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風呂上がりにテレビをつけると何度か耳にしたことのある音楽が部屋に響き、画面にはフラッシュと共にきらびやかなステージが映る。その中心でマイクを片手に大きく手を振っているのはなぜか見慣れてしまった男。 画面から目を離しそっと後ろを振り返ると、此方を心底楽しげに凝縮している二つの眼差しと目が合った。 もう一度液晶に目を向ける。黒髪の男が観客に向けて投げキッスのモーションをした。女性の黄色い声がスピーカーから溢れだす。もう一度後ろを振り返る。画面の中と同じなりをした男がにいっと笑って投げキッスを放った。俺の眉間に皺が刻まれる。
「嬉しいね、俺の番組見てくれてんだ」
「単なる偶然なのだよ。お前はまだ帰らないのか」
溜め息混じりに男の方へと歩いてゆく。人の部屋に上がりこみ、ソファにぐでっと横たわる高尾はんーと力なく返事をした。
「今日は泊めてよ。夕飯も作っといたぜ?真ちゃん風呂長いから」
「客用布団は洗濯中なのだよ」
「気にすんなって。雑魚寝でもいいし」
ソファの前に鎮座するテーブルの上にはいつの間にやら湯気をたてるスープとオムライスが二人ぶん。俺が風呂に入っているものの二十分程度の間に高尾がこしらえたらしい。どおりで物音がしたわけだ。 しかし勝手に人の台所をだとかそれどころではなく。ソファの脇まで歩み寄った俺の腰にはごく自然に腕が回され、上体を起こした高尾の隣にこれまた自然に座らされる。
「おい、」
「いつも学校お疲れ様。一緒にごはん食べよ?」
高尾の指差す先にはかぐわしい香りを放つ暖かい食事。なかなか腹も空いていたので、口のなかを唾液が満たす。 講義が終わり校門をくぐると、待ち構えるようにしていた高尾の車が寄せられていた。というのが今日の発端である。そのままこの部屋まで送られて、とりあえず高尾は放置して風呂に入って。 因みにあれ以来宣言通りに高尾は俺に近づいてくるようになった。初めは鬱陶しくも思ったが、早々に抵抗しても無駄だと気づいたので諦めた。人間の順応性は素晴らしい。相変わらず理解不能な行動も、大抵のことなら今では軽く流せる程度にはなった。
「宿代これじゃ足りねえかな」
「……ソファでいいなら泊めてやる」
「やった!」
スプーンでオムライスをつつき高尾が笑う。気がつけば何やらアルコール飲料らしき缶もテーブルの上に無造作に乗せられていて、ああこいつ飲む気なのだな。もとから泊まる意外の選択肢がないではないか。ここで無理矢理帰したら俺まで捕まるかもしれない。
「かんぱーい」
「いや、俺は、」
「明日休みなんだし飲んじゃいなよ。たまには全部ぱあーっと忘れちゃってさ」
こつん、と冷たい缶が額に押し当てられる。酒は嫌いではないがあまり強くないので片手で押し返そうとしたけれど、見せつけるようにして自身のぶんを口に運ぶ高尾に気が変わった。一本くらいならまあいいか。高尾の手から缶を受けとりプルタブを開ける。柑橘類の甘い香りが鼻の奥に広がった。
◆
部屋に響く目覚ましの音に慌てて上体を起こす。まずい、いつの間に寝てしまったのだろう。今座っているのは俺のベッドの上で、けれど昨晩はベッドに入った記憶がない。窓の外はもう明るくて、ずきりと痛む頭に燦々とした光は眩しかった。
「おはよ。二日酔い大丈夫?」
「高尾…。俺は昨夜どうなった?」
