ぜえぜえと荒い二人分の吐息が薄暗い森に木霊する。もうどれほど走っただろう。
走れど走れど、僕たちの背後のおぞましい気配は消えてくれない。それどころか、どんどん膨らんでいき全身に悪寒が走るまでになってきた。
本来ならもうすぐ村に着く頃なのに。乗って来た馬車は既に破壊され、疲労にふらつくこの足ではもはや辿り着けるかすらあやふやになってしまった。

「黒子っち危ない!」

どさり、身体が地面に叩きつけられる。咄嗟のことに頭がついていかず、けれど視界の端で僕の前に立ちはだかるようにして背を向ける黄瀬君を捉えた。
彼に突き飛ばされたのだろう。土煙が立ち込める中、黄瀬君が早口に術式を詠唱する声が聞こえた。

「俺たちに敵うと、思ってんスか!」

頬を鋭い冷気が掠める。今になって気づいたが、僕が先程まで立っていた辺りの地面が抉れていた。
黄瀬君が頭上に右手を突きだすと同時に、周りの景色が白に染まる。ざわめく風が揺らしていた木々の葉も静まりかえり、僕たち二人以外の「生き物」の気配が消えた。まるで全て死に絶えたように。凍りついてしまったのだ。

「さ、黒子っち!疲れてるかもしれないけど、あとちょっと走るっスよ!」

「っ、はい」

強く腕を引かれ、そのまま走り出した。この絶対零度のなか動けるのは僕たちくらいのものだろう。いくら日の光を浴びない森のなかといえ、走り続けて火照った身体には冷気がひどく気持ち良かった。靴越しであるが足の裏に感じる雪の感触にも安心できる。
走り去る間際に後ろを振り返と、地に伏して凍りついた獣のかたちをしたなにかが見えた。狼か、はたまた化け狸か。よくは見えなかったけれど、狐の里を離れたあたりから僕たちを追いかけてきたのだから妖怪の類いに違いない。

「……笠松さんに報告、ですかね」

「そっスね。もしかしたら村を襲った奴等の仲間かも知れないっス」

妖怪に襲われた、そのこと自体が嫌な記憶を呼び起こし不吉な予感が脳裏をよぎる。事実、この道で危険な目に遭ったことなど今まで一度もなかったというのに。
何事もなければそれでいい。けれど何かあった場合には、僕たちは戦わなければならない。



◆◆◆◆



天狗の山の夜明けは、高尾の言った通りなかなかのものだった。木立の隙間から次第に射し込む日光は、狐の里のものとは違って見えた。

「なー真ちゃん、あとどんくらい摘むの?」

「このかごに詰め込めるだけ詰め込むのだよ」

「どんだけだよ。てか今さらだけどそのかごでかくね!?」

「必要なのだから仕方ないだろう。お前の治療でだいぶ薬を使ってしまったことだしな」

じとりと高尾を見ると、うっと言葉を詰まらせ申し訳なさそうな顔をされた。後半のほうの怪我は此方にも非があるので、冗談だと告げると高尾はほっとしたように表情を綻ばせる。
夜が明けてからはずっとこの調子だ。俺が薬草摘みに夢中になっているせいか、暇をもて余した高尾がちょくちょく話しかけてくる。いつのまにやら軽口の応酬になってしまった。
数奇なものだ。ついこの間ぼろぼろの天狗を助けただけだというのに。友人という言葉はやはり少しこそばゆいが、運命というのは実に不思議なものである。

「あちらの方には立ち入ってもいいのか?」

「ああ、この辺に来る天狗なんて滅多にいないし。好きなだけ散策しな」

「わかったのだよ」

「あっ、あんま行きすぎて迷子になんなよー?」

地べたから半分背を起こした高尾が思いついたように大声で伝えてくる。本当にころころ表情の変わる奴だ。今まで共に育ってきた赤司や紫原が比較的感情を顔に出さない質だったせいか、こういった面での分かりやすさが新鮮で一種の心地よさを感じる。それを口に出して伝えられない俺も、赤司たちのことを言えないのだが。
藪を掻き分けて進んでいくと、また少し開けたところに辿り着いた。さっきの場所とは違い、ここは完全に長い間誰にも手をつけられていないようだ。日の照り具合も違うので、また違った種類の草も生えていた。ああ、あれは火傷によく効くものだ。こんなものまであるとは、思わぬ収穫だ。自力では無理だから、またいつか高尾に連れてきてもらいたいものだ。
地面に膝をつき、近くに群生した青い花を摘んでいく。この調子では、あと半刻もしないうちにかごは満たされるだろう。

(赤司にも後で伝えておこう。この収穫は里のためにもなる)

もしかしたら、だが。高尾のことを警戒していた赤司にも、このことを話せばいい奴だとわかってもらえるかもしれない。そうすれば、高尾が屋敷まで来訪しやすくなるだろう。
……別に高尾に遊びに来てほしいなど思っていないのだよ。ただせっかく来たのに無下にあしらわれたら、さすがに不憫だと思っただけだ。なんなのだこの変な気持ちは。なぜ俺は言い訳じめたことを考えている。誰が聞いているわけでもないというのに。
脳裏に浮かんだ高尾を首を振って振り払う。らしくない。思えば初めてできた同年代の友人に、らしくもなく浮かれているのだろう。

(こういうときは無心に摘むに限るのだよ…!)

