「しっかり掴まってろよ真ちゃん!」

高尾の腕が腰の方に回される。次の瞬間、俺の身体は意図も容易く宙へと舞っていた。

「どう?空飛ぶの初めてだよな?」

「当たり前だ。……すごい、な。地上を離れるというのは」

らしくもなく、素直に感嘆の声が漏れる。先程まで足をつけていた筈の地面は既に遥か彼方に思え、初めて経験する空の浮遊感に不思議な高揚に似た何かが襲ってきた。
戦闘に慣れている種族だからか、よく見るとしっかりと筋肉のついている高尾の腕は、俺を落とすまいと固く俺の腰と膝裏を支えている。俺もうっかり落ちてしまわないように、と高尾の首のあたりに腕を回した。
眼下に広がるのは、朝焼けに照らされ佇む屋敷。いまだ誰も目覚める気配のないこの時間に出立したのは、高尾から聞いた天狗の山の日の出に興味が湧いたことと、僅かばかりの後ろめたさのせいだ。

「俺たちにしたら日常茶飯事なんだけどね。乗り心地はどうよ?」

「……悪くはないのだよ」

高尾は俺より幾らも小さいというか背丈が無いというのに、つらそうな様子を微塵も見せずむしろ涼しい顔で俺を抱えて飛んでいる。飛び立つ直前に何やら詠唱していたが、どうやら術で風を操り気流を作り出しているらしい。意外と考えているようだ。

「つーかさ、いいの?誰にも言わないで来ちゃって」

「ああ。むしろこの方が好都合だ。やましいことなど何も無いが、赤司に見つかると引き留められるかもしれないのだよ」

あいつ、赤司はどうも俺や紫原に過保護な節がある。高尾についてのことは既に伝えてあったのであまり警戒はされないとは思うが、さすがに天狗の山にまで出掛けるとなると渋られるかもしれない。以前天狗には深く関わるなと言われたこともあったのだから、尚更。

「そっか、ならいいけど。じゃ、飛ばすからしっかり掴まってろよ!」

高尾は深く尋ねることもなく、大きく翼をはためかせると一気にその速度を上げた。頬を凪ぐまだ冷たい風が切りつけるように襲い、無意識の内に高尾にすがるように縮こまる。
高い場所に怯えたり、突然の速さに驚くなどといったことはしないが、やはり不慣れなだけあって物理的な感覚には敏感になる。この腕がすがりついているこいつは天狗で、狐とは違うのだと今更ながらに気づく。高尾は痛みすら感じていない様子で、むしろ気持ち良さそうに風をきって高度を上げてゆく。

「そういうお前も、狐を山まで連れていっていいのか?俺はどこから見ても行商人には見えないし、そもそも正規の道で入るわけではないのだろう」

行商などほんの僅かだが残されている狐と天狗の交流は、木々が生い茂る山肌を無理矢理切り開いた険しい山道を通るのが常だ。天狗の方は飛べばいいのだが、狐はそうはいかない。
だから狐は獣道と言った方が正しい道を、掻き分けながら進んでいく。そのため天狗の村に行く行商人といえば、年の功を感じさせる屈強な雄ばかりなのだ。
俺も人並みには鍛えているし、戦闘の腕もある方だとは思うが、如何せん若すぎる。仮に天狗に見つかったとしたら、真っ先に警戒されるに決まっている。

「多分平気、普通の天狗は滅多に来ないとこだから」

「そうなのか」

「ああ。つーかその場所、お前以外誰も連れてったことないし」

それならば安心か、と頷いたところで、高尾が不意に高度を下げた。叩きつけるような気流に固く目を瞑ると、高尾の服の袖で顔を覆われる。呼吸も楽になり高尾の方を見ると、高尾は俺に目を合わせにやりと笑い、着いたぜ、と地上に目配せした。
彼の指が示す方に目をやると、鬱蒼とした森の中に少しばかり開けた、ちらほら花の咲く広場が見える。ああ、確かにこのような場所ならあまり知られてはいないだろう。

「あの花もいい薬になるものなのだよ」

「へえ。良かった、摘み放題だからな!」

「礼を言うのだよ、高尾」

「いーってことよ!へへ、これで恩返しってことだな!」

高尾は屈託なく俺に笑いかける。その瞬間、忘れかけていた胸の奥がむず痒くなる感覚が甦る。
またこれだ、こいつが笑うたびに、俺は。ただ笑うだけじゃない、俺がこの表情を造っているのかと思うと。
俺には同じ年頃の友人がいない。赤司や紫原は同い年だが、あれはもう家族のようなものだからまた違うのだろう。
愛想が無く近寄りがたい性格だというのは理解している。もっとも、必要以上に他人と関わることは好きではないし、何よりこれが生まれ持った質なのだから仕方がない。どうにかしようとも思っていなかった。
だからこうやって、こんなにも俺に友好的に近づいてくるやつなど今までいなかった。こいつにしたら恩があるから、といったところなのだろうが、それでも。そもそも、まさか礼をしに来るなど思ってもいなかった。

(どうしたらいいか、わからないのだよ)

友人とはこういうものなのだろうか、とらしくもなく思ってしまう。
ただひとつ解るのは、恩だとかを差し引いても俺に好き好んで関わろうとするなど、こいつは相当の物好きに違いないということだ。



