※モブ保健の先生視点


「せんせーっ!大変ですっ、真ちゃんが倒れましたーっ!」

放課後の静かな保健室の扉が、蹴破ったのではないかと疑うほどの音と共に開かれる。休養中の生徒もないため一人使用簿を眺めていた私の元に現れたのは、危機迫った面持ちの男子生徒だった。

「倒れたわけじゃないのだよ……」

「あら、どうしたの?珍しいわね、緑間君が来るなんて」

走ってきたのか軽く汗を滲ませたその男子生徒は、たしか高尾君と言ったはず。うちの学校のバスケ部はかなり有名だから、試合によく出ている選手の顔くらいなら教師は全員知っている。
そしてその隣で引きずられるように入ってきたのは、同じくバスケ部レギュラーとして知れ渡っている緑間君だった。珍しい。
いつもはしゃきっと背筋を伸ばし、その高身長も相まって堂々とした印象を周囲に与える彼は、どういうわけか今は覇気がないように見える。高尾君に腕を引かれてはいるものの自立はできているし、会話もできるようだから幸い大事があったわけではないようだが。

「倒れただろ!」

「あんなの倒れたとは、」

「あー、ちょっと説明させて真ちゃん。倒れたかどうかは別として、お前けっこうひどく頭打ったんだから診てもらわないとだろ」

緑間君をなだめるように、高尾君が彼の頭を軽く撫でた。自分の言葉に反論する緑間君に少し安心したのか、高尾君は保健室に駆け込んできたときよりは落ち着いている。
対する緑間君は不服そうに鼻を鳴らしたが、心配そうに目を合わせてくる高尾君に返す言葉が見つからないらしくそのまま口をつぐんだ。

「じゃあ高尾君、何があったのか詳しく話してくれる?」

「はい。さっき部活に行こうとして廊下を歩いてたんです。そしたらいきなり近くの教室の扉がこっちに倒れてきて、真ちゃんは咄嗟に避けたんすけど、今度はそこに掃除用具入れが倒れてきちゃって。巻き込まれて床に頭から叩きつけられて、眼鏡まで歪んじゃったんです」

ほら、と緑間君の眼鏡を慣れた手つきで取り去って私に差し出す。たしかにフレームが見てわかる程度に曲がっていて、そうかこのせいで緑間君の足取りが覚束無かったのか。

「なるほど、分かったわ。しっかし運が無いわねえ。そんな事故そうそう起こらないわよ?」

「ラッキーアイテムが不十分だったのでしょうか……。亀の置物とだけだったので、これでは運気が足りなかったのかもしれません」

「おまけに蟹座十二位だったもんな。ま、こういう日もあるって」

僅かに落ち込んだ様子の緑間君の肩を高尾君がぽんぽん叩く。正直今の話の中身はちんぷんかんぷんだ。緑間君の手からちらりと覗く爬虫類の瞳が気になって仕方がない。
しかし私が気にするべきはそんなことではなくて、保健医としてはまず頭を打ったと言うことが問題だった。
頭部への打撃は重大なことへ繋がりかねない。今は大丈夫そうに見えても、念のため横になって冷やすくらいの処置をした方がいいだろう。

「とりあえず、緑間君は奥のベッドに来て。頭を打ったのなら、少し横になって冷やすわよ」

保健室の奥、カーテンに仕切られたスペースを指差す。高尾君が先に反応して、真ちゃん行くよと彼の手を引っ張った。緑間君も私の指示に依存はないようで、大人しく導かれるままベッドに向かう。
しかしなんだ、高尾君がなんだか過保護に見えてしまう。緑間君だって自分で歩けるのに、と思ったところで、そういえば私が彼の眼鏡を握っていたことに気づく。
ああそっか、眼鏡を私に預けたままだから彼は前がよく見えてないんだ。掌の上の分厚いレンズに、彼の視力が相当悪いと言うことを悟った。
私も備え付けの冷凍庫から氷嚢を取り出して、彼らの元へ向かう。ベッドに腰掛けた緑間君の頭の薄赤く染まった部分に氷の固まりを押し付けると、うっと痛みか冷たさかに耐える声が漏れた。

「ほら、早く横になりなさい。見たところ腫れも酷くないようだし、三十分くらい様子を見て大丈夫ならいいわ」

「っ……わかりました」

ぐっと腕に力を軽く込めると、緑間君はそのまま抵抗せずにベッドに潜った。ちなみに彼の規格外な身長では、布団の中でぎりぎり足を伸ばせるくらいだ。学校の備品だが、わりと大きめのベッドで助かった。

