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最悪だ、の一言に尽きる。こんなことになるのなら黄瀬の口車に軽々しく乗るのではなかったのだよ、と数日前の自分を恨んでももう遅い。文句を言ったところで、何も見えない状態で無駄に広い建物を彷徨いている現状は変えられないのだ。
緑間っちにお願いがあるんス!と突然電話がかかってきたのはこの前の水曜日、講義を終えた午後四時過ぎだったと記憶している。黄瀬は中学からの知り合いで、今はトップモデルとして活躍しているはずなのに、こうして俺に連絡を寄越すことは珍しくなかった。
黄瀬の話によると、今度の日曜日、すなわち今日、の雑誌の撮影に急遽欠員が出たらしく、代役を探さなければいけなかったらしい。ところがその仕事をドタキャンしたモデルというのが(まあ怪我なので仕方がないのだが)、黄瀬よりも背が高いような男だった。モデル仲間を当たってもそんなに高身長でなおかつ日曜にスケジュールが空いている人はいなかった。納得だ。しかし衣装はもう用意されているわけで。
そこで黄瀬はあろうことか俺の写真を関係者に見せた。これだけでもふざけるなと言いたいところなのだが、見せられた方も余程余裕がなかったのか俺を連れてこいと黄瀬に頼み込んだのだ。こんな一般人を。
黄瀬からは男性向けの雑誌で真面目系という紹介を受けたものの、元来目立ちたい性分ではないためすぐさま断ろうとしたのだが。「この仕事、ちょっと給料弾むんスよね」と呟きが聞こえ一瞬躊躇ってしまった。仕方ないだろう、大学生など大概生活を切り詰めているものなのだから。
そして追い討ちをかけるように、「そういや俺、最近グルメ番組に出たんスけど。日本一美味しい和菓子の店って緑間っちなら知ってるよね」と。お礼にご馳走しても良いんスよ?と囁く黄瀬にいつの間にか俺は了解の言葉を返していた。
つまり、俺は餌に釣られたのである。

(どうすればいいのだよ…!)

幸い撮影は無事に済んだかに思えた。過去形。ところが最後の一枚だといったところで「緑間君、眼鏡外してみよっか」とカメラマンの中年男が意味の分からない注文をしてきた。しかし疲れてきていたので早く終わらせたいと、大人しく眼鏡を彼に渡してしまった俺はどうかしていたのかもしれない。ついでに裸眼になった俺を見て「緑間っちやっぱすげー美人っス!」と顔を近づけてきた黄瀬もどうかしていると思う。ついでにその様子を見て倒れた女性スタッフ数名も以下略。緑間君は受けなのねとか聞こえてきたが柔道か何かの話だろうか。失礼な。中学時代の柔道は黄瀬には八割方勝っていたのだよ。
最後の一枚も取り終わったところで、黄瀬がマネージャーに呼ばれて俺にしばらく待っててと言い残して駆けていった。それに軽く頷いて、俺も早く眼鏡を取り戻そうとしたところで愕然とした。
カメラマンどこ行った。部屋中見回しても、それらしき姿が見えない。もとから半径一メートル程度しか見えない視力なのだけれど、それでも声すら聞こえないのはおかしかった。
どうしようもないので近くを通りすがった女性に尋ねてみると、山村さんはもう帰りましたよと涼やかな声で返された。山村と言うのかあのカメラマン。許すまじ山村。俺の眼鏡を返せ。というか帰るの早すぎだろう、どれだけ忙しいのだ。
黄瀬を待って連絡してもらえばどうにかなるかもしれない。けれどそれよりも早急な問題が目の前に横たわっていた。つまりは、トイレに行きたかったのだ。三時間近く撮影をしていたので、流石にきつい。そして、そのときはトイレくらい裸眼でも行けるだろうと甘く見ていたのだ。
すぐに俺は知ることになる。この建物、とてつもなく広い。

(帰り道が分からないのだよ)

