息を切らして走っていた。バクバクと鳴る心拍音がやけに大きく聞こえてきて、心臓が耳についてしまったのではないかと思う。
足がもつれるが、それでも止まることなんてできない。後ろを振り返ることも、恐怖で出来ない。
ただ必死に足と手を動かして橋を渡り、門を潜り、そして目の前に見えた小屋へ駆け込む。扉を閉め、その扉に背を預けてズルズルと座り込んだ。
はっはっと上がった荒い息が、やけにその場所に響く。
ちらりと自分の体を見れば、いつの間にか擦り傷だらけになっていた。手当てをしようにも、あいにくコスメポーチはあの部屋で見たきりだ。
現状に思わずため息を吐いて、そっと膝を抱えた。
「アシュリー……」
*******
アシュリーと出会って数十分もしないうちに、ソイツは現れた。
「サ、ドラー……」
ガチャリと不意に開いた鉄の扉。鍵がかかっていたはずのそこから姿を現したのは、長いローブで体を包んだ男だった。
カツカツとした足跡と、ローブを引きずる音、最後にトンと杖の先が床を叩いた音が部屋に響く。
「おぉ、覚えていたか。嬉しい限りだな。最後にあったのは6年前だったか」
懐かしいな、と笑うサドラー。ギリッと奥歯を噛み締め嫌悪感を顔に出せば、彼はやれやれと言わんばかりに首を横に振った。
「まだこの村にいたんだ」
「サチエ、コイツ知っているの?」
コイツ、と指を指したのは未だ開いたままの扉の前に立つサドラー。彼はアシュリーの言葉に反応するように、視線を私の後ろへとずらした。
「これはこれは、グラハム嬢。ご機嫌はいかがかな?」
ニタァと浮かべられた笑顔に、アシュリーが嫌がるように身を縮めたのが分かる。
反射的に私はアシュリーを隠すように彼女の前に立ち、近くに落ちていた角材を構えた。
「まさか、この子を誘拐したのって……」
直感でしかないが、確信にも近い予想を投げかければ、サドラーは浮かべていた笑みをさらに深くした。同時に体中をゾワリとした感覚が襲う。
いつの間にか私の服を掴んでいたアシュリーの手にも、少し力が篭った。
「いかにも。わがロス・イルミナドス教団が直々にこの村に招待させていただいたのだよ」
「この村にそんな胡散臭い宗教はいらないって、昔から言っているでしょ!」
思わずカッとなり声を荒げてみれば、目の前の男は至極楽しそうに肩を揺らし始めた。くつくつと笑いを堪えるような音も聞こえ始める。
「あぁ……それはどうだろうか」
サドラーが体を横にずらした途端、言葉を失った。
彼の後ろで開いたままだった扉から入ってきたのは、知っている顔ばかりだった。隣に住んでいたおじさんや、料理を教えてくれたおばさん。そして――
「父、さん……?」
いつも使っている農具を手に入ってきた姿は、確かに父だった。しかしその目は娘を見るような目ではなく、赤く色づいた殺気の篭った恐ろしいものになっている。
思わず後ずさり呆然とするが、次第に腹のそこから湧き上がってきたのは今までに感じたことのないような怒り。体中の血が沸騰したのではないかと思うほどに体が熱くなり、角材を握る手に無意識に力が篭った。
「父さん達に何をしたの!?」
「何をした?これはこれは心外だな。彼らは自らの意思で我が教団を信仰しているのだよ。まぁ――少し手は加えてはいるがね」
「――ッ!サドラーッ!!」
初めて殺意というものを抱いた瞬間だった。
ただ本能のままに角材を両手に構え、ニヤニヤとした笑みを浮かべたままのサドラーに飛び掛る。声を上げて振り下ろした角材はブンッと音を立てて空を斬った。
チッと舌打ちを漏らし、今度こそ、と再び角材を振り上げる。――しかし、その腕が振り下ろされることはなかった。
「父さん!?」
突如動かなくなった体に驚いて振り向けば、私の体はいつの間に背後に回っていた父によって取り押さえられていた。しかも、それに続くようにおばさん達も私の体を取り押さえにかかる。
私を動かすまいと加えられる力は、異常な強さだった。普段農作業をしているから、などというそんな理由では片付けられない。
父に捕まれた肩がミシリ、と音を立てた。
「痛ッ……!?や、やめて、目を覚まして父さん!!」
必死に訴えてみるが父の力が弱まることはなく、むしろ徐々にと強くなっていく。じわりと涙が瞳の淵に溜まった。
その光景を至極楽しそうに見つめるサドラーが視界に入り、ギッと睨み付ける。
「あぁ、父の躾というものはなんと厳しいものか」
「煩いくそじじい!父さんたちに何をしたの!?元に戻して!」
ゆっくりと近づいてくるサドラーに、噛み付くようにして怒鳴りながらまだ自由に動く右足を目一杯振り上げた。その足はむなしく空を斬ることになったが、プライドの高い彼を怒らせるには十分だった様だ。
スッとサドラーの目が細められ、同時に右頬に鋭い痛みが走る。アシュリーが小さく声を上げた。
「ふん、昔から可愛げのない娘め」
殴られたときに口の中が切れたのか、ポタリと床に垂れた赤い斑点を見ながら低くなった声を聞く。
娘がこんな目にあっているのにも関わらず何もしないだなんて、この人は本当に私を可愛がってくれたあの父なのだろうか。