「真ちゃん大丈夫?痛かったり気持ち悪かったりしない?」

「ああ、それほどではないのだよ。むしろ氷嚢が冷たくてしみるくらいだ」

ベッドの脇の椅子に座り、心配そうに緑間君を覗き込む高尾君の手が氷嚢にかかった緑の髪を鋤く。指先が患部に触れたのか、ぴくりと緑間君がみじろいだ。
けれどそのまま慈しむように優しく頭を擦られると、文句を言いかけ開いた口は静かに閉じていった。不満げな表情であるものの、満更でもないらしい。
しかしまあ、最近の高校生って仲良いのねえ。私もまだおばさんとまではいかない年齢だけれど、私が高校生の頃はこんな雰囲気の男子はいなかったと思う。たぶん高尾君は女子にモテるタイプだな。

「そっか、良かった。ああでも部活は休めよ。連絡しとく」

「わかっている。こんな運勢の日に練習して変な癖がついたら堪らないしな」

髪を撫でる手を休めないまま、高尾君が釘をさす。運動部ならば休むというのは賢明な判断だ。二人は部活に行く途中だったと言うから、気にしていたのだろう。

「ところで先生、俺の眼鏡はどこでしょうか」

うっすら開いた緑の相貌が此方を見やる。途端に私は自身の手に握っていた彼の眼鏡を思い出す。今まですっかり忘れていた。

「ごめん、私が持ったままだったわ。でもどうしよう、この曲がり具合じゃかけたところで余計に曲がるわよ」

「そんなに酷いのですか」

「けっこうね。あ、そうだ。事務員さんに頼んで直してもらってこようか?丁度三十分くらいあればやってくれると思うけど」

怪我のついでに眼鏡を壊してやって来る生徒は案外多いもので、その度に軽度の損傷なら事務員さんが工具でどうにかしてくれていたのを思い出す。丁度良い、この時間ならまだ事務員さんも学校にいるだろうし。

「すみません、お願いします」

「いいわよ。じゃあちょっと私行ってくるけど、高尾君、緑間君と一緒に残ってもらっていいかしら?一人にして万が一何かあったら大変だしね」

恐らく大丈夫だろうけど。一応高尾君に留守を任せようと彼の方を向く。
高尾君はよほど心配なのか、右手は緑間君の頭に触れたままじいっと彼を凝視していた。どうやら私が想像する以上に高尾君は緑間君を大切に思っているみたいだ。その視線には心なしか一種の熱が込められているようで、そう、まるで恋人に向けるような。
……うん、私何考えてるんだろ。さすがに今のはおかしいよね、うん。

「お安いご用っすよ。真ちゃんも俺がいたら安心だよな?」

「いないよりはまし、なのだよ」

私の問いかけに屈託のない笑顔で答える姿に安堵する。そうよね、そんなはずないじゃない。生徒相手になんてこと想像してんの私。
緑間君も軽口の応酬に及ぶだけの元気はあるようだ。端から見ても、彼の言葉が本音じゃないのは分かるし。そんなところはまだ抜けきらない子供らしさが滲んでいて、かわいいものね。

「それじゃ、私は行くわね。眼鏡預けたらすぐに戻ってくるから、誰か来たら待たせといて」

もっとも、この時間に新しい患者が来ることは殆ど無いけれど。
ひでえよ真ちゃん、と項垂れる高尾君は頬を膨らませながら文句をたれている。それでもつれない緑間くんに、高尾君は患部に触れないあたりで髪をわしゃわしゃ掻き回した。
すかさず緑間君がやめるのだよと片肘をついて起き上がろうとしたのだが。こら寝てなきゃだめだろと高尾君が慌てて肩を押す。緑間君は反発しようとするが、半分寝転がった体勢と怪我の鈍い痛みのせいかあまり大した抵抗も出来ずに、そのまま高尾君にのしかかられるようにベッドに沈んだ。なにやってんだか。
本当は保健室で暴れるな、ってとこだけど、ひとまず元気な様子が見られたから許してあげよう。
高尾君は本気で緑間君のことを案じているようだ。危ないから起き上がらないでなんて手まで握っちゃって、あながち恋人みたいだっていうのも間違いじゃないかもね。
緑間君は今ので少しぐったりとしていたが、高尾君はそんな姿すら愛おしそうに見つめている。本当に仲良いのね、あなたたち。

「じゃ、後は任せたわ」

カーテンを捲り、仕切られた空間を後にする。中ではまだ何やら話しているみたいで、仲が良いことだ。
こっそり会話の内容に耳を傾ける。この様子なら任せても心配なさそう、

「てか真ちゃん、今日はやけに俺にも従ってくれんのね」

「……別に、お前の言うことは正論だろう。それにこんな状態では、抵抗などしても無駄だからな」

「……やっべ、弱ってる真ちゃんまじ据え膳なんだけど」

……ごめん、やっぱりすごく心配だわ。




とある保健医の証言




(とりあえず、聞き間違え、……ってことにしておこう)





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