「で、なにがあったか当然聞かせてくれるよな?」
リビングの机に肘をついて、得意の笑顔で問いかけた。目の前に座るのは緑間。緑の髪はまだほんのりと湿っている。
湯気の立ち上る二つ並んだコーヒーカップは俺が飲みたくて淹れたものだ。普段は使わない角砂糖が山になっているのも、甘党の緑間に残されたら処理が面倒だからであって、断じて雨に濡れて体を冷したこいつのためではない。
ちなみに服はたいしてサイズの変わらない俺のものを特別に貸してやった。汚したら轢くから覚悟しろ。
「……とても嫌なことがあったんです」
「見てりゃわかるわ」
んなこと言われなくてもわかるっての。どことなく躊躇ったような、暗い話し方が気に入らない。お前はもっと案外ずけずけ言うやつだっただろうが。
「てか、そういうことなら俺を頼るより高尾に話した方が早いんじゃねえの?」
たしか緑間は、恋人である高尾と所謂同棲をしていたはずである。そりゃあもう、見ているこちらが苛つくほど仲睦まじく。
ついでに高尾も男であるが、緑間以外は眼中にないようなやつだった。後輩が男同士で、と最初はびびったが、慣れればそれが当たり前になってしまい、人の順応性は想像以上に恐ろしい。
とにかく奴等は部活の時も学校生活でもいつもべたべたしていて、あまりのうざさに俺が何度轢くぞと叫んだかわからない。
だからこそ、何かあったのなら高尾を頼るべきではないのか。そう思い率直に意見したのだが、かき混ぜていたコーヒーから顔を上げた俺は、思わず目を丸くするはめになった。
「おい緑間、なんで泣きそうになってんだ」
おかしい。これはおかしいだろう。無駄にプライドの高いこいつの泣き顔なんて、高三のときのウインターカップ後くらいにしか拝んだことなどないというのに。
さすがに涙をこぼしてはいないが、歪んだ顔は見るからに泣き出す寸前のようだ。つまりなんだ、これはあれか。
「……高尾と何かあったのかよ」
ぐっと言葉を詰まらせる緑間に、どうやら俺は図星をついてしまったようだ。びくっと控え目にではあるが震えた肩からは、口を開かずとも何かあったことは明白だった。
まったく、面倒なことになったものだ。俺を巻き込んでんじゃねえよ。
しかしながら、事情もわからないので無下に追い返すわけにもいかない。はあ、とわざとらしくため息を吐き、続きを促そうとしたところで緑間の方から口を開いた。
「……高尾に、愛想をつかされました」
「はあ!?」
がたんと手元のコーヒーカップが揺らぐ。今度は俺が目を丸くする番だった。
あの高尾が?いや、ありえねえだろとつっこみたい。
後輩に言うのもなんだが、あいつはああ見えて誠実なやつだった。というか、高尾は緑間にベタぼれだった。自ら進んで偏屈の緑間に寄り添って、変な乗り物まで引いて、緑間のわがままにもつきあって。高校時代も一途に緑間に世話をやいていたし、卒業後にいたっては同居まで始めるほどだ。
今はいないが、俺だって今までの彼女と同居に至ったことはない。それはまあどうでもいいが、とにかく高尾は高尾なのだ。こいつらが離れるなど、俺としては想像できないというのに。
「どういうことだ」
「高尾に、彼女ができたみたいなんです」
だからどういうことなんだ。高尾は顔も性格も悪くなくて、むしろいい男なのだから、彼女ができるのは当然だ、と何も知らない奴なら真顔で言えるだろう。
しかし、前述の通り高尾は緑間一筋だったはず。あいつに限ってそんなこと、と言いたいのだが、緑間の様子は、どこか確信めいていた。
「最近高尾が家に帰るのが遅くて、それだけなら忙しいんだろう、と思えたのですが、この間、夜に買い物に出たとき見たんです」
なにを、だなんて聞かなくてもわかる。つまり、緑間は高尾が彼女といるのを見たと。ますます信じがたい。
「見間違いじゃねえのか?ほら、妹とかよ」
「……高尾の妹くらい、俺でも知っています」
そりゃそうか。大会でも何度か応援に来てくれてたもんな。歳は知らないが、はつらつそうな高尾によく似た少女だったはず。
緑間は裏切られた悔しさからだろう、下を向いて静かに唇を噛んでいた。普段は生意気なその口も、こうやって閉じてしまうとなんだか面白くない。
「で、お前は高尾のとこに戻る気はないのな」
こくん、と緑色の頭が控え目に揺れた。
「……いい人ができたなら、高尾にとって俺といるよりずっといいことのはずなんです」
神妙な面持ちで語る後輩に、思わず二度目のため息が漏れた。なんでこういうときに限って素直になるんだよ。何だかんだでお前が高尾を大切にしているのは知っていたが、ここまで聞かされたら黙って追い出すわけにもいかなくなったんだけど。
「で、お前は行くあてがないから俺のところに来たってわけな」
「……はい」
「ここに住むつもりか?」
「……迷惑でなければ。新居が見つかるまで、お願いします」
まったく、こいつは何を考えているんだ。迷惑に決まってんだろうが。独り暮らしのところにいきなり大男に転がりこまれるなんて事態、普通は有り得ない。
しかし、項垂れる緑間というのも見ていて気分がいいものではない。らしくもなく肩ちぢこませて俯いてんじゃねえよ、もっとお前らしく生意気にしてろってんだ。
「はあ……食費は払え。俺に迷惑かけないって誓うんなら、置いてやらないこともない」
お願いします、と頭を下げたところだけはまあ褒めてやる。いいか、これはお前のためじゃねえ。お前らを放っておいたら余計面倒なことになりそうだから、と俺は高校生活で学んだ経験から割り出した結果だ。高校時代に喧嘩をしたこいつらを放置していたら、巻き込まれて痛い目を見たのは今でも覚えている。
詳しい事情はわからない。ただ俺が知っているのは、緑間が高尾を大切にしているのと同様に、高尾も緑間をうざいくらいに大切にしていたということだ。
緑間の証言だけでは浮気だと判断するなんてできない。高尾だって一応俺の後輩だから、まだ信じてやらないこともないのだ。
これでもし本当に浮気だったら、轢くところじゃ済まさねえから覚悟してろ。ここにはいない高尾に毒づいて、とりあえず今後どうしようかぼんやりと考えた。
水槽のさかな
止まない雨音の中でポケットに入れた携帯が小さく鳴いたことに、俺はまだ気づかない。
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