チラリと横目で確認するように見やれば、相変わらず殺気を湛えた赤い目と目が合った。しかしどんなに恐ろしい目をしていても、その顔は父のもので。溜まっていた涙が、再び床に垂れた赤を追うように瞳を離れた。
「可愛そうな娘よ……。安心するがいい、すぐに父と同じにしてやろう――連れて行け」
抑えられていた体が、サドラーの一言で今度は後ろへと引かれた。持っていた角材もいつの間にか床に落ち、強い力に逆らえるわけもなく、ただもがきながらも部屋の外に連れ出されていく。
「サチエ!サチエ!ちょっと、サチエに何するのよ!離しなさいよ!」
慌てて立ち上がったアシュリーが、サドラーによって押さえつけられているのが視界の端に映った。続いて聞こえてきた悲鳴に、引っ張る痛みに耐えながら顔を向ければ床に倒れこんでいるアシュリーの姿を見つける。
「アシュリー!アシュリー!」
叫んでみれば僅かにアシュリーの体が動いたが、やがてその姿もサドラーのローブに隠されてしまう。もう一度名前を呼ぼうと力むと同時にフワリとした浮遊感が私を襲い、父の肩に担がれていた。
「やだ……!降ろして、降ろして父さん!アシュリーが!アシュリーが!」
バシバシと叩いてみるが父はそんなことを気にした様子もなく、私を担いだまま黙々と梯子を降りていく。他の村人にも視線を送ってみるが、殺気だった目で睨み返されるだけで話を聞いてもらえそうにはない。
本当に皆は何をされてしまったのだろうか。
顔を上げた先に見えた教団の紋章に、確かな恐怖を覚えた。
ギィと音を立てて後ろの方で扉が開く音がする。どうもがいても、降ろしてもらえることはなく、私は再び顔を上げてアシュリーが居るのであろう部屋に向けて声を張り上げた
「アシュリー待ってて!絶対に助けるから!待ってて!」
聞こえただろうか。返事は、返ってこなかった。
外に連れ出されて数分もしないうちに、私の体は銃声と共に地面に叩きつけられた。
打ち付けた顎やら膝の痛みに歪めた顔を上げた先にあったのは、真っ赤なチャイナドレス。正確に言えば、ソレを来た東洋系の顔立ちの女性だった。彼女の手には真っ黒な銃が握られており、先ほどの銃声は彼女が発したものだということが分かる。
彼女の放った銃弾が打ち抜いたのは私を担いでいた父の足だったようで、彼は私の近くで足を抑えて呻いていた。
思わず駆け寄ろうとすれば、再び鳴り響いた銃声と共に私の足元に銃弾が打ち込まれる。
「何しているの、逃げなさい!」
驚いた顔をしている私にそう声を荒げた女性は、素早く移動しながら私を背にして再び銃声を鳴らした。今度はいつの間にか包丁を逆手に構えていたおばさんの手を確実に打ち抜いている。
「おばさん!?あ、貴女なにするんですか!」
「何もしなかったら殺されるわ。此処の人間にもう理性なんてものはないのよ」
背中越しに言われた言葉に、どういうことだと眉を潜める。しかし女性はそれに構う事無く、今度は的確におばさんの頭を打ちぬいた。思わず、小さく叫び声を上げて目を逸らす。
「足止め位してあげるから、その間に貴女は逃げなさい」
そういって後ろ手に差し出されたのは、恐ろしく鈍く光る一丁のハンドガンだった。
こんなもの受け取れない、と告げると無理やり手に握らされる。手になじまないそれは見た目に反してやけに重たいものだった。
「護身用に。使い方は?」
「わ、わかります、けど、でも……!」
「死にたくないなら、今だけでも現実を受け止めて逃げたほうがいいわよ。現実逃避は村を脱出した後にいくらでも出来るわ」
それはやけに胸に刺さる言葉で、再びジワリと涙が滲むのを感じる。
タァンッと再び鳴り響いた乾いた音を合図に、女性は背中で私を軽く押し、私もそれを皮切りに走り出した。
慣れ親しんだはずの村が、知らない村にしか見えず、恐怖と不安で胸が一杯になっていく。
背後で乾いた音が何度かしたが、私は耳を塞いで聞かなかったことにした。
*******
村の外へと繋がる橋へ向かっている途中の小屋で、母の亡骸を見つけた。鋤で顔を刺され、小屋の壁に貼り付けにされていたのだ。
ただでさえショッキングな光景にさらに止めを刺したのは、母を貼り付けにしていた、その鋤。
柄の部分に刻まれた名前は、間違えるはずもない父のものだった。母は、父に殺されたのだ。
ショックを受け止めることも出来ず、それでもフラフラと向かった村の出入り口の橋も、何故か落とされている始末。
――もう、この村から出る手段はない。
ガタン、と音がして私は顔を上げた。耳を澄ませば、小さいが男の話し声が聞こえてくる。
まさか、此処にも父たちのようになってしまった人たちがいるのだろうか。それとも、私と同じようにまだ正常な人なのか。
冷や汗が流れるのを背中で感じながら、私は右手に納まっていた銃を握りなおし、そっと立ち上がった。
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帰ってきたら皆おかしいって、現実逃避したくもなりますよね。
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