こうして今に至る。なんとかトイレに辿り着き用を足すことはできた。それはいいのだが。全く帰り道が分からない。白い廊下はただでさえ見にくいのにさらに殆ど何も見えない状態で、通りすがりの人に声をかけることすらままならない。
とりあえず、どこかに案内板のようなものがあればなんとかなるかもしれない。よく磨かれているのだろう、汚れのない真っ白な壁をじいっと見つめて歩き出した。壁沿いに行けばいつかは見つかるはずだ。

「おにーさん、大丈夫?」

「っ!?」

突然背後から肩をつつかれて、反射でびくりと背筋が跳ねる。それに驚いたのか、声の主だろう息を飲む音がした。そのまま彼の指先が頬を撫でてきて、俺が身体を強張らせると不安げに様子を窺ってきた。

「……平気です」

「ほんと?すっごくふらついてましたけど」

ああそうか、確かに壁に手をつき慎重に歩を進めていれば、明らかに具合の悪そうな人に見えるだろう。見ず知らずの他人に心配をかけてしまったのは誤算であるが、むしろこれはチャンスかもしれない。

「あの、すみませんがスタジオ4Aはどこに、」

「てかおにーさん、どこの事務所の人!?すっげえ、こんな美人いたんだ」

「は?」

しょっぱなから話を遮られ、自然と眉間に皺が寄る。特にその内容に。確かにこんなところを彷徨くのは九分九厘芸能関係の人物だろう。しかしこいつの口ぶりでは、俺を芸能人だと信じて疑っていないようだ。プロデューサーとかもわらわらいるだろう。どちらかと言うとそちらの方が似合う気がするのだが。
そしてさらに怪訝に思ったのが、美人というのは男に使うような言葉ではない気がする。黄瀬もそうだが、この業界にいる輩は皆感性がどこか変わっているのだろうか。

「生憎俺は一般人です。今日は知人の手伝いに来ただけですので」

男の言葉を直接否定すると、嘘っと間抜けな声が鼻先にかかった。

「こんな綺麗なのに!?」

「っ近い、です!」

ずいっと身を乗り出して顔を近づけてきた男の肩を軽く押す。初対面の相手で、しかも服装からしてモデルか何かだろう彼を力任せに振り払うのは少し気が引けたからだ。されど男は遠慮なしに、尚更近くで俺の顔を眺めだした。舐めるような視線に不思議と羞恥が沸き上がってくる。さすがにこの距離では相手の顔もよく窺うことができて、切れ長の瞳と整った鼻筋、艶やかな黒髪にこの男は黄瀬と同じような人間だと確信する。

「……なんだろ、おにーさん、綺麗だけど可愛いっすね」

「……は?」

ますます意味が分からなくなり手に込めた力を増すと、男はああごめんと素直に謝り身を引いた。綺麗で可愛い、こんな大男が?こいつも俺みたいにものすごく視力が悪かったりするのだろうか。

「で、おにーさんはどうしたんですか?」

「あ、ああ、」

どうにも釈然としないうちに話を振られ、思わずくぐもった声をだしてしまった。しかし案外真面目そうに尋ねられたので、大人しく成り行きだとか眼鏡のことだとかの事情を説明する。時折笑われたのだが今の話に笑うところがあったのだろうか。解せぬのだよ。

「てことは黄瀬クンの同級生?」

「ええ」

「じゃあタメじゃん!固っくるしい敬語は禁止な」

「はあ」

……この男、随分と馴れ馴れしくないか。不審に思うとそれが顔に出ていたのか、彼は心配しないでと笑った。こういう所にいる人間なのだから、確かにあまり警戒するのも変な気もするが。

