05 [ 6/6 ]
じゅる、と。 高尾の舌が俺の唾液を絡めとって、そのまま離れていく。かと思えば、もう一度噛みつくように口を塞がれ、息ができなくなる。
「っは、……おい」
「ん、なに?」
なに、と聞く意思を示しているようで、実際そんなつもりは更々ないのだろう。俺が口を開くより先に再び唇を押し付けられて、僅かな隙間から差し込まれる舌が口のなかを蹂躙していく。 朝っぱらから何をやっているのだろう、とうまく働かない頭でぼんやりと思考した。目が覚めて、いつの間に潜り込んでいたのか高尾が隣で寝ていて、叩き起こして。 それでこうなったとかどういうことだ。もう今さらだけれど。 くそ、もう酔っぱらいの戯れ言などでは済ませられないのだろうな。この行為は。先週末の、あの夜は高尾が酔っていたから言い訳できたが、今はそんなことあり得ない。 なぜ自分は甘んじて受け入れている。本気で抵抗すれば確実に勝てることなど分かっているのに。 いや、なぜだなんて、本当はもう知っている。高尾の「ホントに嫌ならもっと抵抗しろ」という言葉の通り、結局俺もそういうことなのだ。それこそ、どうしてこうなったと言うべきなのだけれど。
「真ちゃん」
高尾の低い声が耳元で囁かれて背筋がぞくりとした。劣情を隠そうともしない、熱を孕んだ声。 最近は無意識に高尾のいる番組を見るようになった。ステレオ越しに聞き慣れたそれよりも数倍響く、普段の様子とは裏腹な落ち着いた声が。
「っ!」
節の目立つ指で頬を撫でられる。その手は徐々に下へ滑り、口端の唾液を拭い、唇に触れ、首筋を擽り、そして。
「やめるのだよ!」
「ぐおっ…!ってー…まだお預けなの?」
「お預けもなにもあるか!第一いきなり、」
「ねえ真ちゃん俺そろそろいける気がするんだけどダメかなねえ優しくするからさ」
「っ、鼻息が荒いのだよ!」
高尾の指先が寝間着の第一ボタンを外したとき、思わず両手で突き飛ばしていた。だっていくらなんでもそれは行きすぎだろう。いくら俺がそういうことに疎いと言えど、それがどういう行為でどういう意味を持つかくらいは理解しているつもりだ。 別に高尾とは恋人だとかそういうわけじゃない。それを考えると相当変な関係な気もするが。ただ高尾に与えられるまま、流されるまま。しかしこれはさすがに流されるわけにはいかない。まず俺も高尾も男なのだよ。懲りずにすりよってくる高尾の頭を掴み無理矢理押し返す。
「先っちょだけでいいから!」
「おっさんか!」
すごくどこかで聞いたことのある台詞が飛び出してきたので腕にこめた力を増やす。なにがアイドルだ聞いてあきれるのだよこの馬鹿が。 先程までの雰囲気はどこへやら、いつの間にか慌ただしくベッドの上で騒いでいる。これが正常なのだ、なのにどうしてこの男は。
「ちぇー…。今日こそ行けると思ったんだけど」
「なにを根拠にそうなるのだよ」
「もう真ちゃん俺の恋人になって幸せになっちゃえよ」
会話が噛み合わないのはいつものことだから置いておくとして。……恋人、か。 頭の片隅でそれでも構わないなどと考えてしまう自分がいて、どうしようもない気持ちになる。これだけのことをしているのだから、いっそそうなってしまった方が丸く収まるのかもしれない。 けれど逆に、そういう関係でないのにここまでしてしまって、境目を見極められないのもまた現状で。本当におかしい、中途半端な関係だと思う。なにより流されるまま高尾の掌の上で転がされているような今の状況が悔しくもあった。 なにか変わる切っ掛けがあればいいのに、なんて。そう思うのは女々しいだろうか。
「だから冗談ではぐらかすな」
「うう…また振られた…」
曖昧な返事をしてはぐらかしているのは果たしてどちらなのか。 わざとらしく項垂れる高尾の頭に触りたくなった衝動を慌てて隠す。そうやって何度もぶつけてくれれば俺もいつかは、だとか。だめだ、もう俺も相当な手遅れだ。 気がつけば芽生えていた感情は、絶対に口には出さないけれど。
