船に残っていたラストの銛がこちらに向かってきていたデルラゴの頭に、深々と刺さっていた。痛々しい叫び声を上げながら、その大きな巨体が濁った湖にゆっくりと沈んでいく。登場したときとは違う波に揺られる船。
デルラゴが起こした水しぶきに濡れはしたが、お互いに無傷だったことに思わず安堵の息を吐いた。
「お見事でした」
「君の操縦のおかげさ」
ありがとうと頭を撫でられ、私はまた頬に熱が集まるのを感じる。熱を持っているのを悟られないように下を見た。
視線を落とした船底は、先ほどデルラゴと死闘を繰り広げている間のしぶきでも入ったのか、船の中で数センチほど溜まった水がちゃぷちゃぷと音を立てていた。
ほうっておけば船も傷んでしまう。使い物にならなくなる前に掻き出さなくてはと思い船底を見渡し、少し溜息が零れてしまった。
どうやら私達が無傷な変わりに船は重症を負ってしまったようだ。よく見れば船のいたるところに亀裂が走っており、そこからも少しずつ水が入り込んできている。しぶきが溜まって入った水だけではないようだ。
しかし生憎、私は船の修理は出来ない。この船は残念だが廃棄になってしまうだろう。
そう、再び溜息を吐いたときだった。
「サチエ!」
私の名を叫んだレオンが、斜めになった。――いや、乗っている船自体が傾いたのだ。
一体何故?そう思ったときには身を刺すような冷たさが全身を包み、見開いた視界は汚らしい色で染められる。ゴポゴポという水泡の音が鼓膜をくすぐった。
このままでは溺れてしまう、と無意識にもがけば、遠くに棘が生えたような大きな物体が見える。
あぁ、デルラゴか。ならば反対に泳げば水面にいけるのではないか。そうは思ったが、急に落ちたせいで既に私の肺に空気なんてものはなく、苦しさに開けた口からは、なけなしの気泡がでてどこかに行く。
徐々に薄れ行く意識の中、濁った水の中でも輝く糸の束と大きな手だけが見えた。
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伸ばした手は、空を掴んだ。バシャン、と水しぶきを上げて、目の前の体はデルラゴの沈んだ湖に吸い込まれていく。サチエが完全に落ちるのと同時に、傾いていた船が体制を持ち直した。
まるで彼女だけを落としたかったみたいじゃないか、と自分の乗っている船を睨めば、なるほどデルラゴと繋いでいた縄が変に船に引っかかり傾いたようだ。
あまりの偶然に舌打ちをしながらも再び濁った湖に視線を落とせば、ぼんやりと彼女の輪郭が見える。
「クソ!」
1人そう悪態づいて、レオンはサチエを追って冷たい湖へとその体を投げ込んだ。
視界良好、とはお世辞にも言えない濁りきった水中。それでも、底へ底へと沈んでいく彼女を見つけるのは案外簡単だった。ゴポッと音を立てて、大きな泡が彼女の顔付近から上ってくる。きっと、もう息が続かなくなってきているのだろう。
レオンは急いでサチエの元まで泳ぐと、タイミングよくこちらを振り返った。しかしこれは、レオンのことを見ているのだろうか。彼女の目は虚ろで――いや、そんなことを考えている暇はない。
レオンは急いで彼女の腕を掴み、自分の下まで引き寄せた。既に目を閉じてしまった彼女の顔色は、水中の濁りと相まってかなり悪く見える。
これは急がなくては不味いのではないか。
焦りを抑えることもせずに、レオンはサチエをしっかり抱きかかえ、水面に向かって急いで水を蹴った。
いつの間にか船も完全に転覆しており、レオンがサチエを抱えて目的の岸に付く頃には既に彼の息は荒くなっていた。
ハァと荒い息を繰り返しながらも、すぐさま地面に寝転ぶ彼女を近くで見つめる。
綺麗な黒色の前髪をどかしてもピクリとも動かない瞼。生きているのか心配になり、胸に耳を当てれば柔らかい感触の向こうに、小さくだが微かに鼓動の音が聞こえた。
良かった、と安堵の息を吐くが、すぐに彼女の胸が上下していないことに気がつく。水を飲んでしまったか。
レオンは胸に当てていた顔を上げ、すぐ近くにあるサチエの顔を見つめる。薄く開いた唇から息が漏れることはない。
「……すまないな」
聞こえていないのは分かってはいるが、念のためにポツリと謝り、レオンは薄紫に染まった唇に自分のソレを押しあて――
「ゲホッ!」
2人の唇が、もう数ミリでくっついてしまうのではないかという距離で止まった。レオンが閉じかけていた目をしっかりと開けば、下にいるサチエが咳き込んでいるのが目に入る。数回苦しそうに咳き込んだ後、瞼が震え、ゆっくりと持ち上がった。
「れ、おん、さん……?」
そう呟いた彼女は、水中にいたときと同じくうつろな目をしている。しかし、それでもレオンのことは見えているようで、間近にある黒い瞳は、確かにレオンのことを映している。僅かに動かした黒目は、目の前の存在を確認していた。
やがて何度かレオンの姿を視線で撫でるように確認した後、サチエの目は再びゆっくりと閉じられる。今度は、しっかりと息をしたまま。
胸が上下しているのに安心し、レオンが彼女を抱えようとしたときだった。
「グッ……!?」
突如襲ってきたのは、激しい吐き気。そして続くように眩暈がレオンを襲う。勢いよく襲ってきたソレは、徐々に彼の体を蝕んでいく。
流石に、こんな所で二人して倒れてしまうのは危険すぎる。
しかしそうは分かっていても、突然の不調は治まることはなく、レオンは仕方なく残った力を振り絞りサチエを抱きかかえると、近くにあった建物に転がり込んだ。
安全を確認する事無く入った建物には、運良く敵のいる気配はない。レオンはふらふらとした足取りでサチエを近くにあったベッドに寝かせた。
安らかな寝息に、思わず安堵の笑みが浮かぶ。
しかし、その間もレオンを襲う突如とした不調は治まることを知らず、確実に彼の意識を奪っていった。
途端、バタンと大きな音を立てて世界が横になる。あぁ、倒れたのか、と思ってしまえばそこからはとても早急だった。音が遠くなり、手足の感覚がなくなりやがて瞼も落ちていく。
世界が真っ暗になる直前、レオンの口から漏れたのは黒髪の名前だった。
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人工呼吸も個人的にキュンするのですが、おあずけも好きです
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