ぶちぶち、些か乱暴だが大事な部分は傷めないよう薬草をひたすらに抜いていく。どういうわけか少し照れくさくなった内心を押さえるように。
かごはどんどんかさを増していく。当初は大きすぎただろうかと自分でも思っていたかごは、いつしか全て埋まっていた。

「高尾、終わったのだよ」

言った後にはっと気づく。そうだ、俺は高尾を置いてここに来たのではなかったのか。我ながら馬鹿らしい。
それなら早くもどらねばなるまい。そういえば、と空を見上げると、朝陽が照らしていた青空が嘘のようにどんよりとした雲が空を覆っていた。

(予想外の出来事、とはこのことか)

今朝の占いを思い出す。まさかこんな天気になるとは。じきに一雨来るだろう、なおさら早く高尾のところに戻らなければ。天狗は雨のなかで上手く飛ぶことができないので、自力で下山できない俺も雨が降れば山に取り残されることになる。
自然と最初の場所に戻る足が早まる。踏みしめた藪を辿って行くと、ふとがさりと茂みの揺れる音が聞こえた。

「高尾、」

高尾はここには自分たちしか来ないと言っていた。ならばこちらに向かってくる黒い影は、高尾のものに違いない。あいつも俺と同じ考えだったのだろう。

「高尾、こちらはもう終わった。早く帰るのだよ」

鼻を雨の匂いが擽る。本格的に降りだしそうだ。
両手で藪を掻き分けて、高尾のいる方へ急ぎ足で進む。そういえば一度も返事がなかったが、騒がしいあいつが珍しいものだ。

「……う………ぐ…………」

なにやら呻くような音も聞こえる。もしかしたら、また怪我でもしたのだろうか。いや、それにしては動きが俊敏な気がする。

「……っ!?」

ぞくり。背筋を得体の知れない悪寒が走った。なんだこれは。
……そういえば、高尾はあんなに黒かったか?光の加減にしては、全体があまりにも黒い、いや、暗いような。
まただ。今度は額に嫌な汗が浮かぶ。なんなのだ、この不安は。気づけば脚は完全に止まっていた。しかしその影は立ち尽くす俺に向かって静かに近づいてくる。
……高尾はあんなに静かに歩いていたか?そもそも、なぜあの方向から来たのだ。俺が踏みしめた藪とは違う方向から、なぜ。
違う、あれは、高尾ではない。
なら何者?ここに足を踏み入れる天狗はいないと聞いた。ならあれは一体、

「真ちゃんっ!」

突然腕を力任せに掴まれる。予期せぬ衝撃になすすべもなく引き倒される体は、地面に達する前に背に回された手によって宙へと浮き上がった。

「大丈夫!?怪我してない!?」

「っ……、高尾…!平気、なのだよ」

「良かった…間一髪、ってとこかな」

うまく回らない頭で必死になって状況を理解しようとする。ああ、俺は高尾に抱き上げられ、再び空へと誘われたのか。
安堵したように、けれども真剣な顔のまま息をつく高尾の視線を辿る。俺が目指していた先には、おぞましく蠢く黒い「影」が微かに見えた。

「……しかしなぜお前は急に」

「真ちゃんが戻って来るまで昼寝でもしてっかなってさ、あそこでぼーっとしてたんだよ。そしたらさ、いきなりすごく嫌な気配を感じたんだ」

「あいつ、いや、あれのことか」

「たぶんな。あれが何なのかはわかんねえけど、絶対に近づいちゃだめなのだけはわかる。なんかさ、気配を感じたときにお前の占い思い出したんだよ。そんで、気がついたら駆け出してた」

所々早口になりながら、高尾が一気に捲し立てる。相当焦ったのだろう。額に滲んだ汗は、俺の比ではない。
そうだ、もしかしたら。頭にある仮説が浮かぶ。
あの影は、赤司の言っていた影法師ではないのか。おぞましい姿、迷わず俺の方、妖怪の方に近づいてきたあの影。確証はないが、それでも心のどこかで確信していた。あれは影法師だ。あのまま高尾が来なければ、俺も襲われていたに違いない。

「……高尾」

「ん?なに真ちゃん、」

「……助かった、のだよ」

ぼそりとした声が限界だった。けれど、感謝の気持ちはきちんと伝えなければいけないと思った。あれが本当に影法師なら、こいつは俺の命を救ったことになるのだから。

「っ……!や、いいって気にすんな!無事でよかったしさ」

高尾は一瞬ぽかんとしたかと思うと、慌てて俺から顔を背けた。俺の方に向けられた耳がうっすらと赤い。声もどこか上擦っていて、どうやら照れているらしい。
礼を言われて照れるなど、俺も人のことは言えないが意外だった。高尾の性格なら、人に感謝を向けられる機械も多いだろうに。俺のぎこちない謝辞よりも、もっと素直な礼の言葉を。
……なぜが俺まで照れ臭くなってきた。柄にもなく礼を述べた上に赤くなった頬を見せるのは癪なので、しがみついた高尾の胸に頭を埋めておいた。気づかれないように。


◆◆◆◆


「……そうか、わかった。報告ご苦労様」

深々とお辞儀をして部屋を出た兵士を見送り、仕事用の机に向かう。早急に文をしたためなければ。少なくとも雪の村と猫の岩屋にはこの件を伝えねばなるまい。

「赤ちん、どーしたの?」

「敦。色々大変なことになったのさ」

「んー、ミドチンが言ってたみたいな?」

「ああ。影法師とやらが、少々調子に乗っているようでね」

僕の使命はこの里を守ることだ。それが長としての役目であり、今の僕に求められていることだから。

「ふーん。何かするの?」

「狐の里の境界を、封鎖しようと思うんだ」

何人たりとも、僕の里を脅かすことは許さない。




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