◆
「いやー嬉しいね、真ちゃんとデートなんて」
「黙って運転するのだよ」
「照れなくていいんだぜ?」
鼻で笑ってやると高尾は悔しげに頬を膨らませた。ちなみにこれはデートなどではない。断じて。 高尾の写真集が発売される。俺がなかば無理矢理写されたやつだ。自分の写真写りが良いとも思えないのでわざわざ見たくなるようなものではないのだが(むしろ黒歴史になったかもしれないのだ)、高尾に是非一緒に来てくれと頼み込まれて、帰りにまたあの甘味処で奢るという条件で同行することにした。久々に甘いものが食べたかったから、半日くらいなら高尾に貸しても損ではあるまい。 なぜただの発売日なのに高尾が出向く必要があるのかと言えば、同時に握手会を開くらしい。それに俺は手伝いとして少しだけ顔を出せばいいそうだ。臨時のマネージャーのようなものだろう。後は、撮影のときの関係者と顔を合わせてほしいのだとか。なんでも俺に興味があるようで、さすがに撮影のときろくに挨拶もせず去ったのはまずかっただろうか。物好きがどこにいるかわからないことは証明されたので、また黄瀬のときのように電話が来たらとか考えているのかもしれない。
「到着っと。真ちゃん気を付けてね」
会場に着くとそこは長蛇の列で、皆が皆若い女性というのがやたらとシュールだった。彼女たち皆が高尾の手を求めているのか。それを考えると女性で良かった。もしここに並んでいるのが屈強な男たちなら逃げ出したくなるだろう。
「……真ちゃん?」
「ああすまない、圧倒されていたのだよ…」
高尾に声をかけられはっと我に返る。こいつが本当に芸能人なのだということを思い知らされた気分で、変にもやっとした感覚がわいてくる。その正体はやはりわからないのだが。 高尾の手伝いと言うのは高尾を隠して会場のなかまで連れていくというだけだった。本来ならマネージャーなどの仕事なのだろうけれど、高尾は大抵のことを自力でできるらしくマネージャーにはスケジュール管理だけしてもらっているらしい。本人は自由がいいからなどと言っていたが、それはまあどうでもいい。とにかく、高尾は深く帽子を被っていたし、俺の高身長も幸いしてか至極簡単な仕事だった。
「じゃ、真ちゃん待っててね!終わったらデートだからな!」
「早く行け」
「うー…相変わらずツンなんだからー…」
わざとしょぼくれて未練がましく手を振る高尾に仕方ないから手を振り返して、自分は控え室へ向かう。ほんの一時間くらいらしいので、暇潰しに持ってきた本を読んでいたら問題ないだろう。高尾の言っていた関係者にも挨拶をしておかなければ。
「失礼します、」
「あらいらっしゃい!待ってたのよ、緑間さん、だったかしら?」
控え室の扉を開くと突然嬉々とした声がして、思わず身体を強張らせた。部屋のなかには一人だけ、艶やかな黒髪が肩のあたりで切り揃えられた女性が……女性?それにしては随分声の低い、それに上背も俺に迫る勢いで。
「すみません人違いです」
これは俗にいうおネエというやつだろうか。人を見掛けで判断してはいけないと言うが、此方をねっとりと見つめる視線に込められた熱が痛いほど伝わってきた。逃げるしかない。これ以上変な知り合いを増やしてたまるものか、
「あらあら、逃がさないわよ?」
ぽん、と肩を叩かれる。立ち去ろうと彼に背を向けたその矢先。恐る恐る振り向くと後光が射すかと錯覚するような満面の笑みが俺を迎える。
「綺麗ねえ、緑の瞳とかいいわぁ…。まあ私の好みは高尾ちゃんみたいな子なんだけど、あなたみたいな子も素敵よ」
「……高尾の知り合いなのですか」
ということは、彼が高尾の言っていた関係者なのだろうか。しかしこの男、相当危ない香りがする。だって高尾が好みとか言っているあたりガチだろう。そんな輩に素敵よと言われたところで困惑しかできない。
「あの、俺は」
「いいのよ貴方のことはもう知ってるわ!申し遅れたけれど、私はヘアスタイルとメイク担当の実渕よ。よろしく」