高尾と酒を飲んだことまでは記憶している。一本でいいと言ったはずなのに高尾は次々に勧めてきて、俺よりも早く酔いが回ったらしいこいつのごり押しを断り切れず流されてしまったのだ。 なんだか最近はこいつに流されてばかりな気がする。気がするだけじゃない、きっとそうだ。絶妙なタイミングで世話を焼いてくるのは事実だし、人が嫌がることはしない。なんだかんだで、俺も高尾のことを嫌いと言えなくなってしまった。恐るべし高尾。
「三本くらい飲んだらあっさり寝ちゃうんだもん。もっと真ちゃんと晩酌してたかったな」
「ここまでお前が?」
「そ。真ちゃん背ぇ高いけど軽いからなんとかなった!」
まったく、力の使いどころが間違っているのだよ。わざとらしく溜め息をついてみると、高尾はヒドッとこちらもわざとらしくリアクションを返してきた。
「……とりあえず礼を言うのだよ。風邪を引かずに済んだ」
「最初からそう言っときゃいいのに。素直じゃねえなあ」
ま、そんなとこも可愛いけど。などとまたおかしなことを呟きながら、ベッドの側までよってきた高尾の掌が軽く頭を撫でた。
「やめるのだよ」
「つれねえな」
「変なことを言うな」
手を掴んで離れるよう促す。そこまで酷くはないが二日酔いのようで、頭が揺れるたびにがんがんするのだ。微妙に痛い。それを察したらしく高尾は大人しく手を離し、そのまま隣に腰を下ろした。
「真ちゃん、もうすぐ俺仕事なんだけどさ」
「俺は行かないからな」
「ちぇっ。真ちゃんが見てたら普段の百倍頑張れるのに」
唇を尖らせて高尾が俯く。残念だったな、今日は黒子に借りていた本を返しに行かなくてはならないのだよ。それに昼間いなくてもどうせ夜になったらまた上がりこんでくるのだ、この男は。
「じゃあせめて行ってらっしゃいのちゅーして?」
「ふざけるな」
つんと唇に暖かいなにかが触れた。隣を睨むとにやにや締まりのない顔で腕を伸ばす高尾と目が合う。唇に触れた指は流れるように肩まで移動してきて、ベッドに片膝をのせた高尾が身を乗り出す。
「おい、」
「……たく、ホントに嫌なら、もっと抵抗しろよな」
「高尾、」
あ。二回目、だ。忘れられないあの感触が唇を掠める。ほんの一瞬だけ触れてすぐに離されたそれは指とは比べ物にならないほどあたたかくて、思考回路がまた停止する。
「へへ、奪っちゃった。じゃ、また夜来るから」
振り返る高尾の声は低くて、いつもの茶化すような様子など微塵も感じられなかった。部屋から出ていく背中を見ると妙に頭がくらくらしてきて、これも二日酔いのせいだろうか。 そうだ、二日酔いに決まっている。頭がこんなに回らないのも、やけに熱がこもるのも、気まぐれにつけたテレビのなかで笑う、偶然流れたあいつの笑顔に変になるのも、わけがわからないこと全部。
「嫌なら抵抗しろ、か…」
もうわけがわからないのだよ。なんでこんなことになっている。高尾に色々注ぎ込まれたせいで、俺はおかしくなってしまったのだろうか。
◆
「ただいま真ちゃん」
「なにがただいまだ」
「とか言って、夕飯きっちり二人ぶんあるのね」
「っ、それは」
予想していた七時の五分前、インターホンが鳴いて玄関の鍵を開ける。正直家にくる友人など両手で数えられるくらいしかいないので、どうせ高尾だろうと見切りをつけていたがやはり正解だった。 俺の脇を潜り抜けてリビングへと向かう高尾は適当に上着と帽子を脱ぎ散らかして、早速ソファに腰掛けた。ああ、ただいまというのもあながち間違っていないかもしれないな。そこはもはや高尾の特等席だ。もとから来ることがわかっていたから用意した二人ぶんの夕食も、つまりはそういうことか。俺もだいぶ感化されてしまっているのかもしれない。
「また飲むのか」
「ちょっと疲れちゃってさあ。酔っちゃいたい気分なのだよ」
