「リン、さん……?」
あった当初のようなおどおどした声色で、ウォルは俺の背後にいる少女の名を呼んだ。その顔は驚きを隠せないといったように目を見開いていた。
それは俺とジルも例外ではなかった。それもそうだろう、短い間だが一緒に行動していたリンが発する声だとは思えなかったのだ。
リンは何かを必死に抑え込むようにして俯いており、影の落ちた表情からは何も読み取れない。
やけに長い時間、シンと静まった部屋に呼吸だけが響いていた気がする。きっと現実は1分も、いや10秒すら経っていないだろう。ただ、その短い時間が何時間にも感じられるほど、その静寂は強烈に感じたのだ。
すう、とリンが空気を吸い込んだ音が、長く感じた静寂を終わらせた。
「ねえ」
吐き出されたのは、やはり先ほどと同じくらい冷え切った声。続けてリンの唇に名前を紡がれたウォルが、小さく肩を跳ねさせる。
「私、赤毛だからって訳の分からない理由で苛められてました。確かにこの野郎とか思ったことあります。でも、復讐しようなんて、一度も思わなかった」
それは何故か、そう尋ねながらようやくあげられた顔に感情は、ない。
俺はそこで初めて彼女を畏怖した。ざわざわと体中の毛が逆立つのを感じる。
ウォルと名前を言っているのにも関わらず、あの表情が俺を見ているような感覚に襲われ、喉がひきつった音を立てた。それは壁に反響することなく俺の口から出たとたんに溶けて消えたが、リンの表情を変えるには十分なきっかけだったらしい。
「私、オオカミになんてなりたくなかったから」
そう告げるのと同時に細められた目は、ようやく感情を表した。それは喜びでも、恐怖も、悲しみでもない。
目は口ほどにものをいう、とは日本人もよく言ったものだ。
頭の片隅でそんなことを考えてしまうほどに、彼女の細められた目が表しているのは軽蔑の色だけだった。
ひゅ、と誰かが息を飲む。
「嘘、だろ」
静寂が訪れる前にポツリと呟かれた声は、掠れ、震え、本人の顔を見るよりも簡単にウォルが絶望しているのだと感じさせた。それでも俺は相変わらず軽蔑の色だけを浮かべるリンだけを視界に入れ続ける。
どうしても、彼女から目が離すことができなかった。否、ここでリンから目を逸らしてしまえば、二度と埋められないような深い深い溝ができるような気がしたのだ。
ここを脱出したら、その後会うことはないだろうに、俺の全身がリンとの間にできるかもしれない溝を畏怖していた。
「リンさんは、優しいよね」
静かに告げられた声に、俺とリンの眉がわずかに寄る。彼女の瞳から見える感情に、苛立ちが含まれたのを見た。
ウォルが静かに言葉を紡いでいくにつれてその感情は色濃いものになり、ウォルの言いたいことがわからないのだと口を挟んだ声は、怒気を抑えきれず、若干棘が見えるものとなっていた。
ぐっと寄せられた眉、力の込められた胸の前の手。それは爆発しそうな感情を必死に抑え込んでいるようにも見える。
しかしそれも、続けられたウォルの言葉によって意味をなさなくなるのだった。
「僕が一人で研究室に行くといえば君が付いてくるのは手に取るようにわかっていたよ」
バッと、リンの表情が変わる。目は見開かれ、真ん中に寄せられ若干吊り上がっていた眉が今度は逆に頼りなく垂れ下がる。
その表情を視界にとらえ、俺はようやくリンから目を離し彼女が先ほどからずっと見つめているウォルへと視線を移した。
ウォルは血の止まらない腕を抑えることを既にやめ、俯きながら静かに肩を震わせている。
その震えが悲しみからでないこと俺が気が付くと同時に、部屋に響いたのは怒りに満ちたウォルの声だった。
「これで終わりさぁあアア!!!」
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