猟師の心臓
 少しだけ開いた扉。それをくぐれば、迎えたのは鼻が曲がるような悪臭だった。
 日差しが今までいた建物にさえぎられて、ぼんやりとした明るさの室内をさらに霞ませるような強烈な臭いに、ジルは耐え切れずに口と鼻を手で覆う。

「すごい臭い…死体でも貯まっているのかしら」

 ウォルが言っていたゾンビだらけという言葉も、あながち間違いではないのかもしれない。これだけの臭いを充満させるにはそれなりの数の屍が必要になるだろう。
 鼻に臭いが付いてしまったような気がして、軽く指で鼻先をぬぐいながら俺はあたりを見渡した。
 廊下にはおびただしい量の血がまるで絨毯のようにして床を埋め尽くしていた。赤い足跡もちらほら確認できる。
 しかし、そこには違和感などという言葉では誤魔化しきれない“異常さ”があった。

「死体が、見当たらない」

 俺の言葉に、既に話す際に入ってくる量の臭いすら嫌なのだろう、ジルが口元を抑えたまま一つ頷く。
 先ほどから歩いている赤い廊下には、ゾンビの姿は一つもなかった。赤い足跡も、きっと壁に寄りかかって息絶えたのであろう痕跡も残っているのに、死体だけがそこにないのだ。

 代わりにあるのは、壁につけられた見覚えのある傷痕と、赤色の何かを引きずったような跡。いくつも見つかるその跡に、それが何を引きずった跡なのかは考えずとも分かった。

「集められているのね、死体が……」

 ぽつりと呟くようにして言葉を零したジルの顔色は、いつもより悪いものとなっている。
 大丈夫かと気遣いの言葉を掛ければ、当然のように大丈夫だと返ってきた。どう見ても大丈夫そうには見えない顔色だが、今はクロエの救出が最優先だと俺はその強がりに便乗した。

 それから特に話し合いをしたわけでもないが、俺たちの足は示し合わせたようにして引きずられた赤い跡をひたすらに追った。
 校舎の奥へ奥へと進めば進むほど立ち込める悪臭はさらに強烈なものとなり、さすがの俺も耐え切れずにとうとう手で鼻を覆う。

「……ジル、顔色が」
「大丈夫よ。これだけ臭いがきつくなってきているんだもの、目的の場所はすぐのはず。さっさと終わらせてこんなところ出ましょう」

 それが一番楽だわ、という言葉に俺は頷き足を止めることはしなかった。
 そして走るようにして跡をたどり、ようやく赤い跡は一つの扉の中へと姿を消した。俺は中にどんな悲惨な光景が広がっているのだろうか、と少しだけ見えた恐怖を口の中に溜まっていた唾とともに飲み込む。

「きゃぁぁあああああああ!!!」

 突如響き渡った高い悲鳴。聞いていて恐怖しか感じられない悲痛なそれが誰のモノか、俺は考えることなく口を開いた。

「リンの声だ!」
「あの部屋からだわ!」

 行きましょうとジルが続けるよりも早く俺は1歩目を踏み出していた。
 扉までの十数メートルをやけに長いと感じながら、荒々しく扉を開く。室内に飛び込んだ勢いそのままに銃を構えそして、部屋中を舐めるようにして銃口と視線を動かした。
 しかし、部屋にはリンの姿はなくただ赤が広がっているだけ。
 まさか今の叫び声はリンが――!
 ドクン、と胸がなり強烈な痛みが心臓を掴んだ。嫌な汗が、ドバっと噴出した。

「クリス、あれ」

 いつのまにか背後に回っていたジルに肩を叩かれ、ようやく俺はハッと息を吐いて、臭い酸素を肺に吸い込んだ。そうして今、呼吸を止めていたことを自覚する。
 落ち着け、これで取り乱してどうする。
 俺はもう一度臭い酸素を吸って吐き出すと、ジルが視線だけで示していた場所へと顔を向ける。
 そこには先ほどは取り乱して気が付かなかったが、半開きになった扉があった。音を立てないように近づけば、中からボソボソと話し声が聞こえてくる。

「――そんな屑達よりずっと価値のある人間だというのに」

 ぼそりと聞こえてきたのは、まさしくウォルの声で、俺は壁に背を預けて銃を握る手に力を込める。

 落ち着いて考えろ、状況をよく判断して行動しろ。一瞬のミスが命取りになる。

 訓練の際に耳にタコができるほどに聞かされた言葉を、高ぶる自分を抑えるために心の中で静かに復唱した。

「価値、のある人間……?」

 しかし、その努力も中から聞こえてきたその言葉によって一瞬にして無駄なものとなった。正確には言葉ではなく声、なのだが。
 リンの声だ。
 そう脳が理解してしまえば先ほどまで復唱していた言葉も忘れて俺はそっと扉の隙間から中を覗き込んだ。
 ジルが後ろから咎めるようにして腕を引いてきたので、俺は思わずそちらへ視線をやる。予想通りジルの眉間にはうっすらと皺が寄せられており、俺は唇だけで謝罪をした。

「おっと、どこに行くんだい?」

 先ほどと変わらないくらいの音量で聞こえてきたウォルの言葉に、俺は再び扉の隙間から中を見てしまう。ジルのいる背後からは、呆れたような溜息が聞こえてきた。
 扉の前にはいつの間にかリンの姿があり、彼女は必死に何かに掴まれた腕を引っ張っている。いや、何に引っ張られているかなんて、見なくてもわかる。ウォルだ。

「やめっ……!」

 多量の恐怖と少しの懇願が含まれた涙声に、ドクンと再び心臓が大きく動く。
 もう一度心臓が鳴り響く前に視界に映った、リンの腕に近づく注射器に俺は我慢できずに扉を開き、そして引き金を引いた。
 パリィンと響いた注射器が割れる音と、ジルの息を飲む音が重なったのを俺の耳は確かに感じ取っていた。
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