹や二匹は」

「一匹や二匹でない可能性の方が高いだろう。天狗相手にお前らしくもない」

「それは、」

初めてだったのだ。あんなに誰かにあたたかい好意を向けられたのは。他人から敬遠される自分を、あんなに受け入れてくれたのは。変な奴だと思っていたが、一緒にいて心地よかったと思うようになってしまった。
図らずも恩人になってしまったせいもあるだろう。しかし影法師と出会ったとき、一度殺されかけたあいつの方が恐ろしかっただろうに高尾は危険を承知でこの腕を引いてくれた。

「天狗は天狗でも、高尾は俺の……友人、だと思っている、のだよ」

「へえ」

初めてできた友人。赤司と紫原は家族のようなものだとしたら。
そして、一度は俺が救った命だ。そう簡単に影法師などにくれてやるものではないだろう。

「赤司。様子を見てくるだけでもいい。俺を天狗の村に行かせてほしい」

赤司の涼しげな横顔を見つめる。窓から吹き込む夜風に髪を靡かせ白い素肌を月明かりに照らされるさまは、ぞっとするほどに美しかった。狐の王。まさにその言葉を体言しているようだ。
彼は首を回し、俺の方へ顔を向ける。そうして何かと思えば、いきなりくすくすと笑いだした。

「真太郎、そう焦るな。お前の実力は知っているから大丈夫だとは思うけれどね。でも、もっといい方法があるんじゃないかな?」

「は、」

「僕を誰だと思っているんだい」

ふさり、目の前で毛並みの良い尾が揺れた。赤司は背を向けると、紫原に手招きをして部屋を出ていこうとする。

「赤司?」

途端に身体が軽くなった。紫原の腕から解放されたらしい。

「赤ちんが大丈夫っていうなら大丈夫なんじゃない?」

ね、と僅かに屈んだ紫原が微笑みかける。俺相手に屈んで目線を合わせるなど、お前くらいのものなのだよ。

「とりあえずお前はもう休め」

「おやすみミドチン」

「おいっ、」

呼び止める暇もなく二人は部屋を出ていってしまった。夜中に大声をあげるわけにもいかず、伸ばした腕は行くあてのないまま宙に浮いていた。

「……どういうつもりなのだよ」

赤司の真意はいつだって俺の想像の及ぶところではない。しかし、どうしようもないのも事実である。
赤司の許しを得なければ結界を通ることはできない。ということは、今の俺には赤司に言われた通り明日に備え体を休めることだけだ。とりあえずは、赤司を信じるしかない。






その夜、紅蓮の鬼火が煌々と天狗の山へ続く道を照らしたことは、誰も知るよしもない。



◆◆◆◆


「手遅れ、でしたか……」

村が燃えている。狐の里からの森を抜け、あと一歩で村に着くという小高い丘の上。村がある林から火の手が上がっているのが見えた。

「どうしよう、センパイたちがっ…!」

一気に顔を青くした黄瀬君が走りだした。かくいう僕も、内心とても慌てているわけですが。
炎の勢いはかなりのものだ。あれだけの熱に飲み込まれては、雪の一族などはひとたまりもない。熱いと感じる暇もなくあの世行き、ということだって最悪あり得る。
黄瀬君に続き僕も駆け足で丘を下る。三日ぶりの雪の上は、先程までよりもずっと速く走ることができた。

「……黒子っち、これもやっぱりあいつらの仕業っスよね」

「恐らくは。……それにしても大変なことになりましたね」

ここから村の細部まではよく見えない。まだ林が燃えているだけならいいのだが。
息を切らしながら二人で雪の上を進んでいく。雪原に刻まれる足跡は、かと思えば吹き荒れる吹雪にすぐに掻き消される。
そういえば。なぜこの吹雪のなか、あんなに激しく炎が燃えているのだろう。

「……思ったよりも深刻かもしれません」

「そうみたいだね」

「っ!?」

涼やかな男声が頭上から響く。驚き足を止めると、眼前の雪がふわりと雲のように舞い上がった。

「おかえり、黒子君に黄瀬君」

「氷室さん!」

徐々に視界が晴れると、そこには吹雪に艶やかな黒髪を靡かせた青年が佇んでいた。思わず黄瀬君と声を揃えて驚嘆の声を上げてしまう。

「っ、なんでここにいるんスか!?」

雪の同胞である彼が、なぜここにいる。氷室さんは普段村の警備にあたっているから、僕たちと同じように任務を受けていたということはないはずだ。
だとしたら、彼がどうして今ここにいるのだろう。同胞と比べ遥かに強い妖力を持つ氷室さんが戦線を離れることは、村にとってかなりの痛手となるだろうに。

「君たちを迎えに来たんだよ」

「へ?」

「安心して、村の皆は無事だ。今は屋敷に全員で集まって、笠松さんが張った結界でどうにかしのいでいる」

氷室さんはその白くしなやかな腕を天に向けて突きだした。途端に僕たちの回りをさらに激しい吹雪がつつみこみ、ついに身体が宙に舞った。さすがに目を開けていられずに着物の袖で顔を覆うと、それに気づいたのか氷室さんは少しだけ風の勢いを弱めてくれた。

「残念だけど林は火で囲まれているからね。上から向かうけど、我慢していてくれ」

巨大な冷たい鳥の背に乗っているような感覚。氷室さんの術のひとつなのだろうが、これは今日初めて見たので詳しい仕組みはわからなかった。風と雪を同時に操る高等なものだ、という程度のことはわかるけれど。

「ありがとうございます。村の皆が無事で何よりです」

「ああ。もっとも、君たちの力がないと持ちそうにないから危険を承知で迎えにきたんだけどね」

「……そんなにまずいんスか?」

「正直に言うとかなり。詳しいことは着いたら話すよ」

轟音と共に身体が加速するのを感じた。雪の隙間から見えるのは一面の銀世界で、けれどその隙間から時折赤い炎がちらつく。
これからどうなるのだろう。この異変が示すものは何なのか。
答えが出るはずもなく、ただ移ろう景色に身を任せた。




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