◆◆◆◆


一日と少しぶりに訪れた天狗の山は、いつもと変わらず穏やかに夜明けを迎えようとしていた。白み始めた空を眺めるふりをして、草むらに横たわりながらちらちら真ちゃんを見つめる。
伊月さんに教えてもらったこの場所は、薬草がたくさんとれる秘密の場所らしい。けれど天狗には薬師がほとんどいないのであまり手もつけられておらず、伊月さんから好きなだけ採って大丈夫だと言われてきた。
真ちゃんはといえば、着いたとたんに色々な草花を物色しはじめ、もう既に持ってきた篭は半分ばかり埋まっている。真剣な瞳で薬草を摘んでは品定めする横顔は、月明かりと僅かな朝陽の両方に照らされて、なんというか、すごく、綺麗。

(くそ、どうすんだよこれ……)

目を細めて思い出すのは、飛行中のこと。律儀に俺に掴まって、速度を上げれば風を避けようとしがみついてきて。胸に埋められた頭とそこから生えた毛並みの良い耳が俺の首筋を擽るのがもう、なんとも言えなかった。あのとき絶対俺にやにやしてたし。可愛すぎんだろうが、この野郎!これが惚れた弱みというやつか。
ともかく、これで俺は確信してしまった。自分の気持ちに素直な自覚はあるが、やはり一目惚れというのはどうなのかと自問自答してきた。しかも相手は雄ときた。
けれど、考えれば考える程、自分が彼に惚れない筈がないとだけ思えてくるのだ。真剣な眼差し、並の雌よりずっと綺麗な顔立ち、少しきつめな所、それでいて案外優しいところ。
俺の好みのど真ん中すぎんだろ。自分の綺麗さとか可愛さに自覚がないのが俺としては辛いけど。まあそれも、相手が真ちゃんだからなんだよなあ、なんて。

「おい高尾」

「はいっ!」

びくぅっと身体が面白いくらいに跳ねた。あれ、昨夜もこんなことあった気がする。
いや、そんなことはどうでもいい。声をかけられ慌てて上体を起こすと、いつの間にか隣に真ちゃんが佇んでいた。

「なぜ敬語なのだよ」

「いや、いま正にお前のことを考えていたというか」

「……は?」

「あっいや何でもねえよ!そうだほら見ろ、もうすぐ夜明けだぜ!」

危うく変なことを口走るところだった。危ない危ない。強引に話題を逸らして、なに食わぬ顔を無理矢理作り空を指差す。
真ちゃんは一瞬怪訝そうな顔をしたものの、聞き返すことなく俺の横に腰を下ろし空を見上げた。

「空が近いのだよ」

「そりゃあ、狐の里より標高高いし」

「そんなことはわかっている。それより高尾、お前は風を操れるようだな。それでこのもやを晴らせるか?」

真ちゃんがぽつりと呟いたかと思うと、いきなり俺の術について聞いてきた。訳がわからず即座に聞き返す。

「は?いやそんくらいお安いご用だけどさ、何でよ」

「なら頼む。星が消えてしまう前に」

空を見上げたままの彼は、ぞくりとする程美しく、真摯に薄くかかったもやの向こうを見つめていた。
もやは朝方によくあることなので、この程度ならいくらでも晴らせる。返事をするよりも早く、俺の口は術式の詠唱を始めていた。

「ほら、晴れたぜ」

「よし。ならば、ここからは俺の番だ」

真ちゃんは立ち上がると、うっすら星影の残る空に左手を突きだす。よく見ると、その手先には何か包帯のようなものが巻かれていた。

「いきなりどうしたんだよ」

「星占いだ」

「は?占い?」

「俺にできる術のひとつで、日課のようなものだ」

簡素に答えると、彼は目を瞑り息を潜める。あまりの真剣さに、つられて俺も呼吸を飲み込んでしまう。
驚いた、真ちゃんてば薬師の上にこんなことまでできんのかよ。
ああしかし、あんなに神妙な面持ちで頼んできて何かと思えば占いでした、というのもまた変な話だ。

「……なあ、それ毎日やってんの」

「ああ。これをしないと命に関わるのだよ」

「はあ!?」

「いいから黙って見ていろ」

……なんなんだ、益々訳がわからない。命に関わる?占いをしないと?どういうことだ。
言われた通り黙って見ていると、ふ、と左手が下ろされる。

「……で、どーだったの」

「ああ、要約すると“予想外の出来事に注意“といったところか」

「んだよそれ」

首を傾げていると、馬鹿にしたように鼻で笑われた。全くもって心外である。
わけわかんないに決まってんだろ。

「俺の占いはよく当たるのだよ。今日一日、油断なく過ごせということだな」

「それって俺にも当てはまんの!?」

「当然だ。少なくとも、俺と離れるまでは」

ああそっか、そういやまだ薬草は篭半分くらいだし必然的にそうなるのか。
しかしまあ、占いねぇ。これまた乙女みたいな趣味だ。
あまりの強引さに若干戸惑ったものの、そんなところも可愛いと思ってしまった俺はもう相当こいつに毒されているのだろう。

「そっかー。んじゃ、気を付けてみっかな」

「そんなに適当では駄目なのだよ!もっとしゃきっとしろ」

「いって!?ちょ、んな怒るなって!」

ぺち、と軽く頭を叩かれて、占いを馬鹿にするなと諭される。別に馬鹿にしちゃいねえよ。ただ占いなんて、当たるも八卦当たらぬも八卦だろ?

(真ちゃんの術で出た結果だ、そりゃ信用はするけどよ)

もうじき日が昇る。それにこの山は俺の庭のようなものなのだから、そうそう危険になど見舞われないだろう。相変わらず真剣に諭そうとする真ちゃんに、堪えきれず吹き出した。


◆◆◆◆


とにかく、この時俺は馬鹿にしたとまではいかなくとも、そこまで占いを気にかけなどしなかった。それがいけなかったのかもしれない。
幾らも経たない内に俺は思い知ることになるのだ。彼の占いは、本人の言った通りによく当たる。




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