たとえばそれは、なんでもないような日だった。唸るようなエンジンの音がすぐ近くから聞こえてきて、俺達は慌てて唇を離した。






夏もじきに終わりを告げる。
夏休みは暫く前にもう明けていたが、暑さの厳しいうちは夏と定義付けてもいいだろう。その暑さが最近になってようやく陰りを見せてきた。バスケの練習にも熱が入る時期だ。もっとも、どんな時だろうと手を抜く者など俺のチームにはいないのだが。大方気分の問題だろう。
そんななか、俺達の練習を唯一妨げることのできる障壁、ようは中間テストが迫ってきた。当然のように部活は停止。バスケができないのは辛いが、学生の本分は勉学なのだから不服はない。
今日も学校が終わった。いつも通りの、それなりに目まぐるしい一日だった。
そして俺達は帰路につく。いつもは部活の後も居残りで練習に励んでいるため、明るいうちに帰るというのは珍しい。
そしてそれは、いつものように高尾と歩く道であっても違ったものに見せてくるのだ。

「真ちゃん、難しい顔してどしたの」

高尾の声が雑踏のなかで辛うじて聞こえてきた。まだ日が昇っているうちの通学路は、多数の生徒で埋めつくされている。気を抜けば俺もその波に呑み込まれてしまいそうな程に。
そのなかには、ちらほらと仲睦まじく肩を寄せ合い、ときには手と手を絡めながら歩く男女の姿があった。互いに緩みきった顔で、…幸せそうな顔で。
白昼堂々よくもまあそんなにいちゃついていられるものだ、と思ったが、それは羨望にも似た感情であることは自分が一番よく理解している。

「少し考え事をしていただけなのだよ」

その感情が心のなかをぐるぐるぐるぐる、抑えの効かない歯車のように回るのだ。感情の抑制は人間の持った能力のひとつだというのに、我ながら情けない。しかしどうしようもない悩みであるのも確かなことで。
高尾は納得したのかしていないのか、ふーんとまた前を向いて歩き出した。それを良いことに、頭ひとつぶんは下にある後頭部へそっと視線を送る。そして自分の掌を軽く翳して見比べてみた。
やはり、こいつは男なのだ。こいつも、俺も。
俺と高尾は、本来ならば男女がなるはずの、所謂恋愛に定義付けられる関係だ。この関係に不満はない。ましてや後悔なんて微塵もない。むしろ望んでこうなったのだから、喜ぶべき関係である。
しかし、俺達はもともと同性愛主義ではない。たまたま、偶然相手が高尾だっただけだ。結ばれたことすら奇跡と呼ぶ他ないのかもしれない。
つまりは、俺も高尾も、一般の常識というものを弁えているのだ。その咎が時折胸の奥を締め付ける。
前を歩く背中を眺めると、無性に不安になってくるときがあった。今もそうだ。何かを考えるにしても、幼い頃から刷り込まれてきた常識が邪魔をするのだ。

「あっ、高尾くん!ばいばーい」

「おー、また明日な」

見計らったのかと思う程のタイミングで、俺の知らない女子生徒が高尾の肩を叩いて去って行った。ぎりぎりと心が捻り潰されるような感覚がして、不安が加速する。
俺と違って交遊関係の広い高尾のことだ、きっと数多くいる顔見知りの一人なのだろう。我ながら心が狭いと思う。この程度でも、過剰に反応してしまうのだ。
高尾は、女性の方がいいのではないのか。今周囲を歩く幸せそうな連中のように、細い肩に腕を回して、回りに見せつけるように幸福に浸りたいとは思わないのか。
そう、思うのが一般的だと思う。俺は見た目も性格も、お世辞にも可愛いとは言えないだろう。男同士では当然、路肩で手を絡めることなどできない。
高尾は、いつか俺よりもずっと素敵な女性を見つけて、俺を見限ってしまうのではないだろうか。こういう光景を見るたびに、そう考えてしまう。
高尾を信頼していないわけではない。けれど、不安を拭えた試しがないのもまた事実なのだ。

「高尾っ…」

平静を装い此方に注意を惹き付けようとしたものの、つい切羽詰まった声音になってしまった。ん、と高尾が振り返る。俺は今、きちんと表情を保てているだろうか。

「どーしたの、真ちゃん。やっぱなんかある?」

高尾は笑っていた。微笑んでいた、というのが正しいのかもしれない。
いつもの高尾の顔だ、と内心安堵する。
普段は煩いくらいのその口が、今はどういうわけかつぐまれていた。俺が何か発するのを待っているかのように。
思わず名前を呼んでしまったが、実のところ話したい内容など全くまとまっていない。ようは、高尾の聴覚に残っているであろうあの女の声を、俺の声で上書きしてしまいたかっただけなのだ。
吐き気がするほどの独占欲など、俺らしくないというのに。

「いや、…なんでもない。気にするな」

口をついた言葉に、内心うんざりする。素直じゃないとはよく言われるし自覚もしているが、こんなときですら上手く伝えられないなんて本当に嫌気がさす。

「ふーん。ならいいんだけどさあ」

高尾の空返事に怒らせてしまったのではと余計に不安が増す。いきなり名前を呼ばれたあげく何でもないなど腹を立てて当然だというのに。

「なあ真ちゃん」

自己嫌悪のさなか、突然高尾の顔が歪んだ。にやり、という効果音がとてもよく似合うだろう。かと思えば、何処から捻り出したのかわからないような力で腕を強く掴まれた。

「何を」

「わり、ちょっとついてきてよ。俺にはちょっとあるんだよね」

するのだよ、と言い切るまえに遮られ、そのまま通学路の人混みを掻き分けながら進みだした。
男子高校生が手を繋いで闊歩するなどさぞ滑稽な光景だっただろう。好奇の目に晒されるのは御免だと離せと呟いたが、返事はなかった。握る力は変わらずに、振りほどけない。
いや、それはただの言い訳だ。振りほどこうと思えばいくらでもできるのだろうけれど、この腕に触れたままでいたかった。
見慣れた学生服の群れから飛び出して、少しだけ回り道となる路地裏までやってきた。ここまで来るともう学生は疎らだ。それでも高尾は止まらない。日差しの少ない路地裏を強引に進んでいく。