「じゃあ黄瀬クンのいるスタジオね。任せといて」

「っ!?」

「見えないんだろ?連れてってやるよ!」

ところがいきなり腕を引かれて、軽く驚いてしまった。なんせ今は裸眼なのだ。相手の動きを読むことすら苦労する。

「……この手は?」

「いーじゃん。俺お前のこと気に入っちゃったの!」

いつの間にやら腕を掴んでいた掌は俺の掌に絡められていて。……まるで自分が幼い子供のようで落ち着かない。それでもこれはこいつなりの好意なのだと甘んじて受け入れる他なくて、事実こいつの助けなしでは戻ることすら叶わないのだから。





夜になって自室に戻り、一人で食べた夕飯を片付けようとした時だった。机の上に置いた携帯が小さく鳴いた。

『やっほー真ちゃん!黄瀬クンからメアド聞いちゃったのだよー♪』

……誰だこいつは。悪戯メールかと思い即刻削除しようかとしたが、黄瀬の名前が出ていたので寸でのところで思い止まる。差出人の欄には『高尾和成』と男の名前が記されていた。
高尾、どこかで聞いたことがあるような。こういうことは黄瀬に確認した方が早い。あいつももう仕事は終わっているだろうし、遠慮なく通話ボタンを押す。
あの後は大変だったのだ。あの男は俺を届けた後すぐに撮影始まる!と駆けていったし、黄瀬はまだマネージャーと話中だったらしくしばらく一人で待たされた。だから多少遅くとも黄瀬が疲れていようとも、夜中に電話くらいする権利はあるはずだ。

『緑間っち?珍しいっスねこんな時間に』

『高尾和成とは誰だ』

三回のコール音の後、聞き慣れた黄瀬の声が鼓膜に響いた。思ったよりも疲れてはいないらしい。さすが本業と言うべきか。
余計なことは省きなるべく端的に話す。生憎俺はだいぶ疲弊していて、一刻も早く布団に潜りたいのだ。

『ああ、高尾クンか。ごめんね勝手にメアド教えて。でも今日会ったんでしょ?』

『だから高尾とは誰なのだよ』

とりあえずあれは悪戯メールではなかったらしい。今日会った、と言うからには撮影の時話した若い編集者か、カメラマンの脇にいた男か、それとも俺を送った男か。どれだろう、どれもわざわざ俺のメアドを知る理由が思い付かないのだが。

『高尾クンなら、口で言うより見た方が早いっスね。今テレビつけれる?5チャンネル』

『ああ』

わけがわからないが、一応近くのリモコンを掴みテレビをつける。5チャンネル、と言われたまま、並んだボタンの中央を押す。

『っ!?』

『どう?見れたっスか?』

画面が切り替わった瞬間、思わず息を飲んだ。さらに頭がぐるぐる回る。
テレビに映し出されたのは、某有名な歌番組。そしてアップでテレビ画面を埋めている顔は、紛れもなく。

『あいつ…!』

今日、廊下で出会った男だ。まさかこんなに有名な奴だったとは。通りで名前を聞いたことがあるはずだ。
ソロの男性アイドルで若い女性に絶大な人気を誇る、と画面のテロップが親切な解説を添えていたがそんなことは今さら言われなくてもわかる。テレビなどに疎い俺でも名前くらいは知っている男。
黄瀬との電話を切り、先程のメールを確認する。黄瀬は嘘はつかないから、つまり、そういうことだ。
件のメールをスクロールすると、新たな文字列が絵文字を交えて浮かんでいて。

『今日は真ちゃんと会えて嬉しかったです。明日の放課後ヒマ?大学まで迎えに行くからさ、俺もっと真ちゃんと話したいな!
PS.真ちゃんってのはお前の名前からだよ!緑間真太郎クンっていうんでしょ?よろしく真ちゃん!』

……頭が痛い。キャパオーバーでなにもかも理解不能だ。真ちゃんってなんなのだよ。意味が分からないのだよ。
とりあえず、俺がとんでもないことに巻き込まれてしまったらしいことは疑うことのできない事実らしい。黄瀬には三回くらい奢らせよう。そうしなければ割が合わない。



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