強引に握手を求められつい応じてしまう。しかし握力が異常に強くてなかなか離してもらえないのはなぜだろう。 実渕と名乗った男はじっと俺の顔を見つめていたが、そのせいで俺がたじろいでいるといきなり手を離し胸の前で掌を合わせた。
「やっぱりお化粧が映えそうな顔してるわー!実は撮影の日から目つけてたのよ。さ、こっちへ来て」
「なんなのだよ!?」
彼は突然俺の腕を両腕でホールドしたかと思えば、ものすごい力でずるずると控え室の奥まで引きずりこんで行った。そして抵抗する術もなく彼が促すままに鏡の前に座らされ、頭上では男がにっこりと微笑んでいる。
「高尾ちゃんにお願いした甲斐があったわ。どうしても貴方をいじってみたかったのよ。元が美人だからナチュラルな方がいいわよね」
「は」
なにか反論するよりも早く慣れた手つきで髪を弄られる。彼があまりに楽しそうというか嬉しそうだったのと混乱してついていけないのもあって完全にされるがままだ。なんだか高尾と知り合ってから混乱してばかりな気がする。知らない世界に何の準備もなく(その気もなく)飛び込んだのだから無理もないことなのだろうが。 というか俺が今この男にいいようにされているのは高尾のせいか。他人事だと思って易々と受けるとは許せない。決めた、後で最大級にお高い和菓子を奢らせてやる。どうせ稼ぎはたくさんあるみたいだし、これくらいされて当然なのだよ。
「できたわよ。ほら、一段と綺麗になった」
「……はあ、」
いつの間にか全ての行程を終えていたらしく、実渕さんは満足げに鏡を指差した。これが少女漫画ならこれが私!?みたいな展開になっていたことだろうが、残念ながら俺は男である。俺からしてみれば自分の目が少し潤んで、睫毛が伸びたように見える以外は普段の見慣れた顔なのだけれど。そんなに大差あるのだろうか。ああ、髪の左側がピンで留めてあるのはいつもより若者らしいかもしれない。
「はー…つっかれたあ、真ちゃんお待たせ、」
「あら高尾ちゃん!見て、綺麗でしょう?」
相変わらずついて行けずにぼんやり鏡を眺めていると、キイとドアが開く音がして聞き慣れた声が背後に響いた。反射的に振り向くとそこには僅かに疲労を見せた高尾がいて、なにか声をかけようとしている間に実渕さんが先に口を開く。
「うおっ……!さっすがレオ姉さん」
「うふふ。こちらこそありがとね、久々にこんな綺麗な子に出会ったからつい無茶なお願いしちゃって」
高尾は実渕さんへお礼を言うとこちらへ歩みよってきた。つい身体を強張らせてしまうのは人前で変なことをしないだろうなという警戒心からだ。目が、なぜかぎらぎらとしている、ような気がするし。
「やっぱ真ちゃんマジ美人!それじゃあそのままデート行こ、今すぐ行こ!」
「あらぁ、お熱いわねえ。貴方も高尾ちゃんみたいな彼氏がいてうらやましいわ」
「全然そんなんじゃないのだよ」
右に高尾、左に実渕さん。板挟みになって逃げられない。高尾の鼻息は心なしか荒いし、実渕さんは変なことを言っているし。とにかく高尾、デートというのは大きな誤解を生むと思うのだよ。
「そーなんすよ、残念ながら真ちゃんとはまだ仲の良いオトモダチなんすわ」
「あら……」
驚いたように口元に手を当てる実渕さんにはもう弁解しないことにした。色々と体力を使う。 高尾は俺の手を掴みにこりと笑った。そうだ、今からこいつにたらふく奢らせるのだったと大人しく荷物を掴み実渕さんに別れを告げる。この格好で外を出歩くのは変な感じがしたが、今更仕方がないので考えないことにした。 けれど。
「友達……」
「ん?どしたの真ちゃん」
「いや、なんでもないのだよ」
高尾が実渕さんに告げたことはなにも間違っていない。しかしどういうわけか、高尾の言う「友達」という言葉が妙に胸に刺さる気がした。
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