「よし、ここなら大丈夫っしょ」

住宅街から少し離れた高架下。光の殆ど遮られたそこで、高尾は足を止めた。あんなに強く握り締めていた腕も、いつのまにか宙に投げ出されている。

「…どういうつもりだ、高尾」

理解できない。何のつもりなのか。こんなところに来ること自体初めてだ。なにか用があるとも思えない。
「真ちゃん、気づいてないよね」

薄暗い筒状のトンネルのなかに足音が響く。高尾が一歩俺の方へと距離を詰めた。暗がりの中でも輪郭がぼやけない程の近さに、どこか意地悪く微笑む顔が浮かんだ。

「ずっとカップルばっか見てたでしょ。知ってたんだよ、俺」

高尾の切れ長の目が弧を描いた。かつん、音と共にまた一歩踏み出したらしい。それに合わせて退くと、背中に冷たい感覚がした。コンクリートの壁だ。

「苦々しい顔しちゃってさあ。羨ましかったの?」

「っ…!」

図星を突かれ何も言い返すことができなかった。高尾は、知っていて行動を起こしたのか。そうと分かると途端に羞恥が込み上げてくる。顔に熱が籠るのが手に取るようにわかった。暗がりであることが唯一の救いだ。
早く、何か言わなければ。沈黙はすなわち肯定に等しい。少なくとも高尾はそう捉えるだろう。実際高尾が言うことは間違っていないのだが、素直に認めるなど俺には無理だ。恥に耐えきれず死んでしまいそうになるに違いない。

「図星なんだな。真ちゃんも俺とああゆうことしたいんだ?」

「…ふざけたことを言うな」

言うことを思い付く前に先手を取られ追い詰められた。三日月を型どった目はあいかわらずにやにや俺を見つめてくる。
轟音を響かせながら突如トラックが一台走りぬけたのが高尾の頭越しに見えた。そうだ、ここは公道ではないか。此方を一瞬覗いた運転手は、この光景をどう思ったのだろう。
突然の乱入者に気を取られていると、不意に高尾の腕が延びてきた。頬に暖かい人肌が触れる。注意を一気に現実へと引き戻され、身を強張らせると高尾が静かに口を開いた。

「ふーん、まあどっちでもいいけど。でもこれだけは覚えといてね」

掌越しにに力が込められ、低い位置へと頭を運ばれる。それと同時に、無理に爪先立ちをした足が目に入った。
耳元に吐息がかかる。頬に触れた指先は、いつの間にか俺の唇をなぞっていた。

「高尾、」

「俺はね、真ちゃんとそーゆーことしたいと思ってるの。でも真ちゃんが嫌がるだろうからって我慢してんだからな。それをあんな顔されちゃあ、無理矢理にでもしたくなっちゃうだろ」

「おい高尾、」

「それと、やろうと思えばそんなのいくらでも出来ちゃうんだぜ?」

唇に、生暖かい感触。触れるだけのそれは、一瞬でそこから離れていった。
あまりに急すぎて現状が上手く把握できない。高尾は、今なにをした?屋外で、人がいつくるかもわからないところで、現にさっきだって、トラックが通ったところで。
しかし、一つだけ気付いてしまった。先程まで俺を締め付けていた蟠りが、跡形もなく消え失せている。まるで、高尾が全て溶かしたかのように。

「真ちゃんは、俺とこうするの、嫌?今なら誰も見てないよ。それに、俺は別に誰が見ていようと関係ない。なんて言われたって、真ちゃんを手放す気なんてさらさらないから」

高尾の声が耳元で反響する。聞きなれた高尾の声だ。
嫌なものか。ずっと、そうなることを望んでいた。
不安に思っていたことが馬鹿みたいだ。高尾といるだけで、こんなにも心が落ち着くというのに。

「俺も、お前を離す気など、ない、のだよ」

たどたどしく反復すると、整った顔を精一杯綻ばせた高尾が地面を蹴って飛びついてきた。弾みで背中を軽く壁に打ち付けたが、痛みは全く気にならなかった。
いつ人が通りかかるかわからないのに。車だって同じだ。頭では理解していても、高尾を引き離すことなど出来なかった。
結局、高尾は俺の心境を察知していたのだ。不安も焦りも、全て。当然高尾といえど超能力者ではないのだから、何も言わずに気持ちを察せるはずなどない。けれど、恐らく高尾は俺をずっと見ていたのだ。俺が自分勝手に悩んでいた間も。それだけで、胸の奥がじわりとするのがわかった。
常識外れと揶揄されるこの恋も、案外悪くはないかもしれない。たとえ回りに見せつけることが憚られても、二人で共有する空間はこんなにも心地よいのだ。
高尾の指先が再び頬に触れる。そして今度は緩やかに、柔らかいものが重なった。














真ちゃんだってまだ高校生なんだからぐだぐだ悩んじゃうときもあるよね!って妄想ですすみません。普段は男前なのにたまに高尾が絡むとあれこれ考えてでも強がっちゃう乙女ツンデレな真ちゃんにロマンを感じる…!高尾は真ちゃんしか見てないのにね、とか。高尾まじHSK!(これが言いたかっただけ)
真ちゃん視点むずかしい…!でもツンデレの心情を書くのは楽しいです。発言と八割方真逆。




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