テーブルの上にビールの缶を並べ始めた高尾の投げ捨てた衣類を拾い上げ、ハンガーにかけて壁際にやる。そういえばここもいつしか高尾専用のスペースになっている気がする。特に意識していなかったが、慣れと言うのは恐ろしい。
「はぁ…」
「どしたの真ちゃん、溜め息」
「……なんでもないのだよ」
それに高尾のこの態度。朝のアレを意に介さない、食えない態度に無性に腹が立った。本当に、何を考えているのだろう。 さすがに二日連続で飲むと週明けに響くのでビールははっきりと断って、久々に自力で調理した食べ物に箸を伸ばす。料理はあまり得意ではないが今日のはわりと上手くできた、と思う。お浸しと味噌汁と秋刀魚、それと白米。これならビールにもあうだろう。
「あー、真ちゃんのごはんまじうめえわ」
「人事を尽くしたのだよ」
「さすが。つーか尽くしてなくても、好きな子の作った飯ほど美味いものはないってね。ねえ真ちゃん、毎朝俺に味噌汁作る気ない?」
あ、こいつもう酔ってるな。ビール片手に肩口へすりよせられる黒髪を見遣る。健康的な肌は程よく上気していて、間違いなく酔っ払いのそれだ。
「……お前はなぜ俺に好意を寄せるのだよ」
手触りのいい、艶やかな黒髪に指先で触れてみた。瞬間にぴくりと驚いたような反応をされたが、嫌ではないらしくそのままぐりぐりと頭をさらに押しつけてくる。 口をついた言葉はずっと胸に引っ掛かっていたこと。酔った勢いなら口を割るかもしれないという淡い期待があった。だっておかしいじゃないか、こいつは俺の見た目をやたら褒めるが、それだけでずっといたいとも思うまい。全然掴めないこいつの本質というのを、少しでいい、垣間見ることはできないだろうか。
「んー……真ちゃんの全部が好きだから?」
「理由になっていないのだよ」
空き缶を放った高尾の腕が肩に回され、胸元に頭を埋められる。途中酒臭い息が鼻にかかった。「高尾和成」のこんな姿、他の誰にも見せられないだろうな、なんて。しかし酔っ払いに真面目な話を聞いても無駄なのか。まあ、予測できていた事態ではあるけれど。
「いい、わかった。とにかく酒は程ほどに、」
「まーでも一番はあれかなあ」
俺の言葉を遮るように、高尾の低められた声が胸にかかった。シャツ越しに吐息を薄く感じる。かと思えば、回された腕の強さが増して。
「初めて会った時、真ちゃん何も驚かなかったじゃん。自分で言うのもあれだけど、俺って有名人だし?だからすごく新鮮で、どうしようもなく嬉しくて、しかもすげー美人だし、話してると面白いし、初なとことか、可愛いしさあ」
「高尾」
「だから、真ちゃんが好きってのじゃダメ?」
ゆっくりと顔を上げた高尾の切れ長な瞳が細められる。その奥にはぼんやりとした、けれど情欲だとかそういう色が確かにちらついていた。 あ、食われる。薄い唇が動くたびに漏れる吐息はアルコールの香りでいっぱいで、それでもその唇が顔に近づけられるのを振り払えないのは。
「たか、」
それはいきなりのことで頭がついていかなかった。後頭部を掌でつつまれて。そして、やはり俺は払いのけることはしなかったのだ。 唇を割った高尾の舌が歯列をなぞり、息苦しくなり胸を叩く。だがこの酔っ払いはやめる気など毛頭ないらしく、くちゃ、と水音がやけに頭に響いた。 ああくそ、口のなかにアルコールが回るようで頭がぼうっとする。なぜ押し退けられないのだろう。なぜ嫌と思えないのだろう。なぜこんなに、心臓が煩いのだろう。
「っふ、……ぁ、」
「好きなの、真ちゃん、超好き」
「ん、」
わかった、きっと。もうとっくに毒されていたのだ。アルコールが身体中に回っていくように、俺は。
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